片道一万五千円の座席に座り、ふと息を吐く。わたしは今、羽田―那覇間をフライトをしている。二週間前に届いた航空券は沖縄に住む友達から送られてきたものだ。立て替えといたから、というメモが入っていて、逃げ道を塞がれたわたしにこの飛行機に乗らないという選択肢はなかった。

「こんなもんかぁ」
 
 座席前のテーブルの上に置いた文庫本はさっき空港で買ったばかりだ。栞代わりに挟んだ航空券を見つめる。昔はこれが欲しくて仕方なかったのに、成人を迎えた今じゃ簡単に手に入る。
 往復三万円。安いとは言えないけれど、一人暮らしの生活費や交際費を差し引いても、払えない額じゃない。バイトで稼いだお金はあるし、そもそも無駄遣いはしないタイプだ。空を自在に飛ぶ飛行機は、およそ二千キロをたった二時間三十五分で埋めてしまうと思えば、一万五千円は妥当な値段なのだろう。中学生のわたしなら考えられなかった価値観の変化に自分でも笑えた。
 
「はいさーい!名前、久しぶり!元気だったば〜?」
 
 成人式の夜、そんな電話をかけてきたのは沖縄時代に仲良くしてくれていた友達だった。わたしたちは今でも文通をする仲なのだ。彼女から送られてくる手紙はいつも外国風の良い匂いがしていて、彼女の爪先みたいなカラフルなペンで書かれていた。どことなく気取った雰囲気のある彼女らしい手紙がわたしは好きだった。
 
「そっちは同窓会とかなかったの〜?」
「あるにはあるけど、参加するほどじゃなかったから。わたし、高校は私立だったし、仲良しの子は同じ地域じゃないんだ」

 成人式後の飲み会から帰ったばかりだと言う彼女の声は陽気に弾んでいた。懐かしさと、気にかけてくれた嬉しさにわたしの声も自然と弾んだ。
 同窓会の最中、わたしの話題が出たから電話してみたのだと彼女は笑う。小学校と中学校を合わせても一緒に過ごした日々が二年にも満たないわたしのことをみんなが覚えていたなんて。驚いていると、彼女は当たり前やし、と呆れていた。懐かしい沖縄訛り。
 
「ソータと付き合ってたでしょ。そりゃみんな覚えてるって」
「あ……あーそう、だね」

 わたしはおこがましいことに、沖縄で過ごした二年弱のうち、一年間はソータくんの彼女だった。覚えられていたのは、わたしという個人ではなくて中学時代のソータくんの彼女のうちの一人だからだろう。
 
――ソータくんは元気?今、何してる?
 
 そう聞きかけた自分に驚いた。自ら終わらせたくせに、隠したくせに、忘れようとしたくせに。何を聞こうとしているのだろう。
 ソータくんを気に掛けられる立場にもうわたしはいないのに。何を今さら。そもそも、わたしはもう「ソータくん」と呼べる立場ですらないのだから。
 
「ねえ、そっちの大学の春休みいつから?」
「二月の真ん中くらいかな?」
「こっちと一緒やんに。ちょうどいいから、三月にこっちにおいでよ。今度また集まることになってるから」

 なにがちょうどいいのだろう。戸惑うわたしを知ってか知らずか、彼女は続ける。
 
「ほら、六年ときに埋めたタイムカプセルあるでしょ。カプセルって感じでもなかったけどさー。あれを掘りに行こうってなったんだよね、今日の同窓会で」
 
 タイムカプセルを埋めたのは覚えている。当時のわたしにとっての宝物と、二十歳の自分へ向けた手紙をタイムカプセルに入れたことも。もうどんなことを書いたのかは忘れてしまったけれど、ソータくんの夢を応援していたことは覚えている。お揃いのイルカのキーホルダーを大切に仕舞ったことも。
 成人を迎えた今、ソータくんは夢を叶えられただろうか。それをわたしが知ることはできない。
 
「泊めたげるから、おいでよ。小学校、廃校になったから早く行かないと工事とかで潰されちゃうかもだし」
 
 彼女にはもちろん会いたい。小学生のときの友達だって。懐かしい母校が潰れる前に、もう一度行きたい気持ちだってある。
 でも、と渋っていると、彼女ははっと小馬鹿にしたように笑った。すべてお見通しだとでも言うようだ。
 
「もしかしてソータのこと気にしてんの?」
「うっ……だって、ソ…宮城くんも、来るでしょ」
「当たり前やし。ソータがいてこその久浜三小やんに。そもそも、中学のときに別れた彼女のこと、ソータが今も気にしてると思う?あんたもなかなか思い上がんねー」
 
