6.初めて
 
 彼氏と手を繋ぐことは普通のこと。当たり前なこと。キスもそれ以上のことも関係が進めば自然と経験すること。だって相手は彼氏なのだから!恋愛経験ゼロのわたしでもそんなことわかっていた。わたしだって中学一年生だ。小説やドラマや漫画、友だちからそういうことの知識は多少得ている。
 ただ、わたしとソータくんのお付き合いがそれに当てはまると思ってなかっただけで。
 
「名前、こないだ帰りに彼氏と手繋いでたね。あたしら近くの公園で話してたから見ちゃったー」
「で?あのあとキスしたわけ?」
「名前に言わせる?それー」
 
 部室で着替えていたわたしを見るなり、先輩たちはからかってきた。キス、の単語にぼっと体が熱くなる。カッターシャツを止める手が震えた。
 この前、わたしはようやくソータくんを名前で呼べた。そんなわたしにとっての高いハードルを簡単に飛び越えてソータくんは手を繋いできた。あれ以来、二人でいるときは手を繋ぐことが増えた。ソータくんと手を繋ぐことは嫌じゃない。けれど、恥ずかしいし緊張する。ずっとどきどきして、うまく喋れなくなる。
 一緒に帰りたいとか、名前で呼びたいとか。今度一緒にテスト勉強をしたいとか。そんな小さな欲はいくらでもあって、わたしが勇気を出して一歩進み出せばそれはいくらでも叶えられた。けれど、先輩たちが聞いてくるようなことは違う。わたしが望んでいることじゃない。
 
「そっ、そんな変なことしませんからっ!」
 
 手を繋ぐのはまだいい。恥ずかしいけれど、女の子同士でもすることがあるし、できる。でも、それ以上のことは未知で、怖い。わたしとソータくんがそんなことをするなんて考えたことすらなかったし、今でも考えられない。だってわたしとソータくんなのに。
 「変なことだって」と先輩たちは顔を見合わせて笑いをこらえる。一年の他の子たちも、「名前、それはソータかわいそうやし」と笑う。
 おかしなことを言ったつもりはないのに、まるでわたしが間違っているみたいなみんなの態度に居た堪れなくなって、誤魔化すようにシャツの襟ぐりを引っ張って扇いだ。シャツから覗く真っ白のスポーツブラ。
 わたしはまだ、小学生のときと同じものを身に着けている。
 
 
 
「お、ソータのいなぐ」
 
 給食を終えて、ソータくんのクラスに顔を出そうか悩みながら廊下を歩いていたときだった。
 いなぐ。ちょっとヤンチャそうな人たちは彼女のことをそう呼ぶ。ソータくんと付き合っているということは当然ながら男バスでも公認済みだ。部活帰りに一緒に下校しているのだから当たり前だろうけど、あまり話したことのない男バスの先輩にまで「ソータのいなぐ」と呼ばれるのは変な感じがする。
 こんにちは、と頭を下げたわたしになぜか一年の廊下にいた男バスの先輩二人に――多分、上靴の色からして二年生だ――「今日もソータと帰んの?」と聞かれ、なぜそんなことを聞かれるのだろうと思いながら頷いた。
 
「今日解散遅いから無理だと思うぞー」
「そうなんですか?」
「そー。先生が明日出張だからミーティング今日にズレんだってさ」
 
 先輩たちはそれを連絡しに一年の教室を回っていてそれが終わったところらしい。一緒に帰れないことを残念に思いながらもどこかでほっとしてる自分がいた。昨日、女バスの部活仲間にからかわれたことがずっと頭にあったから。だから今だってソータくんに会いに行くのも躊躇していた。
 教えてくれた先輩たちにお礼を伝えて教室に戻ろうとしたのに、先輩の一人が「なあ」とわたしと会話を続けた。
 
「あんたないちゃー?」
「え?はい」
「こっち来てどんくらい?」
「ちょうど一年くらいです」
「へー。ソータとはいつから付き合ってんの」
「え、えっと……卒業式から、です」

 今まで散々周りにからかわれてきたのだから多少は慣れたはずなのに。女バスの先輩と同じ質問なのに。探るような目付きが嫌な感じで逃げ腰になる。
  
「ほーみーしたばー?」
「ほみ……?」
「なんだ、知らん?それともあいつなんもしてないんか。かわいそーやんに、クウらすくらいしてやれよ」
「おい、お前やめとけって。一年やし」
「だからよー、ソータかわすのうまいし。こっちから聞いた方が面白いだろ」
 
