「名前ちゃんっ!なんでいるのー?嬉しい〜!」
「はは……ほんと、なんでだろうね……」
 
 一睡も出来ないまま朝を迎え、上半身を起き上げた名前はズキズキと痛むこめかみに顔を顰めながら飛びついてくるアンナを抱きしめた。一体なぜこんなに頭痛がするのだ。畳に直で寝たせいか、と畳跡の付いた二の腕を擦りながらとぼけたいところだが名前は昨夜の出来事をしっかりと覚えていた。父に騙され、誤って酒を飲んだのだ。おそらくこれが二日酔いというやつだろう。
 引き戸の向こうから歩いてきたソータと目が合う。彼はこの部屋ではなく自室で寝ていた。大きく伸びをしたソータは柔らかく笑うと「はよー」と目を細めた。
 
「名前大丈夫かー?」
「……う、ん。大丈夫」
「名前の父ちゃんまだ寝てるから母ちゃんが朝飯食って行けってさ」
「え、わ、わかった。ありがと……」
 
 普段となんら変わりのないソータと違い、名前は動揺を隠せなかった。名前は覚えている。酒を飲んでしまったことに加え、この少年と過ちを犯してしまったことを。正確には酔った名前を心配したカオルの登場によって未遂で済んだのだが、未遂で良かったと流せるレベルの出来事ではなかった。 
 
「わーい!名前ちゃん一緒にご飯!」
 
 頭の痛みが増し、名前はこめかみに手を当てた。二日酔いのせいでアンナの声が響く。もちろん、痛みはそれだけが原因ではないが。もう一つの頭痛の種が「つらい?」と名前を気遣う。至って平気な顔をして。「ちょっとね」少年ほど何ともなかったような顔を作れなくて、名前はぎこちなく笑った。
 
「アンナ〜名前しんどいから今日はほっといてやれー」
「名前ちゃんしんどいの?なんで?」
「昨日酒飲まされたからなー」
「お酒?子供なのに飲んでいーの?」 
「だめだからしんどいんだって。ほら、顔洗いに行くぞー」
「はーい。名前ちゃん、あとでねー」
 
 アンナはよしよしと名前の頭を撫でるとソータに手を引かれて洗面所へ向かう。振り向きもしない後ろ姿に名前は息を吐いた。力が抜ける。手のひらには汗がにじんでいた。どうやら自分はひどく緊張していたようだ。はるか年下の小学生相手に、だ。は、ともう一度息を吐く。まさか、信じられない。相手は五つも下の小学生なのだ。そう、いまだ眠り続けるもう一人と同じく。
 
「リョータ、朝だよ。起きて」
 
 リョータから返事はない。昨夜、全員が寝静まってからカオルが掛けてくれたであろうタオルケットを頭からかぶって眠っている。名前はタオルケットの上からリョータの体を揺らした。びくりという反応に起きていることを確信した名前はそのままタオルケットを引き剥がした。
 
「リョータ、朝……え、なに?熱?」
 
 タオルケットの下にいたリョータは名前に真っ赤な顔を見られるとすぐに腕に顔を押し付けた。「っ……見んな!」名前は熱でもあるのかと心配になり、額に手を当て熱を測ろうとしたがその手は振り払われ、リョータは素早く寝返りを打ってうつ伏せになる。
  
「でもリョータ。顔真っ赤だよ」
「っうっせ!」
 
 乱暴な物言いに体調の悪さは微塵も感じられない。リョータは手探りでタオルケットを手繰り寄せるとまた頭から被った。名前は呆れて肩を竦めると、「わたし顔洗ってくるから。ほんとにもう起きなよ」と起き上がった。
 
「……ねえ」
 
 名前が部屋から出ていこうとしたとき、リョータはさっきとは打って変わって遠慮がちに声をかけた。なに、と名前は振り返る。リョータはまだタオルケットを被っていて隙間からほんの少しだけ気怠げな目を覗かせている。 
 