 嫌味っぽくキツい言葉を吐く彼女に、「らしさ」を感じて苦笑いが漏れた。言われて当然のことだ。
 
「思い上がりっていうか……嫌な別れ方、したから。嫌われてると思う。きっと宮城くんはわたしの顔なんて見たくないよ」
「はあ〜?ソータがそんなやつじゃないことくらい、あんたが一番よくわかってんじゃないの?それとも、もうどんなやつか忘れたば?」
 
 忘れるわけない。忘れられるわけないよ。そう言えたらどんなに楽なのだろう。
 今もまだ、実家のクローゼットの奥にはわたしが隠したソータくんとの思い出の数々は捨てられずに眠っているのだから。
 本当は会いたい。今、何をしているのか知りたい。声を聞きたい。でも、そんなことをわたしは思ってはいけないから。
 
「……でも、行けないよ。宮城くんに会わせる顔ないもん」 
 
 いつまでも渋るわたしにとうとう痺れを切らした彼女は「チケット買って送るから!来たときにお金返してねっ」と言うと一方的に電話を切った。
 耳横でツーツーと鳴る不通音に目を瞬かせる。チケットを送る?まさかね。その時のわたしは酔っぱらいの冗談だと思っていた。そう、二週間前までは。
 届いた航空券とメモを手に大慌てで電話をしたわたしに、「みんなに名前来るって言っておいたから。ドタキャンはなしね」と電話口の彼女は意地悪く笑っていた。

 それから慌ててバイトの調整をしたんだっけ。ここまでされると断れないタイプなことを彼女には見抜かれているのだろうな。二週間前の出来事を思い出して、つい乾いた笑いが漏れた。
 機内アナウンスが着陸に近づいていることを知らせる。窓の向こうでは鮮やかな青空が広がっていた。
 三月の沖縄はうりずんの季節だ。
 
 
 
 那覇空港からの道程はキャリーケースを転がして戸惑いながら進むしかなかった。なにせ、中学生以来の沖縄だったし、そもそも住んでいたのはこの辺りではなかった。

「どうせなら迎えに来てもらえばよかったかな」
 
 どうにか辿り着いた高速バスターミナルのベンチに座り、独りごちる。強引にここまで連れてこられたようなものなのだから、少しくらいわがままを言えばよかった。むっとした顔を作りながら腕時計を見る。バスの到着時刻まではまだまだかかりそうだった。
 
 この時期の沖縄といえば、苦い思い出がある。駆け落ち未遂の件だ。
 東京に転校することがわかった週の土曜日の夕方、わたしはソータくんを連れて遠くへ行こうとしたのだ。あのときのわたしは間近に迫る「転校」という現実から逃げたくて仕方なかった。
 お小遣い全部と、お母さんがタンスに隠していたへそくり、お父さんが鞄に入れそびれた小銭入れをビニール袋の中にかき集め、作った旅の資金とありったけの着替えを部活用のエナメルバッグに詰めてわたしは家を飛び出した。そして、部活終わりのソータくんを待ち伏せして、驚く彼の手を引いた。

「ソータくん、一緒に博多に行こうよ」
 
 お金ならたくさんあるんだ、とビニール袋に詰め込んだお金を見せると、ソータくんは理由も聞かずに「わかった」と頷いてわたしの手を握った。転校を知ってから毎日泣いて縋り付いていたから、ソータくんは聞かずともわたしがしようとしていることを察していたのだと思う。
 わたしたちはまずローカルバスに乗って高速バスの乗り場を目指すことにした。そこから高速バスに乗り換え、那覇空港まで行き福岡空港まで飛び立つ予定だ。
 近場のバス停まで行く途中の公衆電話でソータくんは家に電話をした。部活帰りにそのまま友だちの家に泊まってくると嘘をついていた。ソータくんに嘘をつかせた罪悪感と、それでもソータくんと一緒に逃げたい気持ちで泣き出しそうになったわたしをソータくんは「大丈夫だからな」と抱きしめてくれた。
 なかなか到着しないバスを待って、ようやく乗り込んだわたしたちはガラガラの車内の一番後ろの席に座った。いつもは話が絶えない二人なのに、このときばかりは口が重かった。揺れるバスの中、わたしはどうしようもない不安を軽くしたくてソータくんにぴったりとくっついていた。ソータくんは繋いだ手にぎゅっと力を入れて握り返してくれた。
 信号待ちをしているときに窓の外に見えた黄色い花がやけに綺麗で、責められているような気になった。わたしは花の名前も知らないまま、それを見送った。
 ローカルバスを降り、高速バスのバス停に向かった。バス停までの登り坂は凸凹していて、わたしの踵は運悪く穴にハマってしまった。わたしとパンパンに詰め込んだエナメルバッグという二つ分の重さが後ろにいたソータくんに伸し掛かり、二人して尻もちをついて転んだ。いつもならここで大笑いするのに笑えなくて、わたしはひたすら「ごめん」と謝った。ソータくんは「謝んなくていいって」とわたしの手を引いて前を歩いてくれた。
 無事に高速バスに乗り継ぎ、空港についたとき、時刻は二十一時を過ぎていた。ソータくんと違い何も言わずに飛び出してきたわたしは、今更になって両親に適当な嘘をついてから出てこればよかったと後悔した。
 
