運動会の朝に吸う空気はいつもと違って、朝起きたときから不安と緊張でなんだか息がしにくかった。今日は土曜日で、お母さんもお父さんも休みだから普段みたいに早く登校しなくてもいいのに、「先行くね」とお弁当を作ってくれているお母さんの背中に言った。「もう?お母さん達は九時半からだったよね?」「うん。六年は準備とかあるから」嘘をついて、いつも通りの時間に家を出た。
 荷物は水筒とタオルとプログラムだけだから軽いはずなのに学校に向かっている間も息苦しさは消えなくて、ナップサックの紐を握る手に力が入る。体調が悪いわけでもないのにお腹がぐるぐるして気持ち悪くて、俯いて歩いた。
 曲がり角を通り過ぎ、最寄りのスーパーを通り過ぎ。あと少しで学校だというのに足が重い。気持ち悪さを軽くしようとため息をついたときだった。「名前ー?」と後ろから呼びかけられ、振り向く。
 
「……宮城くん。おはよう」
「はよ。早いな」 
「宮城くんも」
「オレ体育委員やし。準備あるー」
 
 そうだった。宮城くんはわたしと違って本当に準備をしなきゃいけない係なのだ。「大変だね」と言ったわたしの隣に宮城くんは並んで歩き始めた。
 
「いよいよ本番か。楽しみだな」
「……うん。そうだね」
「どうした?名前元気ないな」
「なんか、緊張しちゃって……」 
 
 昨日の最後のエイサー練習は思うようにいかなかった。ここで落とすか?という場面でバチを落としてしまったのだ。あのときの周りの子達のがっかりした目を思い出すと、不安で仕方ない。
 「だからよー」と相槌を打ってくれるけれど、宮城くんは緊張なんて感じたことのない調子だ。
 
「宮城くんは緊張とかしないでしょ」
「なんだそれ?するに決まってんだろ」
「だって……」
 
 宮城くんはなんでもできる。全校生徒を代表して選手宣誓をするし、応援団長をするし、エイサーではメインの大太鼓を担当しているし、リレーではアンカーを走るという無敵っぷりだ。わたしみたいにバチを落とすなんてどうしようもないミスをしたところなんて見たことがない。いつもみんなを鼓舞して士気を上げてくれている。
 わたしがミスしたときだって、みんなに聞こえるように「オレも手汗やばくて落としそうだったー」とフォローしてくれた。その優しさがじわじわ染みて、昨日のわたしは一人トイレで泣いたのだけれども。
 
「名前、振りも動きも出来てるから。大丈夫だって」
「うん……」
「あとは自信持つだけ。ほら、顔上げろー」
 
 宮城くんの大きな手が帽子をかぶる頭の上に乗ったと思ったら、「わっ」俯き加減の顔を前に向かされる。そのまま宮城くんの方を見上げると、宮城くんは優しく目を細めて笑う。
 
「ちゃんと頑張ってるの見てるから。名前もオレの頑張るとこ見てろよ」 
 
 宮城くんが眩しい。直射日光はちょうど宮城くんで遮られているのに。逸したいのに、ずっと見つめていたいとも思う。見惚れるってこういうことを言うんだと身をもって知った。
 
「うん……頑張る」
 
 きっとわたしはまた顔を赤くしているはずだ。けれど、宮城くんに顔を上げろと言われたからもう俯けない。
 宮城くんはにっと歯を見せて笑うと、わたしの頭を雑に撫でた。そして離れていった手。帽子越しなのにその感覚が頭に残っていて、むず痒い。ユルユルになりそうな唇とほっぺたを必死に引き締めて帽子を被り直して整えているわたしの隣で、「ちなみにさー」とポケットに手を入れた宮城くんが眉を上げてわたしを見下ろす。

「今も緊張してる」
「本当?選手宣誓あるもんね」
「そっちかー」
「そっち……?あ、アンカーの方?」
「ははっ、そうだな。それもあるー」
「そっかあ」

 なんでもできて、余裕な顔をしている宮城くんでも緊張するんだ。そりゃそうだ、みんなに期待される立場なのだから。立場は全然違うし、緊張の種類だって違うだろうけど。「同じだね」と親近感を覚えているわたしの隣で宮城くんは「ん?」と同調するようなしないようなニュアンスで首を傾けて、「同じだといいな」とはにかんだ。
 