 聞いたことのない言葉なのに、いい意味じゃないのだろうなということは、先輩たちの態度でわかった。やめとけ、なんて言ったくせに先輩たちは目配せをして笑っている。
 
「……すみません。わたし、ないちゃーなんでよくわからなくて」
「だよなー」
「わりーわりー」

 からかわれている。普段以上のたちの悪いやり方で。わかっているのに言い返せない。
 悔しくて、悲しくて、恥ずかしくて。悪びれもしない謝罪を口にした先輩たちが昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って一年の廊下から去っていくまでわたしは俯いたままだった。
 やっぱりソータくんに会いに行けばよかった。そしたらこんな惨めな気持ちにならずに済んだのに。
 
 
 
「名前ー」 
 
 帰りの会を終え、部活に行くために立ち上がったわたしを呼んだのはソータくんだった。
 昨日の部室でのことや、男バスの先輩との昼の出来事が頭に過って、自分が悪くないはずなのにバツが悪い気になる。胃のあたりがもやもやしたままドアへ向かうと、ソータくんはわたしの顔を見るなり申し訳なさそうに眉を下げた。
 
「悪いー、今日ミーティング入ったから一緒に帰れん」

 昼休みに言われたこと。その意味。聞いたらソータくんは答えてくれるだろうか。聞く勇気は出なかった。いい意味じゃないことはなんとなくわかっていたし、その意味を知ったあとわたしがうまく受け流せるとも思わなかった。ソータくんの部活の先輩を悪く言うこともしたくなかった。それに、変なことを言われたであろう自分が惨めで、それをソータくんに知られたくなかった。
 
「らしいね。わたしも昼聞いたから知ってるよ。気にしないで」 
 
 わたしは取り繕うのが下手くそなのかもしれない。自分ではにっこりといつもの笑い方をしたつもりだったのに、目の前のソータくんは上からじっとわたしを見ていた。居心地が悪くなって俯いた頭の上に大きな手が乗せられる。
 他のひとに見られちゃうよ、なんて人目を気にするわたしはそう思う、いつもなら。けど、心のどこかに口内炎ができたみたいな、他人には小さくて見えない痛みを抱えている今のわたしにはソータくんの手はじんわりと優しく染みていく。

「どっか悪かったりする?」
「……ううん、元気」
「部活、しんどかったら先生に言って帰らせてもらえよ、な?」 
「うん、ありがとう。でも大丈夫だよ」 
 
 周りの視線も今ばかりは気にならなかった。
 優しいソータくんが好き。休み時間や部活終わりに話して、部活のない休日に遊んだり勉強したりして、たまに手を繋いで、こうして頭を撫でられて。それで十分幸せで、満たされる。周りから言われる変なことなんてしなくていい。わたしとソータくんの関係はこれでいいのだ。
 
 
 
7.変なこと
 
 本州より早く梅雨入りした分、梅雨明けも早かった。夏到来と言わんばかりに蝉の声が響く。寝不足の頭の中、耳の奥から入ってきたその鳴き声のせいで脳がぐわんぐわんと揺れる。お腹の中がじくじくと痛む。寝ずに考えていたのはやっぱりソータくんのことだった。
 わたしとソータくんが付き合って三ヶ月と少し。わたしが言った「変なこと」というフレーズは部活の誰かを通して広まっていた。今だって外廊下すれ違うとき、知らない誰かが振り返って囁き合う。
 
「ねえねえ、あの子知ってる?」
「あ〜ソータの彼女だね」
「あの二人、まだなんだって。彼女のほうが無理って」
「知ってる〜ソータ可哀想やし。なんだっけ?変なこと?」
「キスが?」
「キスが!」
 
 きゃはは!と面白おかしく笑う声に耳を塞ぎたくなった。
 付き合って三ヶ月。キスをしていないのはおかしなことらしい。それを変なことと思うのはもっとおかしなことらしい。
 寝不足になるほどの悩みの原因がそれだけならまだマシだった。一番の悩みはそこから先だ。
 
