体育館に響くバスケットボールの重低音、コートで繰り広げられる白熱する試合、それに呼応するようにボリュームを上げる応援。練習試合だというのに肌が粟立つようなびりびりとした緊張を感じながら私はリョータを見ていた。
 周りの選手達より頭二つ分小さいリョータは、迫力あるゴールを決めたり、遠くからゴールを決めるようなスーパープレイをしたりしない。けれど、リョータがボールを持つことから攻撃が始まる。背の高い味方の人達がすごいゴールを決められるのはリョータからパスがあるからだ。ルールすらよくわかっていない私にわかることはそれだけだった。
 リョータが声や身振りで指示を出す姿にぐっと心を揺さぶられる。かっこいいと思った。同時に、ここに立つ自分が情けないと思った。
 私、塾をサボってなにをしているんだろうって。
 
「どーだった」
 
 試合を終え、着替えを済ませてジャージ姿になったリョータは待っていた私を見つけるとしらっとした顔で唇を突き出してそう言った。この唇が私に触れたんだよな、と改めて考えるとリョータと話すのが途端に恥ずかしくなった。
 
「……かっこよかったよ」
「……だろ」
「聞いておきながら照れないでよ」
「そういうんじゃねーし」
  
 目的地を確認し合ったわけではないけれど、私達の足は帰路を辿っていく。リョータから伸ばされた手は自然に私の指に絡んでいた。ぎゅ、と指先に力を入れて握られていることにドキドキしてしまう。だけど、今日はうまく握り返すことができない。
 
「今日一日空いてんの?」
「……やっぱ途中から行こうかなって思ってて。一旦家帰ってから塾行くつもり」

 本当は、一日サボってリョータと遊びに行こうと思っていた。いつも頑張っているんだから一日くらいいいよね、と言い訳も用意していた。けれど、今日のリョータの頑張りを見ていたらそんなこと出来るわけがなかった。

「リョータ」
 
 私が呼びかけると、「なに」と返事をするリョータの声。好きだなと思った。だから、このままじゃいけない。
 クラスメイトの彼に私とリョータが釣り合っていないと言われたけれど、本当にその通りだ。今の腑抜けた私にリョータは勿体ない。

「一旦もとの関係に戻ろうよ」 
「は……マジで言ってんの」  
「うん」
 
 私から告白したくせに、何を言っているのだと思う。あのときは自分がここまで恋愛に夢中になるタイプだなんて思っていなかった。私はいつの間にこんなにリョータのことを好きになったんだろう。悔しい。
 握り返さない私の手を離さないとでもいうようにリョータの手に力が入った。
 
「やだ」
 
 そう言って眉を歪めたリョータは、ソーちゃんと私の間に入って怒ったり泣いたりした幼い頃の顔をしていた。 
 
「付き合ってやっぱ違うってなった?」
「違う。そんなんじゃない」
「じゃあなんで」

 どう答えようか考えあぐねいている間に、リョータが言葉を重ねる。
 
「こないだの、やだったんならもうしないから」
 
 こないだの。今一番頭を悩ませる原因を作ったあのキスのことだ。リョータもリョータで、あのキスにはそれなりに思うところがあるらしい。そう思うと、笑ってしまった。「逆だよ、バカ」重たい雰囲気が和らいで、リョータがバツの悪そうな顔をする。
 
「逆ってなんだよ」 
「リョータも国語力なくない?」
「今からかうとこじゃねーんだよ」
 
 そうは言われても、からかい混じりでないとキスのことを改まって説明するのはさすがに恥ずかしいのだ。結局、早く言えとでもいうように私を見るリョータにこれ以上からかうようなことを言えずに、さっきのリョータと同じように「こないだの」と濁した。
 
「……私、あの日からそればっか考えて、全然勉強できないの」
 
 言ってから羞恥が増していく。そればっかり考えているってなんだ。キスしか頭にないってどんな女だ。いや、事実なのだけど。さすがにもう少し言葉を選べば良かった。
 想定外のことだったのか、は、と一音発したリョータはしばらく黙ったあと、口元を手で覆って「……そのうち慣れんじゃねーの」と視線をそらした。
 