「誠に申し訳ございませんが、福岡空港までの便は本日二十時五十五分までとなっております」
 
 チケット売り場のお姉さんが事務的に頭を下げたとき、わたしとソータくんは呆気にとられて顔を見合わせた。そして、ここにきてようやく笑ったのだ。博多に行く気満々で飛び出してきたのに、まさか飛行機が飛んでいないなんて思わなかったから。
 
「今日の便、ないってよ」
「どうしよう?朝の便までどっかで時間潰す?」
「そうするか。オレ、腹減って死にそー」
「わたしも……」
 
 今になって感じ始めた空腹に、そういえば何も食べずに出てきたことに気付いた。ソータくんに至っては部活終わりを捕まえているので、空腹具合はわたしの比じゃないはずだった。
 どこにする?なんて相談は必要なかった。わたしたちは一直線にエンダーへ向かった。
 一番安くて食べごたえのあるハンバーガーセットを二つ注文し、席についた。わたしは初めてセットのドリンクをルートビアにして、ソータくんはオレンジジュースを頼んでいた。

「ソータくんなんでオレンジ?」
「ん?だって名前そっち飲めないだろ」
「今日は飲めると思うっ」
 
 そうやって強がったのにわたしは一口飲んでその独特の風味に撃沈して、「ほらなー」と呆れ笑いをしたソータくんがオレンジジュースと交換してくれた。間接キスにいちいち動揺しない程度には、わたしたちの関係は進んでいた。
 腹ごしらえを済ませ、わたしたちは作戦会議を始めた。テーブルの上に有り金全部を置く。小銭も丁寧に数えたところ、全部で五万円くらいあった。
 
「五万かー。飛行機で一万は消えるな。博多行ってからどうする?」
「えーっと……そうだなあ、ラーメン食べてみたい」
「じゃあオレ、あそこ行ってみたい。有名なとこ」
「決まりね。あとはー、明太子も食べたいな。モツ鍋も!」
「食べ物ばっかだな」
 
 博多旅行の夢は広がる。
 わたしたちはあーだこーだ言いながら博多でやりたいことを決めた。とんこつラーメンを食べて、明太子を買って、モツ鍋を食べて、いちご狩りをして、中洲の屋台街に行って、水族館にも行く。
 「楽しみだね!」と言いながらも、夢は夢でしかないことはわかっていた。たった五万円で中学生二人が生活していくことなんて不可能なことくらい、わかっていたのだ。高校生ならなんとかなったのかもしれないけれど、わたしたちはまだ中学一年生だった。なにもかも中途半端な年齢の子どもだった。
 結局、わたしたちは二十二時になったとき、未成年を理由にエンダーから追い出された。行く宛もなく空港内のベンチで座っていたら、同じ理由で駅員に声をかけられ、嘘八百を並び立てている間に警察を呼ばれてしまった。
 警察にも必死に嘘をついたけれど、ソータくんの部着にばっちり中学校名が書かれていて、「学校に電話されたら騒ぎになってもっと親に迷惑かかるんど。ほら、ちゃんと家の電話番号言わんか」と年配の警察官に窘められ、わたしたちは諦めてそれぞれの家の電話番号を伝えるしかできなかった。
 二十四時になろうとしているときに空港まで迎えに来たお母さんは、わたしにすごい剣幕で叱ったあと、「この子が巻き込んじゃってごめんね」とソータくんに平謝りしていた。
 ソータくんのお母さんはもっとすごかった。寝ていたところを連れてこられたのだろう、パジャマ姿で目を擦る弟と妹を連れ立ったソータくんのお母さんは、「ごめんなさい。わたしがソータくんを無理やり……」とソータくんに非がないことを説明しているわたしの話なんて耳に入らないみたいで、ツカツカとソータくんの前に立つと「なにしてるのっ!」と思いっきりソータくんの頬を叩いた。それまで寝ぼけ眼だったリョータくんとアンナちゃんはぎょっと目を見開いていた。
 その後は親同士が頭を下げ合って、ソータくんの叩かれた側の頬が赤くなっていて、「ソーちゃん痛い?」「ソーちゃんなんでオレに教えてくんなかったの」とアンナちゃんとリョータくんはソータくんにしがみついていて、わたしは自分の情けなさに泣いて。
 喉を詰まらせて泣くわたしを見てなぜか釣られてアンナちゃんが泣いて、リョータくんも涙ぐんでいた。ソータくんだけは泣かずに、ぐっと眉を寄せて「ごめん」とわたしに謝った。ソータくんは何も悪くないのに。それが余計にわたしを惨めにさせて涙が止まらなかった。
 