「ね、あの二人さ、続くと思う?」
「ないない。夏休みまで保たないでしょ」
 
 わたしたちがキスをしていないという噂に対し、最初は「ソータが可哀想」とみんな口々に言っていた。けれど、そんな意見も少し経つと「そもそもソータもキスする気がないんじゃない?」というものに変わって、やがて「ソータ、彼女のこと別に好きじゃなくない?」というものになっていた。
 つまり、わたしはソータくんにとってどうでもいい存在ということになるらしい。入学当初出来上がったソータくんの彼女という公式は、今じゃ後ろに(仮)とか、(暫定)とかがついている。今のわたしはソータくんの彼女に相応しくないと思われていた。
 
「ソータさ、あたしアリなんだよね」
「おっ、いいね。略奪しちゃう?」
「しちゃえるね〜」
 
 そして、わたしはすっかり忘れていた。ソータくんがモテるということを。
 ソータくんが好きだ。でも、わたしはソータくんの彼女としてみんなに認められていないみたい。それを否定したいのに、否定しきれない。だってわたし、卒業式のあの日以外、好きだと言われていないから。
 楽しそうに笑う声と蝉の声が混ざり合って、脳みそを揺らす。動悸がする。息が苦しい。お腹が痛い。気持ち悪い。ここにいたくなくて、少しでも遠くに行きたくて早歩きで教室へ向かった。教室内に逃げても甲高い笑い声と蝉の声が耳について離れなかった。
 
「保健室でサボるなんて、真面目ちゃんなあんたにしてはやるじゃん」
「……本当にしんどかったからサボりじゃないもん」 
「寝たら治った?」
「治んない。お腹痛い……」 
 
 わたしは授業中に初めて机に頭を伏せた。頭もお腹も痛かった。担任は優しい女の先生で、「保健室行っておいで」とわたしの肩を叩いた。保健の先生もわたしの顔を見ていくつか問いかけたあと、「初めてはしんどいからね」とベッドへ案内してくれた。一時間寝て、それでもまだ体の調子は戻らない。初めての経験する痛みにお腹を抱えて丸まった。
 
「初めてなの?」
「うん……」
「ナプキンは?持ってる?」 
「さっき先生がくれたぁ」

 下着に敷いたナプキンはごわごわして不快だ。この痛みと不快感が大人になるということならこんなのいらないと思った。「次の時間どうする?」と聞かれて、まだここにいると答える。心も体も絶不調だ。 
 彼女はとっくにこの痛みを知っていて、ぽんぽん、と軽く布団の上を叩いた。
 
「次の時間終わったらソータ呼んできてあげようか?」
「やだ、こんなとこ見られたくない。恥ずかしいし」
「そう?心配して飛んでくると思うけど」
「……そんなわけないよ」
「なに急に。ケンカでもした?」
「違うけど……。ケンカしたことないし……」 
「じゃあ、なに」
 
 わたしはソータくんにとってなんなのだろう。ちゃんと彼女になれてるのかな。ソータくんの好きなひとのままなのかな。考えれば考えるほど不安で、悲しくなって辛い。じくじくとお腹が痛む。
 
「ソータくん、わたしのこと好きかわかんないから」
 
 シーツに顔を埋めれば声がくぐもる。泣きたくなってきたわたしのすぐそばで、彼女は大袈裟なほどため息をついた。

「ソータはさー、昔からしにモテんの。わかる?小学校のときとか絶対みんなソータを一回は好きになってたし」

 以前彼女が言っていたことを思い出す。ソータくんは女子が一度は通る道。なしとか言う女子はいない。今、強めに布団を叩いた彼女だってそうだ。
 ソータくんはみんなの憧れ。そんなことわかっている。わからないのは、なんでわたしなんかと付き合っているかってこと。
 
「けど誰も好きになってもらえなかったんだからね、あんた以外。なんでそこまで不安になってんのかわかんないんだけど」
「だって……みんな言ってるし。それに、告白のときしか好きって言われたことないもん」
 
 ソータくんがわたしを好きだと思ってくれているとわかれば周りに何を言われたってもっと自信が持てる。可愛いと言ってくれることはあっても、好きだと言ってくれたことは卒業式のあの日以外ない。わたしはこんなに好きなのに。
 いつもならここまでマイナス思考になることはないのに、体調が悪いせいなのか、じわりと涙が湧き出てきてシーツで拭う。お腹の痛みが増していく。
 
