目を覚ますと、こちらを覗く焦げ茶色い瞳と目があった。一体何が、と慌てて飛び起きようとして、額同士がぶつかった。しかし、額の痛みよりも鈍い痛みをお腹に感じる。

「っ‥‥‥名前、気分はどうだ?」

 気分だって?最悪に決まってる。

 思わず首を横に振ると、ぶつけた額を押さえていた手を私の背中に回して、クラピカは私の体を気遣った。背中に添えられた手が優しく私を撫でる。
 チラ、と服をめくって確認してみればそこには青黒く内出血した皮膚があった。深く息を吸えばズキズキと痛むため、浅い呼吸を繰り返す。

「痛いし、しんどいけど、内臓は大丈夫だと思う、多分」

 その答えを聞いて、クラピカは少しほっとした顔をしたが、すぐに眉を釣り上げた。

「だ、だいたい!君はなんであんな無茶なことをしたんだ!相手が凶器を持っていたらこんな怪我では済まなかっただろう!自分なら大丈夫とでも思ったのか?そんなわけないだろう!思慮の浅い行動だったと反省すべきだ!」

 ぐうの音も出ないほどの正論をマシンガンの如くぶちかましてくれたおかげで、私は痛くないはずの耳が痛かった。

 反省します、いえ、反省してますとも、ええ。なんとか彼を宥めようと、小刻みに頷きながらそう言えば、「ふざけているのか?」と真顔で返され、この先さらにヒートアップする予感がしたので、私は慌てて話題を変えようと辺りを見渡した。

「こ、ここって、クラピカの部屋?」

 どうやらこの作戦は成功だったらしい。ああ、とクラピカが頷く。マシンガンの熱は下がったみたいだった。

 私の部屋と同じ作りなのに、随分広く感じた。私が寝ていたベッドと、縦に積み上がった本、きちんと畳まれた服と、剥き出しに置かれたゴミ袋くらいしか物がない。冷蔵庫すら見当たらず、生活感を感じさせなかった。
 ミニマリストか。こんなところで生活をすれば、そりゃあ心を病むだろう。
 以前までの鬱々としたクラピカがこの部屋で膝を抱えている場面がやすやすと想像出来た。

「本当は救急車でも呼ぶべきかと思ったんだが、あの辺りは公衆電話も見つからなくてな。ひとまず私の部屋に運んだんだ」

 お腹は痛むけれど、救急車を呼ぶほどでもない。あの場を見られたら警察も呼ばれただろうから、クラピカの判断は結果的に正しかった。
 もちろん、その前提があっての上で思ったのは。

「‥‥‥なんのために携帯契約したのさ」

 ハッとした顔。どうやら、彼もテンパっていたらしい。



 お互い少し落ち着こう、と言ってクラピカはさっきコンビニで買った(私の場合、正確にはクラピカに買ってもらった)ミックスオレをご丁寧にストローを刺した状態で手渡してくれた。クラピカは自身の缶コーヒーのプルタブを開けていた。なんとブラックコーヒーだ。その歳にしてブラックを選択するとは。背伸びしているのかと思ったがそんなことはないようで、涼しい顔をして飲んでいた。少年とブラックコーヒーの組み合わせは恐ろしく不似合いな光景だった。

 走ったり緊張したり蹴られたりで、体力を消耗していたせいか随分喉が渇いていた。勢い良く飲み干す。そして、水分を欲している時に、甘いものは適切じゃないと知った。いつもなら美味しいミックスオレが喉の奥に張り付くような甘さに感じて、水で薄めれば良かったと思った。