「昨日……あれ、なに」
 
 昨晩、リョータと名前が顔を合わせたのは彼が兄の隣でうつらうつらしていたときだ。名前が来てすぐにリョータは寝てしまい、この部屋に連れてこられていた。だから、名前はリョータと会話すらしていない。そのはずなのに。
 
「……ソーちゃんと」
「私、昨日はお酒飲んじゃってここで横になったの。だからソータともほとんど喋ってないんだけど。なにかあったっけ」
 
 見られていたのか、と背中に冷や汗が流れたが、名前は平然と言葉を並べた。さっきと違いぎこちなさが抜けたのは相手がソータではなかったからだろう。リョータ相手なら乗り切れられる、と名前は「寝惚けてたんじゃない?」と畳み掛けた。
 
「……そうかも……」
「もー話するくらい目ぇ覚めてるんだから起きなって」
「ん……もうちょっとだけ寝る」 
「そ。じゃあ先に行っとくね」
 
 名前はリョータの前をあとにすると、洗面所へ早足で向かった。その鼓動は早い。勝手知ったる他人の家で洗面所に辿り着くと、アンナとソータはもういなかった。洗面台の鏡と見つめあい、なんとか乗り切った、と息を吐く。また頭が痛みだし、顔を歪めこめかみを押さえた。
 
「なんで、あんなことに……」
 
 痛みの最中、昨日の出来事がフラッシュバックする。酔って火照った首筋に、そして唇に寄せられた熱は、名前の内側を侵食するかのように強引に押し入ってきた。自分とは違う、他人の唇、舌、唾液。すべてが初めてだった。名前とてまだ十七歳。異性との交際経験はなかったのだ。
 ばくばくと心臓が逸り、名前はこめかみを押さえていた手を唇に当て、ぎゅっと目を瞑る。それ以上思い出すことはやめた。
 
「顔洗お……」
 
 蛇口をひねり、水で顔を洗ってもさっぱりとしない。歯でも磨きたいところだがそこまでの用意はない。うがいを済ませ、顔を拭こうと洗濯機の上に個別に置かれた名前用と思われるタオルに手を伸ばしたときだった。
 
「名前ー歯ブラシー」
 
 ひょっこりと顔を出したのはソータだった。手には未開封の歯ブラシを持っている。名前は素早くタオルを取ると顔を拭き、タオルの下で表情を作るとなんともない顔をしてソータから歯ブラシを受け取った。動揺を悟られてはならない。
 
「……ありがと」
「どーいたしまして。頭治ったかー?」
「うん。顔洗ったらだいぶマシ」
「そ。よかったなー」
 
 名前は封を開けて歯ブラシに歯磨き粉を付けた。空になったパッケージを片手に持っていたら何も言わずソータが回収してゴミ箱に捨てた。名前に歯ブラシを渡し終えたのに洗面所から出ていこうとしないソータに名前は違和感を覚えながらも歯ブラシをくわえた。
 
「リビングしに酒臭いんど。母ちゃん朝からしにはごー!って怒ってるよや」
「うぐ……カオルしゃんにあとで謝らなきゃ」
「あと名前のことも心配してたからはやく顔見せてやって」
「ほーするね。親子揃って迷惑かけちゃったなあ」
 
 シャカシャカと泡を立てながら歯を磨く。平常通りにしなければ。このまま、いつものような会話を重ねて、何もなかったことにしなければ、と。
 
「名前ー」
 
 ソータのいつも通りの声色に、名前は少し安心した。恐らくこの少年も昨夜の過ちをなかったことにするつもりだ。
 名前は口に溜まった泡を捨て、口を濯ぐ。「なーにー?」と答えたときに、ふと鏡を見た。そこに映るソータの表情に名前はひゅっと息を呑んだ。 
 
「覚えてんだろー?」
 
 名前が振り向くとソータの眉が上がる。挑発するかのように。じっとりとした熱の籠もったその瞳は、いつも通りとは言えない。
 
「……なにが?」
「しらばっくれんだな」
「ソータ、私、なんのことだか……」
 
 一歩、ソータが名前に近付く。逃げようにも狭い洗面所内に名前が後退りするスペースなどない。名前が咄嗟に首にかけたタオルで唇を隠すと、「そんなことして忘れたーってのは無理あるんど」とソータが笑う。
 