「なにそれ。じゃああんたは言ったの?」
「え?」
「ソータに好きって自分から言ったことあんの?」

 え?
 びっくりしすぎて、二度目は声にならなかった。作られ始めた涙が急に生産をストップする。
 
「彼女がキスは無理とか言ってるの噂で聞かされてんだよ。不安なの、ソータの方じゃないの?」
 
 ソータくんが不安?わたしのせいで?そんなの考えたこともなかった。
 ぽかんと口を開けていたら、ぎゅっと鼻をつままれる。長い爪が食い込んで痛い。
 
「そんなんしてたら誰かにとられちゃうかもねー。あたしもまだ全然ありだし?別れるなら貰っちゃおうかなー」 
「っ!だめだめだめっ!」
 
 必死なわたしを笑ったあと、彼女は「じゃああと一時間ゆっくりね〜」と保健室を去って行った。わたしはずきずきと痛む鼻を抑えて寝返りを打った。ぎゅっと目を瞑ると、頭の中でもう一度彼女が問いかけてくる。
 ――ソータに自分から好きって言ったことあんの?
 わたしから好きだと伝えたのは、卒業式の日、アルバムに書いたっきり。はっきりと声に出して伝えたことは一度もない。
 さっきまでの悩みがどれだけ自分本位か思い知らされた。
 
 結局その日は初めての痛みと苦しみに耐えられなくて早退した。次の日はだいぶマシになったから登校すると、朝練を終えたソータくんが教室を覗きに来てくれた。
 
「元気なったかー?」
「うん。今日は部活も行くよ」
「ん、あんま無理すんなよ」
 
 ぽん、と軽く頭を撫でてからソータくんは教室へ戻っていった。優しく細められた瞳にわたしが映っていたのだと思うとこそばゆい。わたしはそれだけで今日一日が乗り切れるような気分になる。昨日まではうだうだと悩んでいたくせにすごく単純だ。
 でも、とソータくんの後ろ姿を目で追う。わたしはソータくんのことで悩んだり、喜んだり忙しい。
 じゃあ、ソータくんは?わたしのことで、不安になったり悩んだりする?きっとないだろうな。その考えに至るとマシになったはずのお腹が痛んで、慰めるように撫でた。

 この日の給食はゴーヤチャンプルーで、ただでさえ本調子じゃないわたしを更に不調にさせた。牛乳で流し込みながら完食してから、ソータくんのクラスへ向かう。全部食べたよって自慢しよう。
 他クラスは自分のクラスとはまた違う空気感をまとっていて、よそ者のわたしが廊下から声を掛けたり、中に入っていくのは勇気がいる。だからいつも廊下から覗いてソータくんに手を振ってアピールしたり、同じ小学校出身の子に声を掛けてソータくんを呼んできてもらったりする。
 今日もそうしようとしていたら、「ねーソーター」とソータくんを呼ぶ弾んだ声が聞こえて、手を振るために挙げかけていた手が止まる。聞いたことのある声。昨日、廊下でわたしを笑っていた子だ。
 
「ん〜?なに?」
「みんなで土曜日カラオケ行こうってなっててさ、ソータもおいでよ」
「土曜部活やし。無理だなー」
「終わってからでもいいし。途中からとかさー」
 
 アリなんて余裕があるような言い方をしながら、本当は好きなんだろうなというのはすぐにわかった。小学校のときだってみんなそうだったから。
 お腹の中がもやもやする。いらいらもする。
 わたし、一緒にカラオケなんて行ったことない。わたしだってソータくんと遊びたい。他の子と遊んで欲しくない。わがままかもしれないけれど、ソータくんを好きな子と話したりして欲しくない。
 
「……っソータくん!」
 
 しん、と静まった教室。みんながわたしを驚いた顔で見ていた。自分のしでかしたことに気付いて、血の気が引く。わたし、なにしてるんだろう。

「ごめんっなんにもないっ!」
 
 焦った気持ちのまま、教室を後にして廊下を駆ける。誰もいないところに行きたくて、移動教室でしか使われない西校舎へ向かった。
 人の気配のない西校舎はガランとしていて、鍵の開いていた理科室へ入った。開けっ放しの窓から吹く風が汗で張り付くシャツの隙間に入り込む。窓際の壁を背もたれにずるずると座り込んだ。膝を抱えて、頭を乗せてギュッと目をつむった。蝉の声だけが聞こえてくる。
 わたし、なにをやっているんだろう。恥ずかしくて消えてしまい。最悪だ。わけがわからない。お腹が痛い。
 
「なんかあった?」

 すぐに追いついてきたソータくんは、わたしの隣に座るとそう問いかけてきた。ううん、と顔を上げずに答える。
 
「まだしんどい?」
 
 ううん。首を横に振る。このしんどいはソータくんの考えているしんどいじゃないから。
 
「んー……やなことあった?」
 
 ううん、と首を振ることもできず押し黙る。隣でふ、と笑う気配がしたと思ったら頭を撫でられる。その優しい手つきが好きで、大好きで、泣きそうになった。
 
「ソータくん」
「ん〜?」
「……すき」
 
 言おう言おうと思っていたわけじゃないのに、言葉は勝手にわたしの口から滑り出して落ちた。頭の上でゆっくりと穏やかに動いていた手がピタリと止まる。
 
「他の子と遊びに行くの、やだ」
 
 わたしにソータくんの交友関係を制限する権利なんてないのに。こんなんじゃ嫌われる。
 腕が濡れていく。じわじわ滲み出した涙が下瞼の上に乗り切らずに溢れた。ソータくんを見上げるのが怖い。
 
「き、きらいにならないで」
 
 言っておきながら、なんてめんどくさい彼女なのだろうと思った。情けなくてめんどくさい。ソータくんに聞こえなければいいと思ったのに、うん、とわたしの隣でソータくんは頷いた。蝉がわたしの情けない声を掻き消してくれれば良かったのに。
 
「名前、あのさ」
「……うん」
「ハグしていい?」
「……え?はぐ?」

 いきなりなんのこと?つい顔を上げてしまったら、ソータくんは片眉をあげて笑うと、「そー。こうやってぎゅって」と腕を広げるとわたしの体を閉じ込めた。
 一体、なにが起こっているのだ。想像したことすらない、予想外の出来事にわたしの脳はしばらく考えることをやめた。蝉の声がする。
 
「嫌いになんてなるわけないだろ。遊びにだって名前と行きたい」
 
 ぎゅう、と抱きしめられる力が強くなる。「絶対オレのほうが好きやし」と頭の横でソータくんがはあ、と息を吐いた。それが妙に熱っぽくて切なくて、わたしは意味もわからずどきどきしながら、「絶対?」と聞き返した。
 絶対、とソータくんは笑う。触れ合っているところがこそばゆい。
 
「オレ、本当は名前とこういうのもっとしたいっていつも思ってんの。それって変?」
「わ、かんない」
「今は?いや?」
 
 いや?と問いかける声が耳のすぐそばで、くすぐったさに身震いする。
 これ以上進んだ関係になるのが怖い。ソータくんとそういう関係になって、自分がどうなるかわからないから怖い。幻滅だってされたくない。そう思っていたのに、今のわたしは恐怖より喜びのほうが勝っている。だってわたしを抱きしめてくれているのは大好きなソータくんなのだ。嫌なわけない。変なわけない。
 
「……やじゃない、かも」
 
 恐る恐る、ソータくんの腕に手を置いた。ぎゅ、と力が入った腕の中はソータくんの匂いがする。密着したところから聞こえるどきどき、ばくばくした音はどちらのものかわからない。
 ふう、とまたソータくんが息を吐く。この緊張した空気を逃がすようなそんな吐息。
 
「なー、さっきの。やきもち?」
「……知らない」
 
 知らないよ。こんな気持ち。わがままで、めんどくさくて、もどかしい。
 それなのにソータくんは「かわいいな」と言う。む、と睨みつけるとソータくんはわたしのおでこに唇をくっつけた。

「っ!え、わっ……!」
「いやじゃないって言ったやし」
「言っ……た、けど……」
 
 それはぎゅってするハグのことで、おでこにちゅーされることじゃないんだけどな。目尻が下がって、嬉しそうにはにかんだソータくんを前に、わたしはもう何も言えなくなる。こんなめんどくさい気持ちを嬉しがらないで。
 気付けばお腹の痛みは感じなくなっていた。蝉の声も聞こえない。今のわたしの頭の中はソータくんでいっぱいだ。
 カッターシャツ越しに触れる熱と、心臓の音と、おでこに残る柔らかい唇の感触。「名前」とわたしの名前を呼んで柔らかく細めた目には好きが溢れていて、恥ずかしくて腕の中で小さくなっておでこをソータくんの胸に押し付けた。
 不安だ不安だとわがままを言って拗ねていたさっきまでのわたしはとっくにどこかへ行ってしまった。
 
 
2023.8.5

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