 一息ついたところで、私はクラピカに視線を向けた。クラピカは眉尻を下げて、観念したように私を見た。どちらともなく、ごくり、と息を飲む。

「緋の眼、だっけ」

 確信を持った私の問いかけに、頷いたクラピカの瞳は焦げ茶色に戻っていた。だけど私はあの時、確かにこの瞳が赤く光っていたのを見たのだ。

「私はクルタ族の生き残りだ」

 クラピカは、淡々と言葉を続けた。興奮すれば緋色に輝く瞳を持っている。黒のカラーコンタクトを着けていたのは、この瞳の価値を知る者に狙われないためだ、と。

 初めて会った時の陰鬱とした佇まい、図書館での出来事、民族衣装を着るものがいないこと、その全てに合点がいった。あの日、図書館で見たクラピカの涙が脳裏に浮かぶ。

 極悪非道な事件、あんなことが私のお母さんに、お父さんに、おばあちゃんに起きたら私はどうなる?その時の感情なんて、想像もつかない。

 そんな私の頭では想像つかないようなことのど真ん中に、クラピカは立っているんだ。あの事件からずっと。死にたくなる気持ちをなんとか堪えて、孤独な時間を過ごして。この部屋が生気を感じさせないのは、きっとそういうこと。

 泣きたくなる気持ちを抑える。同情や憐れみを感じるのも、私が泣くのも違うと思った。だから、真っ直ぐクラピカを見た。正直に自分の秘密を打ち明けてくれたことに対して、真摯に向き合わなければならないと思ったから。

 焦げ茶色の瞳が揺れながら、私の反応を待っている。

「誰にも言わない、絶対に」

 互いの視線がかち合い、私は強く頷いた。
 クラピカの手を力いっぱい握った。その手は私より少し大きいけれど幼さを残していて、男女の境界線を曖昧にさせた。
 クラピカは薄い唇をぎゅっと固く結んだ。眉間にシワができるくらい眉を寄せ、泣きそうになっているのを誤魔化すためか少し俯きながら、うん、と頷き、私の手を握り返した。



「一度はうまく誤魔化せたのだがな」

 珍しく茶化すような口調で、クラピカは肩を竦めた。いつのことだろう。クラピカはそれ以上答えてはくれなさそうだった。結局、しばらく考えてみたがわからなかった。

「そういえば、あいつらやっつけたのもクラピカなの?」

 次々に聞こえた呻き声は記憶に新しい。
 最初からそうしてくれれば良かったのに。そしたらこんな怪我しなくても済んだじゃないか。
 そんな気持ちを込めて、じと、とクラピカを見ると、困ったように言った。怒りで我を忘れた時は普段とは違う力が出るのだ、と。つまりはコントロール出来るものでは無いらしい。火事場の馬鹿力のようなものか。

「ところで、あいつらは誰かに雇われていたらしい。たった一万ジェニーで私を連れてくるように頼まれたそうだ」

 知らぬ間に男たち相手に話を聞き出していたことにも驚いたが、それよりも。

「雇われ‥‥‥?ええと‥‥‥それって、私以外にも生き残りだって知られてるってこと?」

 なんと。たった今私は固い決意を持って誓いを立てたのに、他にも秘密を知る人物がいるとは。
 二人だけの秘密と思っていたのに、と若干ショックを受けている私に気づく様子もなく、クラピカは人差し指を立てた。

「エレーナさんだ」

 おばあちゃんが知っていた。

 まさかの事実に私は呆けたようにポカンと口を開けた。故郷から飛び出したばかりの頃は、色々と緋の眼の対策が拙かったらしい。その過程でおばあちゃんにバレてしまった、と。

「エレーナさんは、私を可愛がってくれた。離れて暮らす名前と重ねて見ていたようだ。それ故に、あの事件と憔悴していく私に酷くショックを受けてしまったのだろう‥‥‥。だが、私には体調を崩していくエレーナさんを気遣う余裕が無かった」