「慣れないよ。だって私、手ぇ繋ぐのだってまだ慣れないもん」
「あー……うん」 
「……慣れるまでに受験終わっちゃうよ」
 
 ちょっと待って、と言うとリョータはまた手で口を覆ってしまった。けれど、その目と眉が笑っている。さっきまで不貞腐れた顔をしていたくせに、と腹が立ってきた。
 
「私、真剣に話してんのになんで笑うの」
「笑ってねーって」
「いやどう見ても笑ってるから」
「あのさ、自分で何言ってんのかわかってんの?」
「そりゃ、自分で言ってんだからわかってるに決まってるじゃん」   
「だってさ、さっきのって、オレのことすっげー好きってことじゃん」
「は……」
 
 今度は私が一音しか出ない番だった。オレのことすっげー好きって。そりゃそうだけども。お互い好き合っているのはわかっているのに言葉に出して伝えたことがなかった。だというのに、まさかそれをリョータに言い当てられるとは思わなくて、混乱した。
 
「うるさい。こっち見んな、バカリョータ。さっきまで焦ってたくせになんで余裕そうにしてんの。むかつく。もうやだ」
 
 先に好きになったのはリョータのはずなのに、今じゃ私ばっかり好きみたい。なんでリョータはこんなに余裕があるのだろう。リョータの言葉や行動一つ一つに振り回されて、勉強も手に付かなくなってる自分が情けなくて恥ずかしい。
 泣き出しそうな顔を見られたくなくて、私は早足で歩き出した。でもリョータの手は私の手を捕まえたままだからどれだけ早歩きをしても引き離せない。リョータはすぐに隣に並んできて下から顔を覗きこもうとするから、見られてたまるかとそっぽを向いた。

「ごめん」 
「謝るくらいなら手、離して」
「それはやだ」
 
 並んで早歩きが続くのはそう長くなかった。受験勉強特化型の私の体がすぐに音を上げたからだ。結局、だらだらと普通に歩き始めていた。
 沈黙のまま、手を繋いでいる状況はなんだか滑稽だった。私はずっとリョータと反対側を向いていた。やがて海が見えて、太陽が反射してきらきらと眩しくて目を背けた。その先にいたリョータと目が合って、気まずくなって逸らす前に「海、行かね」とリョータが私の返事を待たずに手を引いた。
 砂浜に降りる階段の途中で座ったリョータに手を引っ張られて促されるまま、隣に座った。塾、と呟くと、「サボってんだしちょっとくらいいいだろ。どーせオレのことで頭いっぱいで勉強できねーみたいだし?」とリョータは生意気に眉を上げる。せっかく落ち着いてきた気持ちがまた昂ぶる。私はいつものリョータの顔になった。つまりは、不機嫌顔ってこと。

「その顔やめろよ」
「リョータの真似だし」
「いっこも似てねえよ」
「アンナちゃんには好評なのに」
「どこがだよ……つーか、こんな言い争いしてーんじゃねーの」
 
 そうだろうなあとどこか冷静になりだした私はリョータの顔真似をやめた。対して、リョータはいつものように唇を尖らせる。
 
「あのさ、なんかわかってないみたいだから言っとくけど。同じだから」
「なにが」
「だから、そればっか考えるってやつ。ヨユーとかあるわけねーじゃん、必死だっつーの。だせーから隠してんの」
 
 握られた手に力が込もる。もうリョータは余裕のある顔なんてしていなかった。確かに、リョータが私のことを好きだなんて百も承知だ。余裕そうな顔だって、作った顔なことくらいわかっている。だけど屁理屈をこねたくなるのはなんでだろう。
 
「……だってリョータ、普段好きとか言わないじゃん」
「言っていいならいくらでも言うけど。そしたら多分止まんないよ、オレ。いいの?」
「なにそれ。意味わかんない」 

 はあ、とため息をついたリョータは「もういい」と勝手にこの話を終わらせた。よくない!と話を続けようとしたけれど、本題からズレていることをいつまでもぐだぐだと続けたって話が進まないので、私もこれ以上この話を広げるのはやめた。
    