「ソ、ソータ、落ち着こう。私、ちゃんと忘れるから」
「忘れる?」
 
 名前にとってソータもリョータも同じ扱いだった。近所に住む弟のような存在。ソータに至ってはいつの間にか背は抜かされたが、それでも子供に違いなかった。五つも下なのだから。
 しかし、改めて考えると彼は同級生と比べ発育もよく、中身も大人びている。一般的な小六男児がどこまで性的なことを理解しているのか名前には検討もつかなかったが、少なくとも彼はそれなりにそういうことに興味のある年頃だったようだ。そして、昨夜の自分はそんなつもりがなかったとはいえ、彼のそういった面を刺激してしまった。
 
「ごめんね、私が悪かったんだと思う。だから、お互い忘れよう」
 
 名前は冷静になりつつあった。ソータは来年、中学生になる。血の繋がりもない他人が弟ができたような気になって距離を詰めすぎたのがいけなかったのだ。きちんと男の子として扱ってあげなければならなかった。認識を改め直さねば、と反省し、名前はもう一度繰り返した。
 
「なかったことにしよう」
 
 昨晩の出来事が名前にとって初めてのキスだったように、おそらくソータにとってもそうだろう。こんな事故みたいなもので初めてを消費する必要はないのだ。こういったことは同級生の好き同士ですることなのだから。
 名前はソータのことを思いやったつもりだった。それだというのに、ソータは「ふうん」とどこか不機嫌そうに唇を尖らす。
 
「なかったことにすんだ。なんで?」
「なんでって……ああいうのは、好きな人とするものでしょ。私たちは違うから」
「……わかったー」
「……じゃあ、そういうことで。さ、みんなのとこ行こ」
 
 狭い洗面所内から出るには名前はソータを押しのけていなかければならなかった。さっき近付かれたところから距離が一向に広がっていない状況に、名前は訝しげに思いながらもソータの体を軽く押す。ソータは体を少しずらして名前の通る道を開けた。その横を通り過ぎようとした名前の腕をソータが掴む。
 
「ソータ?」 
「なあ、二回目ならどうなんの?」
 
 なんのこと、と名前の言葉が形を作る前にソータは名前の首にかかったタオルを両手で引き寄せると、そのまま唇を寄せた。咄嗟の出来事に名前は距離を置こうと後退るが、狭い洗面所内ではすぐに壁にぶつかる。何が起きたか理解できず目を白黒させている間に、また唇を落とされる。何度も角度を変え、唇を食まれる。理解できない出来事の連続に名前の思考がついていかない。
 名前はソータの肩を押して必死で拒絶を示した。しかし、その手は簡単に絡め取られ壁に押し付けられてしまう。ついには舌で唇を舐められ、粘膜の隙間を縫って侵入してきた。ぞくぞくした悪寒に似た何かが背中を走り、名前は自身の体の変化に恐れをなした。ぎゅっと目を瞑ってこの妙な感覚に耐えていたとき、誰かが廊下を走る音がした。
 
「ソーちゃーん!名前ちゃーん!どこー?」 
 
 アンナの声だ。もうすぐここに辿り着こうとする足音に、ソータの唇はそっと離れていった。思わず漏れた吐息が安堵というには熱っぽく、名前は恥ずかしくなって手の甲で口を隠した。乱れた息を立て直そうと呼吸を繰り返していると、同じように息を整えるソータと目が合う。熱を抑えきれないのか潤いを帯びた瞳で名前を見つめたソータは、唇の端を薄っすらと持ち上げる。
 
「これもなかったことにする?」
 
 名前は何も答えられなかった。これはもう、事故では済まされないのだから。忘れたはずの頭痛がやってきて、名前は頭を抱えたくなった。


 
2023.6.12

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