 宮城くんに頑張るところを見てろと言われなくても、わたしは宮城くんの姿を追っていた。運動会の熱気あふれる雰囲気に飲まれることなく朝礼台の上で堂々と選手宣誓する姿に勇気をもらい、顔を上げた。
 一、二年生の五十メートル走、チーム対抗の玉入れ、綱引き。プログラムは多少の遅れがありつつも――うちなータイムだ。そもそも、開始時刻すら予定時刻から遅れていた――大きな問題はなく進んでいっていた。三年生の百メートル走では宮城くんの弟のリョータくんが小さな体ながらぶっちぎりの一位をもぎ取っていた。リョータくんは敵チームだから大っぴらには喜べなくて――「ソータの弟しに早い」「あれは勝てん」とわたしのチームは残念がっていた――、わたしはこっそり拍手した。体育委員で応援席にいない宮城くんもきっと喜んでいるのだろうなと思った。
 わたしも頑張ろう。そう意気込んで臨んだチーム対抗リレー。宮城くんと同じチームになれたから、頑張っているところを見せるんだ!そんなわたしの頑張りは見事に空回りしてしまった。
 リードした状態で渡されたバトン。昨日バチを落としたことが頭に過ぎって、絶対に落とさないようにしよう、なるべくリードを維持したまま次の子に渡せるようにしよう、と懸命に走った。自分でも良いスタートを切れたと思ったのにカーブを曲がるところで乾いた砂に足を取られ転んでしまった。痛みを感じたときには全員に追い抜かれていた。すぐに起き上がったけれど、とんでもないことをしでかした焦りと恐怖で震えた手はバトンを落としてしまった。他のチームが遥か先を走る姿が見えて、みんなの声援が罵声に聞こえた。頭が真っ白になりながら転がっていったバトンを拾い上げ、なんとか次の子へ繋いだ。

「どんまい!大丈夫大丈夫!」
「気にすんな!みんなで取り返すから!」
「名前怪我してる!だれか保健の先生とこ連れてって!」
 
 みんなの優しい励ましがつらい。足の痛みなんかよりも心が痛くて苦しくて、俯くしかできない。「ごめん……」なんとか絞り出した謝罪の言葉をきっかけに涙を堪えきれなくなったわたしの背中を女の子達が「泣かないで」「大丈夫だから」と擦ってくれて、より一層わたしを惨めにさせた。最悪だ。消えてなくなりたい。みんなの心配する声と応援の声、会場の雰囲気。鼓膜の間に何枚も仕切りがあるみたいに声がボヤけるのに、自分の心臓の音だけバクバクといやに大きく聞こえる。
 大きな運動靴が下を向いたわたしの視界に入ってきて、「名前」とわたしを呼ぶ声だけが仕切りを破って聞こえた。宮城くんだとすぐにわかって、余計に涙が止まらなくなった。
 
「みっみやぎっくっ、わたし……ごめっ……」
「まだ泣くのはなしな。他のやつら今頑張ってんだぞ」
 
 ハッとして顔を上げた。わたしのせいで他の走者にだいぶ引き離されて一周分近くあった差は、後に続いた子達が奮闘してくれてさっきより距離が縮まっていた。わたしのばか。自分のことばっかりだ。
 
「怪我は?大丈夫か?」
「大丈夫!泣いてごめんっ」 
 
 腕で涙を拭ってぐっと歯を食いしばる。見上げれば宮城くんが不敵に笑っていた。
 
「アンカー、オレやし。諦めんのは早いんど」
 
 わたしの頭をポンと軽く叩くとスタート地点に向かう。アンカーのタスキを掛けた後ろ姿が頼もしかった。
 
「そうだよ!まだ挽回できるって!」
「私らは応援頑張ろう!」
「ソータ、全員抜いてこい!」
「ソータ!ちばりよー!」

 走り終わった子達の声援に熱が入る。宮城くんならやってくれる、そんな空気が流れ出す。みんなの期待がアンカーの宮城くんに一心に注がれる。
 
「任せろ!」
 
 プレッシャーのかかるこの状況、この場面、緊張しない人なんて絶対にいない。いくら宮城くんだって、緊張しないわけがない。それなのにみんなの期待を背負って笑う。
 ずるいよ、宮城くん。かっこよすぎる。感極まってまた泣きそうになって、ぐっと堪えた。
 
「名前、救護テント行く?血出てるよ」
「ありがとう。でも、リレー終わってからにする」
 
 気を遣ってくれたのは憧れの彼女だった。わたしより後に走った彼女は、普段より気合の入った髪型が乱れるまで走ってくれてわたしが大きく開けてしまった他チームとの距離を縮めてくれた。今だって息が上がっている。みんな頑張っているんだ。わたしに出来ることなんてないけれど、せめて応援を頑張りたかった。
 他チームのアンカー達に次々とバトンが渡る。アンカーが走るとなって運動場内の応援に活気づく。トップと半周以上遅れてようやく宮城くんにバトンが渡った。
 
「ソーター!行けー!」
「頑張れソータ!」 
 
 熱の入った応援がチームから沸き起こる。「ソーター!抜かせー!」隣に立つ彼女も拳を突き上げていた。わたしは祈るように両手を合わせた。宮城くん、頑張れ。頑張れ!