 すまない、とクラピカは謝ったが、私は首を横に振った。謝る必要なんて少しもない。おばあちゃんの心労の原因ではあるけれど、彼に落ち度なんて一つもないのだから。

「他に、知ってる人は?」

 クラピカにおばあちゃんを疑ってる様子は微塵もない。ならば他の誰か、クラピカの秘密を知る者の仕業としか考えられない。

 確証はないが、と前置きした上で、クラピカは中指を立てて、二人目の存在を明かした。

「恐らく彼女が知っている」

 室内で、インターフォンが鳴り響く。時刻は十八時を回っていた。



 今まで一度も対応してくれたことがなかったのに、と最初はそんなしおらしい態度をしていた彼女だが、経緯を聴き終えた頃にはスッカリ本性が明らかになっていた。

「私みたいに安い賃金で雇える奴が、スマートに依頼をこなせるわけないじゃない?」

 彼女は自分は雇われの身だと言った。『少年を連れてきて欲しい。出来る限り穏便かつ秘密裏に』という依頼を受け、このアパートにやってきたらしい。

 依頼主の落ち度は、報酬を出し渋ったことと、彼女に依頼したこと。

 彼女はいわゆる『何でも屋』のような職業らしく、仕事内容は専ら結婚式での友達役や迷い猫探し。人攫いなんかが出来る技量はなかったが、紹介者の顔を立てるために引き受けた。依頼主の報酬金額で人攫いを引き受けられる者は彼女くらいしかいなかったそうだ。

 彼女はどのように仕事を遂行しようか考えたが、毎日働きに出ているクラピカを女手一つで秘密裏に攫う方法が思い浮かばなかったらしく、驚くべきことに直接交渉を持ちかけようという考えに至ったらしい。生憎、あまりにも堂々と尾け回してくる彼女に、ターゲットであるクラピカがすぐに警戒してまともに取り合うことがなかったおかげで、交渉の余地すら無かったわけだが。

「いつまで経っても依頼が遂行されないから、あの男はきっとやきもきしてたでしょうねえ。報告するたびに、まだかまだかと急かされたもの」

 あっけらかんと彼女は言ってのける。

 今は表の仕事の方が給料の割合が大きいそうで、真面目に働く方が自分には合っているのではないかと思っていると自嘲気味に笑うので、ははは、と私もつられて愛想笑いをした。話を聞く限り、彼女に裏稼業は向いてなさそうだと思ったのだ。

「でも目のことは知らされていなかったわ。バレれば横取りされる可能性があるから私にすら言わなかったのでしょうね。半年以上追いかけてる間に偶然知ったのよ。ああ、安心して、話すつもりはないから」
「お前の言葉を信頼できると思うか?」

 彼女が話し始めてから黙って聞いていたクラピカが口を開いた。そらそうだ、彼女は今まで自分を追いかけていた怪しい人物。誰にも話さない保証はない。

 しかし、彼女は私たちの疑いの目を物ともせず、ははん、と鼻で笑った。

「私だって半分は裏社会の一員よ?お宝を狙う奴らに話す機会ならいつでもあったわ。だけど話さなかった。だから貴方は今まで無事でいられた、それが何よりの証拠じゃない?」
「‥‥‥その、じゃあ、どうして話さないでいたんですか?」

 今度は私の番だった。

 彼女の言い分は概ね正しいと思う。現に彼女と今日襲ってきた男たち以外に、クラピカが危険に晒されたことはないのだから。でも彼女は依頼を受けたただの『何でも屋』であり、クラピカの友達でも何でもない。だからこそ、話さない理由がわからなかった。

「私も少なからず、クルタの悲劇に関して心を痛めているのよ。人の目をほじくろうとしてる輩に、敢えて幼気な少年を差し出す畜生に見えるかしら?」

 私、博愛主義なのよね。そう付け足して、彼女は口角を上げた。
 私が横目でクラピカの様子を伺うと、目があった。クラピカは彼女に対してこれ以上の敵意はないようで、私に向けて小さく頷いた。

「本題に入ろう。依頼主とは、誰だ?」

 クラピカがすっと目を細めて射抜くと、彼女はしばらく無言を貫いたが、諦めたように長いため息を吐いた。

「依頼人のことは教えられない、と言いたいところだけど‥‥‥私に無断で他所の奴を貴方にけしかけてるんだから、向こうから契約破棄されたも同然だものねえ。うーん、そうねえ」

 彼女は、さてどうしようか、と顎に手を置き、私たちに依頼主のことを教えるべきか悩んだ。私もクラピカも、彼女の次の言葉を待つ。
 仕方がないわね、とうとう観念したように、彼女は口を開いた。


2017.8.15

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