 
 
 振り返れば、あのときお互いの親があそこまで怒った理由がわかる。家にいない、友達の家にもいない、誰にも相談せず、付き合っている二人が揃って消えた。心配で堪らなかっただろう。警察から電話が掛かってきたときなんて、きっと心臓が止まったはずだ。思わず乾いた笑いが漏れる。本当に、子どもだったのだ。わたしも、ソータくんも。
 
 そこからはバスの時間まで本を読んで過ごすことにした。うりずんの爽やかな風が吹くたびに乱れる髪を耳にかけた。それがどうにも気持ち良かった。今朝の東京は二月並みに寒かったのに、沖縄はもうとっくに春だ。
 車社会の沖縄ではバスは混まない。ただでさえ平日の昼前、わたし以外にバス待ちの人なんて数えるほどしかいない。時折、観光客がわたしの座るベンチの横にある時刻表を覗きにきて時計と見比べて首を傾げていた。気が付かなかったけれど、バスの到着時刻を過ぎていたらしい。うちなータイムだ。さっそく沖縄の洗練を受けているな、とわたしは本で口元を隠してこっそり笑った。
 また一人、洗礼を受けにきた。わたしは笑っているのがバレないように下を向く。しかし、不思議なことに大きな靴は時刻表ではなくて、わたしの前に立った。

「名前?」
 
 つむじに降ってきたのはわたしの名前だった。笑いが引っ込む。聞き覚えのある、懐かしい声は幻聴だろうか。きっとそうだ、沖縄という土地が、うりずんの空気がそうさせた。
 まさか、気のせいだ。きっとそう。彼の声はもう少し高かったはず。ひーじーひーじー。そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと顔を上げる。
 大きな靴からは長い足が伸びていた。上半身はスポーツをしているのか鍛えているような体付きをしている。首をうんと逸らして見上げたそれよりさらに上には、どこか気だるげな雰囲気を感じさせる目を丸め、驚いた表情をした顔があった。
 
「……ソータ、くん?」
 
 思わず呼んでしまった下の名前は、久しぶりすぎて掠れた。それでもソータくんにはきちんと届いていて、「久しぶりだな、元気?」とソータくんは昔みたいに笑ってくれた。わたしはそれだけで泣きそうになった。
 
 タイミングを見計らったかのようにバスは十五分遅れでやってきた。突然の再会に戸惑っているわたしはまだベンチから立てずにいて、「乗らないと置いてくぞ〜」とソータくんに笑われて慌てて立ち上がった。
 運転手さんにキャリーケースを預けて、バスに乗り込む。先に一番奥の五人がけ席の右側に座っていたソータくんがわたしを手招いた。
 隣に座る勇気なんてわたしにはない。だって、ソータくんと再会したあとにどんな顔をすればいいか、どれだけ考えてもわからないままここまで来てしまったのだから。どうしてここにいるのだろう。これが同窓会だったら、周りに溶け込んで気配を消していたのに。まさか二人になるだなんて。
 ソータくんからさっと視線を外して、席を探すふりをする。けれど、車内はガラガラで、わざわざ席を探す必要なんてない。露骨過ぎたかもしれない。避けていますと言っているのも同然な態度だった。
 やりすぎた、どうしよう。嫌われちゃう。いや、もうとっくに嫌われているだろうけど。でも。どうしよう、どうしよう。ぐるぐる悩むわたしはつい、ソータくんの方を見てしまった。ソータくんといた時代の悪い癖だ。わたしが困っていると、あの頃のソータくんはいつも助けてくれたから。
 みっともない。何をしているのだろうとすぐにまた目を逸らした。
 
「名前ー、早く座らんと怒られんどー」
 
 わたしの気まずさをわかっていて面白がっているような、そんな声色だった。恐る恐る視線を戻した先にいたソータくんは、やっぱりそんな顔をしていて、目が合うとにっと笑った。
 バスが動き出す。わたしはフラフラと一番うしろの席まで行き、ソータくんと反対の左側に座った。ちょうど真ん中の通路分がわたしたちを隔てる。
 手を繋いで並んでいたあの頃にはなかった、およそ六十センチの距離。
  