「宮城くんっ!頑張れー!」
 
 宮城くんの足はぐんぐんと速度を増していく。一歩の幅が大きくて、宮城くんが踏み出すたびに前を走る他チームの子との距離が縮まっていった。一周が終わるころ、宮城くんは一人抜かした。その瞬間、チームのみんなと一緒に飛び上がって喜んだ。
 
「ソータすごいっ!」
「いけー!もう一人!」 
 
 みんな興奮しきっていて、応援に熱が籠もる。わたしも負けじと声を上げた。そんなわたし達の熱量が移ったのか、他学年や保護者の応援の声量も上がっていく。そんななか、宮城くんは一気に二人抜いた。運動場にいる人達が一つになったみたいにわっと沸き立つ。
 
「やばいやばい!ソータすごいよ!」
「あと一人ー!ソータいけー!」
「頑張れー!」 
  
 アンカーは二周走らなければならない。トップを走る子に疲れが見え始めて一周目ほどの速さがない。それを追いかける宮城くんの足はスピードが落ちるどころか増していて、二人の距離が縮まっていく。息をするのも忘れて、祈るように握った手に力が入る。
    
「ほら!名前声出すっ!」
「わっ!」 
 
 祈りながら見守っていたわたしの背中を彼女が勢いよく叩く。途中から集中しすぎて応援の声が出ていなかったみたいだ。
 トップの子がカーブを終え、ラストのストレートに入る。少し遅れて宮城くんが。逃げ切るか、追い抜くか。残り数十メートルで決着が着こうとしていた。
 
「ソーター!」
「行けー!」
「抜けー!」
「負けんなー!」
「逃げろー!」
「あと少しー!」  
 
 あちこちから聞こえてくる双方の応援。それに感化されて、わたしも叫んだ。
  
「っソーター!頑張れー!」  
 
 そこからは一瞬だった。ゴールまであと少しのところで宮城くんは一位の子を追い抜いて、その勢いのままゴールテープを切った。運動場中に歓声と拍手が沸き起こる。
 劇的な結末に興奮のあまり息がしにくかった。目が潤む。宮城くん、すごい。すごすぎる。かっこいい!叫びたいくらいの気持ちだったのに、昂りすぎて逆に声が出なかった。だから、手が痛くなるほど強く拍手した。
 戻ってきた宮城くんをチームのみんなが囲んで、「ソータすごい!」「かっけー!」「しにはえーな!」と宮城くんの偉業を褒め称えた。わたしはその輪に入っていけなくて、遠くから宮城くんを見つめていた。
 中心にいる宮城くんは頭一つ分飛び出ていた。だからなのか、息を切らしながら体操服の襟首で汗を拭った宮城くんは高い視点からわたしを見つけた。重なった視線。宮城くんは歯を見せて笑うと、わたしに向かってガッツポーズをした。ただただ、カッコよかった。わたしがなにか成し遂げたわけでもないのに誇らしくて、宮城くんを好きで良かったと思った。わたしは何度も頷いて、真似してガッツポーズを返した。
 
「名前、怪我看てもらいに行こう」
「あっ、うん」
 
 声をかけられて、ようやく現実に意識が戻ったみたいな気になった。言われてから急に怪我の痛みがやってくる。さっき飛び跳ねていたときは感じなかった痛みに、よっぽどアドレナリンが出ていたんだろうなと思った。
 救護テントにつき、保健の先生に治療してもらっている間も彼女はそばにいてくれた。いつもなら率先してあの輪に飛び込んでいくはずなのに。
 
「わたし一人で大丈夫だから戻ってていいよ?」
「いいよ今さら」

 泣いたり、応援で興奮したりした後のわたしの顔は保健の先生的には見逃せないほど赤かったらしい。「苗字さんはしばらくここで休んでから戻りなさい」と救護テントに備えられている屋外用の扇風機の前にあるベンチに座らされた。隣りに座った彼女は、「あたしまでもらえたのラッキーやし」と熱中症対策に先生がくれたスポーツドリンクのペットボトルを傾ける。わたしも彼女も喉がからからだった。熱の籠もった体を冷ますためにペットボトルに口をつける。
 運動場では一年生が曲に合わせてかわいいダンスを踊っていた。「次、応援合戦だね」わたし達のクラスからは宮城くんが応援団長で出る。この席から見れるかな、と話しかけると彼女はわたしを見ずに、親指で人差し指の爪の先を弾く。今日はチームカラーの黄色のマニュキュアが塗られていた。
 
「名前、ソータのこと好きでしょ」
「げほっ、えっ、ええ!?」
 
 そんな、まさか。誰にも話していないわたしの気持ちがバレているなんて。しかもこんな運動会の真っ最中に指摘されるなんて。恥ずかしさとパニックで真っ赤になったわたしに、「バレてないと思った?」と彼女は呆れた視線を寄越す。
 
「ソータはさー、女子が一度は通る道なの。なしとか言う女子はいないって」
 
 一度は通る道。そう言われてしまえば、もう観念して頷くしかなかった。
 
「……嘘ついてごめん」
「いいよ、別に。あたしもわかってて意地悪したから」
「えっ……そうなの?」
「うん。でももういいかなって諦めついた」
「諦めって……」
 
 宮城くんを好きなことに対して?そんな意味を込めて見つめれば、彼女はわたしを見たあと、「ソータ、好きなひといるから」と言うとまた爪の先に視線を落とした。

「……保健の先生のこと?」
 
 夏休みが明けて、宮城くんが男友達に「先生は諦めた」と言っていたことはクラス中に知れ渡っているはずだ。彼女が知らないはずないのに、と思って聞いてみると爪を弾いていた彼女の手が止まる。
 
「先生はどう考えたって違うでしょ。こないだも否定してたらしいし、まあそうだろうなって感じ」
「じゃあ、さっきのって……」 
「ソータが本当に好きなひとのこと」
「えっ!?」
 
 宮城くんの本当に好きなひと。わたしは教えてもらわなければその存在に気付かなかったのに、彼女は気付いていたらしい。
 
「最近のソータ、隠さなくなったから。見てればわかるよ」
 
 しかも、だれかもわかっているような口ぶりだ。わたしがいくら考えてもわからなくて、最近は考えることすら放棄していた本当に好きなひと。それがだれか知っているなんて。
 驚いているわたしに彼女はあーあ、とため息をつく。無理に軽く装っているようなため息だった。
 
「あたし、四年のときからソータのこと好きだったのにさー」
 
 彼女の視線の先を追う。ダンスを終えた一年生が座席に戻っていき、入れ替わりで鉢巻を巻いた応援団が並び始める。真ん中に立った、飛び抜けて背の高いひと。

「だれかわかる?ソータの好きなひと」
「……ううん、わかんない」
 
 でも、だれであってもわたしは諦められないなって思う。だって、宮城くんだけきらきら輝いて見える。眩しくて、逸らしたいのに逸らせない。わたしの中でだれよりも大きな存在になってしまったから。
 
「ずっとわからないままでいたらいいのに」
 
 彼女はまたため息をついてペットボトルを傾けた。救護テントの隣の放送席から次のプログラムを伝える放送が流れた。
 
 応援席に戻るとみんなが声をかけてくれた。戻るのが遅かったせいで心配をかけてしまったらしい。熱中症疑惑のせいで戻ってこられなかっただけなのに、みんなの中では「実は骨が折れていた説」が流れていたそうだ。それを聞かされて、扇風機の当たるところでスポーツドリンクを飲んで恋バナをしていたわたし達は顔を見合わせて笑った。
 自分の席に座ろうとしたとき、わたしの後ろに座った宮城くんと目が合って、「大丈夫かー?」と話しかけられた。さっきまでの活躍や恋バナが過ぎって照れてしまって口元が緩む。
 
「うん、大丈夫」 
「折れてんだろ?」
「もう!折れてないって」
「おっ、なら踊れんな」
 
 宮城くんはそう言って眉をあげて笑う。からかわれているとわかっていても、ニヤけてしまった。
 
「あの、宮城くん」
 
 今ならリレーのお礼を伝えられると思ったとき、「ソータ、次の準備行くぞ」と別のチームの体育委員が宮城くんを呼びに来た。
 
「もう?座ってる暇ないな」
「先生呼んでるから早く」
「わかったー」
 
 運動会当日の宮城くんはいつも以上に忙しい。仕方ない、また後で言おう。立ち上がった宮城くんに「なんでもない」と手を振る。
 
「頑張って。行ってらっしゃい」
「おー。行ってくる」
 
 宮城くんはそう言ってわたしの手のひらを軽く叩いた。そんなつもりなかったのに。駆けていく宮城くんの後ろ姿に思わず笑みが溢れる。
 やっぱり諦められないよ。だれに言うでもなく、触れ合った手のひらをぎゅっと握る。大きな手だった。
 
 
 
 
2023.4.2

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