「ようするに、受験の邪魔になることしなきゃいいんだろ」
「まあ、そういうことかな」 
「なら別に別れる必要ないじゃん」 
「……だーかーらあ、恋人っぽいことしないって言ってんの。恥ずかしいこと言わせないでよ」
「だからこっちだって我慢するって言ってんだろ」

 まるでさっきから言っているだろうとでもいうような物言いだったけれど、初耳だ。「我慢?」と首を傾げれば、リョータはそれはそれは不満そうに、「……そう」と言った。この前キスをした唇を突き出して。思わず目が泳いでしまって、動揺を隠すために強がって「ならいいけど」と頷いた。
 
「こういうのもなしだよ」

 たった今掴んで離さない手を見ながら言うと、リョータはムッとしながら渋々手を離した。はっきり言って、手も繋がないキスもしない恋人なんて必要なのか?と思う。あまりにもプラトニックすぎる。

「もとに戻るのも今と変わんないと思うけどなあ」 
「彼氏いますっていうのと彼氏いませんって言うのは全然ちげーじゃん」
「そう?」
「……ちゃんと周りに彼氏いるって言いふらしとけよ」
「言いふらしはしないけど。じゃあリョータも彼女いるって言いなよ」
「トーゼン」 
 
 こうして、私達の付き合いは継続されることになったのである。
 

 
 恋人関係が続くといっても、私には受験があり、リョータにはバスケがある。忙しい日々は何も変わらず、むしろ会うことはほとんどなくなっていた。最近会ったのだって、塾の行きがけに早めに部活が終わったリョータと偶然出会って「おつかれー」「おー、頑張ってこいよー」なんて自転車に乗りながらタッチを交わしたことくらいだ。たまに電話で近況を報告しあうことはあっても、回線を通して愛を伝え合うなんてことはしない。もはやプラトニックを通り越していたけれど、これが受験の邪魔をしないと言ってくれたリョータなりの愛情表現なのだと私は勝手に解釈していた。
 そんなわけで、受験に向けて集中できる環境が整い、私はいつになく勉学に励んでいた。誘惑に負けそうになるときもあるけれど、そんなときはあの日の練習試合のリョータを思い出す。リョータに追いつきたい。負けたくない。私だってリョータの彼女として胸を張って隣に立ちたかった。
 
 年も明け、センター試験はもう目の前まで迫っていた。過去問を解くだけのために行っていた塾からの帰り道、妙な緊張感と興奮を募らせながら自転車を漕いだ。「名前ちゃん!」軽やかな声に呼び止められ、ブレーキをかける。アンナちゃんだ。その後ろにはダウンに首を埋めたリョータが立っていた。
 リョータ達の住む団地より離れた通りなのに、一体なぜこんな時間にこんなところに?という疑問はリョータがビニール袋を揺らして答えた。

「アンナが腹減ったってゴネるから付き添い」
「家からは遠いけど、あえてね。ね〜リョーちゃん」
「なにが言いてーの」
「べつにー?」
 
 ませた笑みを浮かべて、アンナちゃんは私達よりも先を歩いた。「あんま先行くなって」と暗がりを進んでいくアンナちゃんに兄らしく心配の声をかけるリョータに張り合うかのようにアンナちゃんは駆け出した。「話聞いてんのかよ」自転車を押す私の隣で呆れ顔をするリョータに、ずいぶん遠くまで走っていったアンナちゃんが振り返る。
 
「リョーちゃん、名前ちゃんに会えて良かったねー!」
 
 通り一面に響く大きな声に、私とリョータは顔を見合わせた。
 
「……アンナのやつ、知ってんのかよ」 
「言いふらせって言ったのリョータじゃん」 

 今まで電話なんてする仲じゃなかったのにこそこそと電話をしている時点で怪しかった、とアンナちゃんが私に電話してきたのはつい先日のことだった。兄の恋心を見抜いていた彼女に隠し事なんて土台無理な話だったのだ。
 
「くっそ。あいつぜってー面白がってるし」
「そんな変なことは何も言ってないよ。付き合ったか聞かれたからそうだよって言っただけだし」
「……変なことって言われるようなことなんもしてねーもん」
「……それは、そうですね」
  
 貸して、とリョータが私の手からハンドルを取った。軽くなった手が冷たく感じるのは、きっと隣にリョータがいるからだ。
 
「さみー」
「明日はもっと冷えるらしいよ」
「むり。凍え死ぬ」
「ウチナンチュは軟弱だなあ」
 
 受験が終われば、この寂しさを埋めてくれるのかな。ハンドルを握る手を見つめた。視線に気付いたリョータがなに、と片眉を上げる。暗闇の中、リョータのピアスがきらりと光った。
 
「ピアス、冷たそうだなって」
 
 そう言って笑うと、リョータは「つめてーに決まってんだろ。我慢してんの」と唇を尖らせた。
 
 
 
 センター試験を終え、滑り止めの私立の試験も終え、受験を走り抜けた私は抜け殻のようになっていた。合格発表よりも先に卒業式がきて、進路の決まらない不安定な状態で卒業式に出席した。

「ずっと苗字さんのこと好きだったんだ。よければ付き合って欲しい」 
 
 どこか期待を込めた目で私を見ていたクラスメイトの彼は、きっと私とリョータがもう別れていると思っているのだろう。「ごめんね、彼氏いるんだ」そう言うと「前の?」と訊ねられて頷くと、彼は口惜しそうに私の前を去っていった。
 こんなことになるのなら、もっと言いふらしておけば良かったかもしれないと申し訳なく思った。リョータの言っていた「彼氏いますっていうのと彼氏いませんって言うのは全然ちげーじゃん」という言葉を思い出して、違いとやらをようやく理解できた気がした。
 
 合格発表の日、玄関で受け取った簡易書留を震える手で開封して、その足で台所に行きお母さんに飛び付いた。志望校に受かったのだ。学校や塾にも電話で報告をして、その後友達とも合格の喜びを分かち合った。最後に押し慣れた番号にかけて、コール音が始まる前に切った。
 暖かくなり始めた春の気候の中、薄手のカーディガンを羽織って走り出した。相変わらず受験勉強特化型の私の体は思うように走れなくて、すぐに息が上がる。それでも走った。早くリョータに会いたかった。
 
「やっぱり名前ちゃんだ!今日合格発表だよね!どうだった!?」

 宮城家についてインターフォンを鳴らす前に飛び出してきたのはアンナちゃんで、私は息を切らしながらアンナちゃんに抱きついた。
 
「っ受かったよ!」
「やったー!名前ちゃんなら絶対受かると思ってた!」  

 やった!やった!と二人で飛び跳ねて喜んで、「上がっていって!」と誘われるがまま家に上がった。玄関にリョータの靴が見当たらなくて、思わず「リョータ、いる?」と問いかけるとアンナちゃんは、「ざんねーん。リョーちゃん朝から部活〜」と意地悪く笑った。
 勢いよく家を飛び出してきたはいいものの、今一番会いたい人は部活で汗を流しているらしい。春休みなのだからそりゃそうか、と項垂れていると、「今日は終わるの早いはずだからもうちょっとしたら帰ってくるよ」とアンナちゃん。
 
「名前ちゃん、リョーちゃんのことなかなかに好きですねえ。このこのっ」
「……そんなんじゃねーし」
「ははっ、その顔リョーちゃんにそっくり!」
 
 久々に入った宮城家の間取りは以前と少し変わっていて、キッチンテーブルにはソーちゃんの写真がいくつも飾られていた。その変化を嬉しく思った。写真の中のソーちゃんは幼くて、可愛くて、やっぱりカッコよかった。

「やっぱソーちゃんってカッコいいね。昔の私、見る目あったなあ」 
「そりゃあわたしの自慢のお兄様ですしぃ?あ、そういえばプリンあるんだった。食べる?リョーちゃんのだけど」
「食べる!」 
 
 もう一人の自慢のお兄様は随分軽く扱われているようだ。ちゃっかりリョータのプリンを食べながら、私たちは久しぶりの会話を楽しむことにした。
 結局プリンだけでは飽き足らず、リョータの買い置きしていたというスナック菓子に手を伸ばしながらくだらない話を続けているとあっという間に時間は経っていた。ガチャ、と玄関の鍵が開く音がして、「リョーちゃん帰ってきた!」とアンナちゃんがキラキラした目で私を見る。
 
「ほら、名前ちゃん!早く報告しなきゃ!」
「う、うん」
 
 リョータに会いにやってきたのに、いざ本人と会うタイミングになった途端、緊張してきた。
 今日の私、変じゃないだろうか。走ってきたから髪が乱れているかもしれない。服だって適当なカーディガンを羽織ってきただけだ。それに、受験だからと散々リョータを振り回したのだ。今更彼女面して会いにくるなんて都合が良すぎるのでは?
 そんな不安がぐるぐる回って、リョータに会いたくないなと思っているのにアンナちゃんが背中を押すから私は玄関に向かって歩くしかなかった。
 
「お、おつかれ」
「……なんでいんの」
「なんでってリョーちゃん!今日合格発表だってば。知ってたくせにぃ」
 
 妙な空気の流れる私達の間を取り持つように割って入ったアンナちゃんが、早く早く、と私に視線を寄越した。「どーだった」と頭をかいたリョータとは目が合わない。ごくり、と緊張のあまり唾を飲み込む。
 
「受かった、よ」
「おめでと。良かったじゃん」  
 
 リョータはそれだけ言うと私とアンナちゃんを通り過ぎてキッチンに入っていった。その素っ気なさにあれ、と思う。本当に私は愛想をつかされてしまったのかもしれない。
 荷物を置いたリョータはすぐに戻ってきた。手にはプリンの空容器が握られていて、私とアンナちゃんはしまったと顔を見合わせた。
 
「おいアンナ。人のプリン勝手に食べてんじゃねーよ」
「わたしじゃないもーん。名前ちゃんが食べたんだもーん」  
「お前が食べさせたんだろ」
 
 ぷう、と頬を膨らましたアンナちゃんが「いいじゃん、プリンくらい」と言うが、リョータは「お菓子もなくなってんだけど」と眉を歪めた。
 合格の報告に来たのに、兄妹喧嘩が始まってしまった。しかも原因は私が食べたプリンで。代わりの物買ってくるよ、と言い出そうとしたら、先にアンナちゃんが「じゃあなんか買ってきてあげるからお金ちょうだい」とリョータに手のひらを見せた。
 
「お金くれたら寄り道してきてあげる。どーする?」 

 そう言って眉を上げたアンナちゃんは生意気な顔をしていて、リョータによく似ていた。アンナちゃんの言葉のなにがリョータを揺すぶったのかわからない。アンナちゃんとリョータはしばらく無言で見つめ合ったあと、「無駄遣いすんなよ」と財布を持ってきたリョータは千円札をアンナちゃんに手渡した。さっきまで喧嘩をしていたくせに切り替えの早い兄妹だ。
  
「リョーちゃん大好き!お釣りもらってもいい?」
「好きにしろよ」
「わーい!じゃ、名前ちゃんごゆっくり!」
「え、私も行くよ」
 
 そのまま靴を履いて飛び出していったアンナちゃんを追いかけようとすると、リョータに肩を掴まれた。
 
「……ギョーカン読めって」
「行間ね、行間」 
   
 はあ、と私の後ろでため息をついたリョータは肩に置いていた手を滑らせて私の手を握った。
 
「うあ」
「なんだよその反応」
「び、びっくり、して」 
  
 さっきまでの素っ気なさはなんだったんだと問いたくなる。久々に触れたリョータの手の温かさに恥ずかしくなってきて俯く。リョータは私の手を引くと、廊下をまっすぐ歩きだした。キッチン前のドアを開けずに通り過ぎる。リョータが開けたのはリョータの部屋のドアだった。  
 リョータは手を離すと、部屋の電気をつけてカーテンを閉めた。部屋に入ってから話をする雰囲気でもなく、なんだかいけないことをしているような気分になって床に視線を這わす。中学生の頃よりも物が増えたな、なんて当たり前のことを思う。中学三年生のリョータに勉強を教えていたとき以来、この部屋に足を踏み入れたことはなかった。
 
「そのへん適当に座って」 
「……うん」
 
 この妙な空気の正体がわかったようなわかりたくないような曖昧さを抱きながら、座る。この部屋にテレビでもあれば空気を変えることができるのに、もしくはアンナちゃん。けれどその両方がないのはわかっているから、そばに重ねられていた雑誌を手にとった。ページをめくり、興味もないのにメンズヘアのセット方法だのワックスの種類だのを一文字ずつ丁寧に追う。
 
「そんなん見てわかんの?」 
 
 リョータが後ろに座る気配がして、体が固まった。振り向けないまま、雑誌に向かって「あんまわかんない」と言葉を落とす。
 ふうんとつまらなさそうな声が聞こえたと思ったら、背中に温度を感じた。右肩が重い。「なあ、もういい?」右耳のすぐそばでリョータの声がしてくすぐったい。
 
「……いいって?」
「我慢すんの」 
  
 後ろから伸びてきた腕がお腹に回った。ぴったりとくっついた背中からはリョータの心臓の音がばくばくと響いていて、それに呼応するように私の心臓も早打ちする。
 小さく、本当に小さく頷いた私の体はもしかしたら震えていたかもしれない。「こっち向いて」リョータの声と吐息が私をおかしくする。最後まで足掻きたくて私はゆっくりと首を回すのに、先に肩が軽くなって顔を浮かせたリョータの方から近付いてくる。そこで初めてリョータと目が合った。じっとりとした熱をもつ瞳と見つめ合うなんて耐えられなくて、私はそっと瞼をおろした。
 二度目のキスは初めての時よりも何倍も緊張した。触れた唇は、私よりも厚くて、柔らかかった。きっと一秒にも満たない時間しか触れ合っていないのに、唇がジンジンと熱をもつ。
 恥ずかしくなって顔を逸したのに、リョータは火照りきった私の頬に手を添えた。また近づいてきたリョータが唇に触れる寸前、「好き」と呟くから私はどうにかなりそうになった。
 唇が離れたあと、リョータは私の体を強く抱きしめた。肩に頭を埋めて、「あー……やべーかわいい」と言うので私はまた固まった。今まで好きもかわいいも言われたことなんてなかったのに。リョータがおかしくなってしまった。
  
「……合格おめでと」 
「あ、ありがとぉ」
「あと卒業も」
「……うん」 
「……もっかいしたい」
 
 合格と卒業の話のどこにその行動に移るスイッチがあったのだろう。話の流れなんてあったもんじゃない。行間を読めないのはそっちじゃないか。抗議したくても私の頬にまた手が添えられて、リョータの方に顔を向かされる。目を瞑ると「かわいい」と言われてぎゅっと瞼に力が入った。
 もう一回と言ったくせに、リョータと私の唇は何度も重なった。時折、唇が離れた間に額をくっつけて「好き」「かわいい」を挟んでくる。決して大きな音ではないはずのリップ音が体中を駆け巡って、私は恥ずかしさのあまりクラクラした。唇が離れた瞬間、大きく顔を逸して、四つん這いで部屋の隅に逃げた。「なんで逃げんの」リョータは不満げに唇を尖らせる。
 
「も、もうおしまい!」
「……やだ。なんで」
「なんでって……恥ずかしい、し」
「……じゃあ慣れるまですればいいじゃん」
 
 ずりずりと畳を這いながら近づいてきたリョータは、どこか楽しそうだ。「次は名前が我慢する番じゃねーの」生意気な顔でそう言われると反論のしようがない。アンナちゃん、早く帰ってきて。そう願ってから気付いた。あのときのアンナちゃんもこんな生意気な顔をしていたな、と。私はどうやらこの兄妹に嵌められたらしい。
 触れた厚い唇の熱に、慣れる日なんてこない気がした。止まらない愛の言葉の嵐に、私も好きだと伝えるタイミングなんてない。私ばっかり好きみたいだなんて受験期の私はなんて馬鹿な考えをしていたのだろう。
 固く分厚い手で手の甲を上から握られて、手のひらを返して握り返した。今回は私が捕まえられたみたい。
 
 
 
2023.2.11

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