「オレさー、車だしてもらう予定だったのに、空港ついても迎え来ないから連絡したら飲み過ぎたからバス乗れって言われてよ。しにてーげーよな」
「え、あ、うん」
「けど、まさかこんなとこで名前と会うなんて思わなかった」 
「わたしも……びっくりした」
「だからよー。名前、髪伸びた?」
「どうだろ……伸びたら切るって感じ」
 
 髪が伸びたかどうかなんてわからない。だって、ソータくんと最後に会ったわたしは七年も前なのだ。その頃の自分の髪型なんて覚えていない。
 まるでわたしたちの間に苦い過去なんてなかったかのようにソータくんが話すからわたしは対応に困っていた。わたしはどんな立場で、ソータくんに接したらいいのだろう。
 このまま、ソータくんの優しさに流されていいのだろうか。流されれば楽だと思う。そうしたらこのまま、うまく同窓会をやり過ごすことができる。
 けれど、と思い出すのは駆け落ちに付き合ってくれたあの日のソータくんだった。大人になった今ならわかる。ソータくんはあの日、泣かなかったんじゃない。わたしやアンナちゃんやリョータくんが泣くなか、自分まで泣くわけにはいかないと、必死に眉に力を入れていたのだ。
 大人になったわたしが過去をなかったことにして今のソータくんと宙ぶらりんのまま笑い合うのは、わたしを好きでいてくれた過去のソータくんに不誠実だ。
 
「あ、あの、ソ……宮城くん」 
 
 腹をくくれ、名前。一方的に連絡を断ったことをわたしは謝らなくてはいけないのだから。
 膝の上に置いた手を何度も握り直す。ごめん、ごめんなさい。言わなきゃ、早く言わなきゃ。そう思うのになかなか言葉が出てこない。
 
「まさかやー。またそこから?」
「へ?」
 
 そこからって?わたし、まだ何も言ってないのに。
 意気込んだ分、拍子抜けしてしまった。隣に座るソータくんを見ると、ソータくんは不貞腐れたように唇を突き出した。昔見た、リョータくんみたいな顔。
 
「名前。一年かけて呼んでもらえるようになったのに」

 名前って、そんなこと。まだ呆けた顔をしているわたしに、少しの不機嫌さと照れを滲ませたソータくんが視線だけを寄越す。昔よりずっと子供みたいな表情だった。
 
「だって……その……わ、別れたし」
「そうそう、オレ、名前に振られたんだよなー」
「ちっ……!」
 
 違う、と言いかけてやめる。違うことなどなにもない。実際、わたしが振ったようなものだから。遠距離恋愛に耐えきれなくて、自然消滅を選択した。
 
「あのとき、ごめん……」
 
 今更謝られても、と思うかもしれない。一方的で、最低で。罵られても仕方ないことをした。ソータくんにとっては中学時代の苦いエピソードの一つくらいで、たいした思い入れはないかもしれない。それでも、わたしが酷いことをした事実は変わらないのだ。
 顔が歪んで、泣きそうになって俯いた。ぎゅう、と握った手のうちは、汗でべたべたした。
 
「許さん」
「そっ、そう、だよね。ごめん、ほんとに、わたし……」
「って言ったら、どうする?」
「……えっ?」
 
 え?わたしはまた呆けた顔をしなければならなかった。ソータくんはしてやったりとばかりに片眉を上げて、口角を上げる。
 
「もう何年も前のことやし。気にすんな」
「……宮城くん」
「あー、でも、やっぱ名前で呼んで」
 
 ソータくん、ソータくん。心のなかで何度も呼んでいた名前をゆっくりと吐き出す。ソータくん。
 
「ソータ、くん」
 
 今はうりずんの季節だというのに、ソータくんは夏を連れてきたみたいだった。それくらい、わたしの体は熱くなっている。
 眩しい日差し、照り返しでキラキラ輝く海、木陰の間を抜けるさわやかな夏の風。わたしの会いたかった人。
 
「なーにぃー」
 
 嬉しそうに、目を細めて笑うソータくんが眩しくて、わたしは目を覆いたくなった。クローゼットの奥に隠した思い出たちが蘇っていく。ああ、泣いてしまいそう。
 七年振りに、二千キロを越えてようやく会えたわたしたちは同じバスに揺られている。
 六十センチ、離れた隣で。
 
 
2023.1.30

  back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -