隠岐くんと付き合い始めて、一ヶ月と少しになる。わざわざ「わたし達付き合っています!」だなんて言いふらしたりはしていないけれど、二人でいることが増えたわたし達に前とは違う関係になったと感づく子は多い。「いつから?」「二人のときの隠岐くんってどんな感じなの?」とか、色々聞かれることもあったりする。そのたびに、皆が知っている隠岐くんとわたしの知っている隠岐くんは違うのかな、なんてちょっとした優越感があるのはわたしだけの秘密だ。
 
「ゴールデンウィークってバイト結構入ってるん?空いてる日ある?」
 
 学年が一つ上がってもわたしと隠岐くんが同じクラスになることはなかった。始業式の日、張り出されたクラス分けを二人で眺めて、「また隣のクラスやん」と残念そうに肩を落とした隠岐くんの隣で頷いたことは記憶に新しい。
 
「今のとこまだシフト調整できるから、いつでも空いてるといえば空いてるかなあ」  

 こうやって休み時間に廊下に出て話している場面なんてもう何度も見ているくせに、教室からはなんでかまた同じクラスになってしまった出水と米屋がわざとこっちを向いて含み笑いを見せつけてくるのが鬱陶しい。
 あの二人といえば、わたし達が付き合い始めてから前以上にからかってくるようになった。話しているところを目撃しようものなら、「よっ!お二人さんラブラブですなー」「なんかこうも上手くいくとそれはそれでうぜーな」とわざわざ余計なことを言いに来るし、照れたわたしが言い返そうものなら、「おーい、彼女照れてんぞ」「やっべ、苗字が隠岐の彼女っていう事実がなんかやべー」と更に煽ってくる。隠岐くんはそれを止めるわけでもなく、「あげへんでー」とにこにこ笑うので、毒気を抜かれた二人が「いらねーわ」「惚気んな」と隠岐くんを小突くのだった。
 視界を遮るように手帳を広げたわたしに、「よー飽きひんなあ」と同じく出水たちの視線に気付いている隠岐くんが笑う。呆れたような口振りにしては、ちょっと嬉しそうに笑っているところが理解できるようなできないような。
 
「ほんならこの日は?」
「うん、いーよ。どこ行く?せっかくだし映画とか?水族館もいいよね」
「ん〜それもいいねんけどなあ」
 
 同じ関西弁でもハキハキと話す真織とは違って、隠岐くんはいつも間延びした話し方をする。けれど、それにしても歯切れが悪い。

「それもいいけど?」
 
 話の先を求めると、隠岐くんは出水たち――奴らはバッチリこっちを見ていた。なんなら、さっきより近づいて聞き耳を立てようとしていた!――を確認するとわたしの手から手帳を抜いて口元を隠した。
 
「おれんちこん?」
 
 うみちゃん会いにおいでや。
 手帳に隠されたくぐもった声はわたしの耳にしか届いていないだろう。ぎこちなく頷いたわたしは隣の隠岐くんを見上げる。はにかむ姿に意味もなく唾を飲んだ。
 
 隠岐くんと付き合ってからデートをしたのはまだ二回しかない。一回目は約束した花見に行って、二回目は駅前に新しくオープンしたカフェでクレープを食べに行った。放課後やいつものコンビニで会うこともデートに数えるならその回数はもっと多いけれど、今取り上げるべき問題はそこではない。家にお呼ばれしてしまったということだ!
 隠岐くんと付き合って一ヶ月と少し、わたしと隠岐くんは至って健全なお付き合いをしている。誰もいない場所で手を繋ぐという進展はあっても、それ以上のことはなにも起こっていないのだ。まだ。
 
「隠岐くんって一人暮らしだっけ?やっば」
「下着、気合い入れてきなよ。買いに行く?」
「それよりそういうの無理なら無理って断る方がいいんじゃない?初めてなんだし」 
「ちょ、ちょっと待って何の話? 悩んでることよりレベル高い話しないでくれるかな!?」
 
 翌日の昼休み、私はクラスが離れてしまった友達二人に泣きついたのだけれど、彼女達はポッキーを摘みながらとんでもない次元の話をするので驚いた。そんな遥か未来の話をしているのではなく、わたしはもっと前の段階で困っているのに。

「じゃあ他になに悩むことがあるの」 
「そ、そりゃああれじゃん……キ、キスとか」
「えっまだだったの?」
「まだだよっ!」
「結構会ってるのに手しか繋いでないの?昨日も放課後デートしてたじゃん」
「昨日はたこ焼き食べに行って解散したもん」
「何このカップル超健全〜」  
 
 実は、そういう雰囲気になったことは一度だけあった。コンビニ帰り、「ちょっと寄ってかん?」と言った隠岐くんと公園に立ち寄ったときのことだ。ベンチで座って話していたけれど、話が途切れたときにわたしを見る目がなんだかいつもと違って、これはもしかしてと思った。隠岐くんの顔が近付いてきている気がしてどうしたらいいのかわからなくなって固まっていると、散歩に来ていた犬が隠岐くんの足に擦り寄ってきてそんな雰囲気はすぐに消えていった。

「……まだ付き合って一ヶ月ちょいだし、普通だと思うけど」
「そういえばそうだった」
「あんたら付き合う前からイチャつきすぎて新婚なこと忘れてたわ」 
「新婚って……」
 
 こっちは真剣に悩んでいるのに。頬を膨らますとポッキーで突かれた。チョコがつくからやめてほしい。
 
「ならあるんじゃない。キスくらい」
「家だしね。あるねこれは。隠岐くんはあんたの唇狙ってるね」
「そ、そういうやな言い方しないでよっ!」
「なに?嫌なの?」 
 
 嫌なわけない。嫌なわけじゃないけれど、経験がないから不安なのだ。どうしたらいいかわからない。うう、と机に突っ伏す。「あんたは流れに身を任せて目瞑っときゃいいの」そう言われても、それができそうにないから困っているのに。
 手帳のカレンダー。日付を囲った小さなハートマーク。決戦の日は、あと数日というところまで迫っていた。
 
 
 
 隠岐くんの家はわかっているからマンションのエントランスホールで待ち合わせすることになった。今日も今日とて拝借してきたロードバイクを駐輪場に停め、皺の付いた服を整える。「念のためスカートはやめといたら?」「まあ、まだ早いもんね。あんたらには」という下世話な友達のアドバイスにより今日はオールインワンを着てきた。いや、間違いなくそっちの心配がないのはわかっているのたけれど、スカートで座ったときにパンツが見えたら恥ずかしいので。
 ひとまず、深呼吸をして、それからリップクリームを塗りなおした。桜の香りにむずむずして、唇を包む。隠岐くんがホワイトデーに同じ香りのするハンドクリームと一緒にプレゼントしてくれたものだった。
 緊張と不安と期待を抱きながらエントランスホールに向かう。心の準備のために予定より早く来たので隠岐くんはまだ降りてきていないだろうと思っていたのに、エントランスホールには既に隠岐くんが立っていた。
 
「あれ、早ない?」
「お、隠岐くんこそ……」
「あんまゆっくり会う日とかないし、楽しみやってん」
 
 隠岐くんは、そういう照れくさいことをへらりと笑って言うからずるい。
 
「さ、さいですかあ」
「苗字さん、照れたらいっつもそれやなあ」
「あほ、照れてへんわ」
「お、今の言い方うまいやん」
 
 うつったんかな、と隠岐くんが嬉しそうに笑ってエレベーターのボタンを押す。わたしはその後ろでニヤけそうな顔をどうにか堪えるために唇に力を入れていた。「うつった」って、なんか嬉しい。一緒にいることが当たり前なことみたい。
 エレベーターに乗り込むと、隠岐くんは「もしかしてそれ、買ってきたん?」とわたしが手に持っていたケーキ箱を指差した。
 
「うん。近所のケーキ屋さんのやつ。美味しいんだよ」
「なんやえらい気ぃ遣うやん。悪いしお金出すわ」
「いや、これは客としての礼儀ですから!」
「そうなん?じゃあ今度そっち行くときおれもなんかええやつ買ってくわ」
 
 今度わたしの家に来るのか?自然に立てられた予定にどきどきした。
 
「……紅茶とかある?」
「甘いやつならさっき買うといたで」
「隠岐くん気が利くなあ」
「せやろ〜ええ彼氏やわあ」
「自分で言ったから減点でーす」
「え〜?」  
 
 このやりとりを出水や米屋が聞いていたらまたからかわれるんだろうなあと思っていると、電子音が到着を知らせた。エレベーターを降りて、外廊下を歩く。
 ちらちらと過ぎていく部屋番号。隠岐くんの部屋までのカウントダウンみたいで緊張した。507、508、509、とあっという間に通り過ぎていって、やがて隠岐くんが一つの部屋の前で止まった。「ここで〜す」隠岐くんがちょっと照れくさそうに自分の部屋を指差した。緊張が高まっていく。
 鍵を開けようとする隠岐くんの後ろ姿を見ていたら心臓が保たなくなって、「ご、五階ってさー結構高いよね〜」なんてどうでもいい話をしながら、視線を逃がす。鍵が開かなければいいのに。なんて思うけれど鍵はすぐに開いた。
 いよいよ隠岐くんの部屋に足を踏み入れるときが来てしまった!ごくり、と唾を飲み込んだ。「どうぞ〜」と隠岐くんが扉を開ける。覚悟を決めていざ!と思っていたら、隣の扉も開いた。

「隠岐ーお前イコさんからの連絡見てへんやろ……うわ、女連れやん。タイミング悪ぅ」
「……タイミング悪いんそっちやないですか」
「こ、こんにちは……」
 
 隣の部屋から出てきたのは水上先輩だった。卒業してからも特に変化のない先輩は、わたしの顔をじっと見ると「しかも苗字ちゃんやん。攻略されとるし。おもんな」とつまらなさそうに頭をかいた。
 
「こ、攻略って……?」
 
 そういえば、そんな話をしたことがあったなと過去の会話を思い出す。隣に立つ隠岐くんを見上げると、「ほんまもー最悪」と額に手を当てていた。どうやらこの質問には答えてくれそうにないや。
 
「俺今日一日家おるつもりやねんけど。しゃーないし音楽かけといたるわ。耳栓もしたほうがええ?」
「……先輩変なこと言うたらほんま今日は許さないんで」
「え〜隠岐くん変なことってなにするつもりなん?……って冗談やん。そんな怖い顔すんなや」
「そういうネタでからかうんやめてください。ほんま、まだそんなんなんもないですし」
「まだ」
「……そこつっかかんのやめてもらえますか」
 
 この会話が指す意味はさすがにわかる。似たようなやりとりを散々友達としたのだから。顔が熱くなって、ブワッと変な汗が出てきた。見上げた先にいる隠岐くんと目が合うとすぐに顔を逸された。隠岐くんも顔が赤い。そのせいで、更に熱くなる。
 
「ほな、あとは若いお二人で楽しんで。イコさんにはちゃんと連絡返しときや〜」
 
 固まっているわたし達をよそに、水上先輩はニタァと笑ってから扉を閉めた。
 
「ほんまあの人ありえへん」
 
 赤い顔をしたまま、憎々しげに呟いた隠岐くんにわたしも同意した。
 ほんまあの人ありえへん!
 
「……なんかごめんな」
「……ううん、だいじょーぶ、です」 
「ほんなら、まあ、大した部屋ちゃいますけど……どうぞ」
「は、はあい。お邪魔しまぁす……」 
 
 気を取り直そうと思っても、さっきの水上先輩とのやりとりがあとを引いていてわたし達はぎくしゃくしていた。妙な空気のなか、靴を揃えて隠岐くんの後ろをついて歩く。
 案内された隠岐くんの部屋はグレーとベージュを基調としたシンプルな部屋だった。ソファや観葉植物、小物がいい感じに配置されていて、同じ男なのにぐちゃぐちゃで汚いお兄ちゃんの部屋とは全然違った。ついでに、統一感がなく適度に散らかっているわたしの部屋とも全然違った。
 ケーキの箱をソファ前のローテーブルに置いて、辺りを見渡していると「あんまマジマジと見んといてーや」と隠岐くんが照れくさそうに言う。

「だってさあ、なんかお洒落で……」
「そんなことないって。昨日必死で掃除したし。クローゼットんなかとか物溢れそうでやばいわ」
「え?それって開けろってこと?」 
「ほんまやめて。前フリちゃうから」
「へへへへ」
「その笑い怪しいねんけど」
 
 解れてきた会話にほっとする。そしてようやくわたしは今日の目的を思い出して部屋中へ視線を走らせた。低めの棚の上、インテリアに紛れたアクリルケースがひとつ。
 
「うみちゃんだ!」
 
 思わず近寄る。屈んで覗き込むと、うみちゃんは驚いたのかおがくずに隠れてしまった。隠れきれなかったお尻がぷりっと出ていてかわいい。
 
「かわいい〜」
「触る?出そか?」
「ん〜もうちょっと慣れてからじゃないと可哀想だから、あとにする。あーでもかわいいなあ」
 
 ね?と首を傾げて同意を求めた。思ったより近くにいた隠岐くんは、「……うん。かわいいな」なんて言ってゆっくりと目を細めて穏やかに笑う。そんな攻撃を間近で食らってしまい、平静でいられる女子がいるだろうか?いや、いるわけない!
 
「っち、近っ!はい、どいたどいた!」
 
 わたしが軽く押せば、隠岐くんは簡単に距離を取った。「なんでそんな焦ってるん?」なんて笑う。なんでってそんなの、わかっているくせに。人生で初めて足を踏み入れる男の子の部屋が隠岐くんの部屋だなんていう事実と、ここから先の展開が不安でわたしはずっとどきどきしているのに。
 なんだか悔しくなってへらへら笑う隠岐くんの頬をつまんだ。隠岐くんの頬は柔らかくてよく伸びた。「いひゃい。なにすんの」隠岐くんは困ったように眉を下げるだけで、笑い顔をやめない。

「隠岐くんのそういうとこがさあ、なんかさあ……もう!ずるい!」 
「はは、苗字しゃん言うてることなんもわから〜ん。ちょお、引っ張らんといてぇや」 

 説明を求められても困るので、最後にどこまで伸びるか試してからつまんでいた手を離した。隠岐くんは頬を撫でてから、わたしの不機嫌ヅラを見てまた笑う。
 
「ケーキ食べる?おいしいやつあんねん」
「それ、わたしが持ってきたやつじゃん」
「バレてもた」
「当たり前や。あんたなに言うてんねん」
「ツッコミがマリオみたいになってるやん」
「同じクラスなってから真織に弟子入りしたもん。名前の関西弁は隠岐に寄りすぎやねん!ってよく言われるけどね」

 細井さんもとい、真織とは三年から同じクラスになった。隠岐くんを通して去年からたまに話していたこともあって、同じクラスになり意気投合したわたし達は今じゃとっても仲良しになっている。「細井さんてなんかよそよそしいし、真織でええで」「じゃ、わたしも名前でいいよ」なんて四月当初に初々しいやりとりもした。そんな彼女に鍛えられ、わたしの関西弁のツッコミ力はメキメキと力をつけてきたのだ。
 
「ふうん。なんやめっちゃ仲良うなってるやん」
「でしょ。羨ましい?」
「うん。めっちゃ羨ましい」
「え、あ、そう?」 
 
 意外な返答に戸惑っていると、隠岐くんは「よっこいしょ」とおじさんみたいな掛け声で立ち上がって、「お皿とフォーク持ってくるわあ」とキッチンの方へ歩いていった。
 改めて二人でテーブルに向かい合わせで座って、「じゃーん!」とケーキ箱を開けた。中身を見た隠岐くんは「多ない?」と半笑いを浮かべていた。
 
「ショートとチョコと、あとベイクドチーズとレアチーズです!」
「数おかしない?一人二つあるねんけど」
「食べ盛りだからいーの。わたし全種類コンプしてるから、隠岐くん好きなの選んでいいよ。どれにする?」
「ん〜……そやなあ」
 
 隠岐くんはケーキ箱を覗き込んだ。どのケーキも美味しいから迷っているのだろうなあとその様子を見守っていたら、ちら、と隠岐くんは目線だけ上げた。
 
「ん?どうしたの隠岐くん」
「……名前って呼んでええ?」
 
 名前。名前……!?突然隠岐くんの口から自分の名前が飛び出して、驚きとときめきのあまりぎゅっと心臓が縮んだ。
 
「は……?えっ、ええ!?いきなり何!」 
「だってマリオだけずるいやん。やからおれのことも下の名前で呼んでえや」
「ずるくない!却下!」
「え〜なんで〜」
「ま、まだ早いと思うので」
「なんも早なくない?」
 
 なんでなん、ずるい、とぶーたれる隠岐くんのお皿に独断でベイクドチーズケーキとレアチーズを盛った。

「ちょお、おれのチーズばっかやん」
「……隠岐くんはチーズケーキのような男なので」
「全然わからんわ、それ。しかも結局隠岐くんやし」
「……名前の件は今後話し合う機会を持つということで手を打ちたいなあ」 
「おれが呼ぶんも?」
「おれが呼ぶんも」
「え〜?じゃあいつから呼んでええん?」  
「いつって……こう、トドメ刺す時とか?」
 
 しばしの沈黙。隠岐くんの唇が笑いを堪えるように波になる。
 
「なんなんそれ。必殺技なん?」
「んっふっ、ひ、必殺技かも?」

 わたし自身、自分で何を言っているのかわからなくなって笑ってしまうと、隠岐くんも堪らず吹き出した。しばらく二人でヒイヒイとお腹を抑えて笑いながら、落ち着いた頃ようやくケーキにありつけることになった。
 ダブルチーズケーキの隠岐くんは「一口あげる〜」とわたしの口にレアとベイクドそれぞれのチーズケーキを放り込んだ。二口分のケーキのせいで頬をパンパンに膨らましながらも、間接キスじゃん、と真っ赤になったわたしを見て隠岐くんは「ほっぺ、うみちゃんみたいやな」と満足そうに笑っていた。やられてばっかりで腹が立つのでわたしの分も隠岐くんの口に入れたら、「こんなとこ見られたらまたイジられるなあ」と隠岐くんは頬いっぱいに詰まったケーキを嬉しそうに咀嚼していた。
 ケーキ二つはさすがに多かったな、と膨れたお腹を擦りながら、隠岐くんの買ってきてくれていたペットボトルのミルクティーを傾ける。腹ごしらえも済んだことだし、そろそろうみちゃんを触りたくなってきた。果たしてうみちゃんはわたしの存在に慣れてくれただろうか?
 
「うみちゃん触っていい?」
「えーで。いよいよご対面やな」

 二人してそうっとアクリルケースに近付いた。うみちゃんはくんくんと鼻をひくつかせながらおがくずから出てきた。お、これはいけそう。わたしが期待を込めて隠岐くんを見ると、隠岐くんは「おやつあげよか」と言って近くの箱からハムスター用のドライフルーツを取り出してわたしの手に乗せた。
 
「うみちゃーん。名前ちゃんやでえ」
「……いま必殺技するとこじゃなくない?」
「うみちゃんからの流れでつい言うてもた」
 
 可愛らしく首を傾げた隠岐くんに全く悪びれる様子はない。なんだかな、と照れくささとわざとそういうことを言う隠岐くんにちょっとだけ腹が立って唇を突きだす。
 
「まあまあ。うみちゃん触って機嫌直してや」
「わあ……かわいい……」 
 
 隠岐くんによって掌に乗せられたうみちゃんは写真や動画で見たよりも大きくて、ふわふわしていた。足の爪が肌に引っかかって痛痒い。わたしの手の中で一生懸命ドライフルーツを食べる姿が可愛すぎて、きゅんとなる。
 
「ね、ね、隠岐くん写真撮って!わたしとうみちゃん!」
 
 「機嫌直んの一瞬やん」隠岐くんは笑ってスマホで写真を撮った。
 
「だってこんな、こんなかわいいなんて聞いてない!」
「結構言ってんで、おれ」
「持って帰りたい!」
「それはあかん」
「そこをなんとか」
「あかんって。うみちゃんはあげれへんわあ。おれの癒やしやもん。なー、うみちゃん」
 
 いまだドライフルーツを食べ続けるうみちゃんを隠岐くんは人差し指で撫でた。他の指がわたしの手に触れてくすぐったい。隠岐くんとの距離が近いな、と気付いたらたくさん話すことがあったはずなのに急に言葉が出なくなった。

「う、うみちゃん、かわいい」
「急にカタコトやん」 
「そ、そう?えーっと……うみちゃん、かわいいね。うん、かわいい」
「何回それ言うん?」
「だって……」
 
 ぎゅうっと掌を握って緊張をどうにかしたいのに、うみちゃんがいるから握れなくて、わたしの緊張はどこにも逃げられない。
 ただでさえ近いのに、座り込んだわたしのすぐ横で隠岐くんが床に手を付いた。さっきよりも隠岐くんをぐっと近付くに感じて、体温が上がっていく。
   
「う……うみちゃん……」
「さっきからうみちゃんしか言うてへんやん」
「……ち、近いって」
 
 どいたどいた、とケーキを食べる前のわたしは隠岐くんを押してこの距離を引き離すことが出来たのに、今はうみちゃんがいるから手を動かせない。
 咄嗟に俯くと、「なあ、こっち見てえや」とさっきより近いところで隠岐くんの声がする。

「む、むりいいい……!」
「そこをなんとか」
 
 面白がっているな、隠岐くんめ。睨みつけたくて、少しだけ顔をあげる。ほら、やっぱり笑ってる。
 
「うーん、もうちょい」
「むり!だ、だって隠岐くんさあ……!」   
「おれが?」
「……なんでもない」 
   
 いくら経験のないわたしでもわかる。隠岐くん、キスしようとしてるじゃん!つい手に力が入り、中のうみちゃんが居心地悪そうに丸くなる。
 このどうしようもない状況に、どうしようどうしようとうみちゃんを必死に見つめていたら、額に柔らかいなにかが触れた。「え」驚いて思わず顔を上げる。隠岐くんはちょっと拗ねたみたいな、照れたみたいなそんな顔をしていた。
 
「うぇ、あ、あの、今のっん」

 「あんたは流れに身を任せて目瞑っときゃいいの」友達はそう言ってたのに。流れに身を任せるも何もなかった。目を瞑る余裕だって。   
 すぐ目の前に隠岐くんの顔があって、まばたきをすれば睫毛の先が隠岐くんの肌に触れる。触れただけの唇はすぐに離れていった。一体何が起こったのか。わたしの頭は真っ白になっていた。
 驚きのあまり握り潰しそうになったうみちゃんを隠岐くんがそっと引き取ってケースに戻す。わたしはその様子を景色のように呆然と眺めていた。
 うみちゃんを戻した隠岐くんはほんのり色づいた頬で目尻を緩ませた。その表情がわたしに感情を蘇らせる。そんなに嬉しそうな顔をしないで欲しい。きゅーっと心臓が縮んで、息ができなくなってしまうから。

「ちゅー、してもたな」
「……し、してまいましたな」
「ん〜、でもなんかうまくいかんかったし、もう一回してもええ?」
「えっ、ちょ、ちょっと待って」
 
 心の準備が!思わず体の前に手を出して抵抗する。
 空になったわたしの手を隠岐くんが掴んだ。鼻先がわたしの鼻にくっつきそうなところで笑う。だめだ、観念しなきゃいけないみたい。「こういうときは目ぇ瞑らな」その言葉に流されるまま、わたしは瞼を下ろした。
 一瞬触れただけのさっきとは違い、じんわりと熱を移し合うみたいに、隠岐くんの唇はゆっくりゆっくりわたしに触れていった。重なった部分がこそばゆい。
 隠岐くんの手がわたしの首筋に触れそうなほど近付いて、ぞくぞくした。あと少しのところで唇が離れる。
 
「……あかん、手ぇ洗ってへんやん」
「……うん」
「洗いに行こっか」
 
 先に立った隠岐くんは、頷いたわたしの手を引いて立ち上がらせた。手を繋いだまま洗面所に向かった。
 隠岐くんの次に手を洗う。洗面所を見渡す余裕なんてなかった。自分がどんな表情をしているかと思うと恐ろしくて、鏡が見れない。水道の流れる音と自分の心臓の音だけで世界が成り立っているみたいだった。
 タオルで手を拭いて振り向くと後ろに立っていた隠岐くんと目が合って、また心臓が跳ね上がった。洗ったばかりで冷たい隠岐くんの手がわたしの顎のラインを沿って、ぞくぞくする。そっと首を持ち上げると、隠岐くんが身を屈めた。近付く隠岐くんの顔。言葉を交わしていないのに示し合わせたようにわたしは目を閉じた。
 
「……好きやで、名前」 
 
 唇が離れた瞬間、そんなトドメを刺してくる隠岐くんはやっぱりずるいと思う。わたしはこの彼氏にあと何度必殺技を使われるのだろう。数えるのが怖いや。
 

2023.2.15

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