アンナちゃんはこの春、中学生になった。制服が届いた日、「名前ちゃん制服届いたよ!一緒に写真撮ろ!」とアンナちゃんは興奮しながら私を呼び出した。受験を終えて自堕落に過ごしていたリョータは叩き起こされたらしく、私が家についたときには同じように届いたばかりの真新しい制服に身を包んで不機嫌そうにしていた。結局、私とアンナちゃん、アンナちゃんとリョータ、リョータと私の三枚の写真を撮った。あれだけ面倒くさそうにしていたくせに、現像した写真にはカッコつけているリョータがいて私は写真屋さんで一人笑ったことを覚えている。
 
「ギズモかわいかったねー」
「続編もあるんだって。今度借りてくるから一緒に見よ」
「うん!」 
 
 「雨で部活休みになったから遊ぼ」そう言って私を呼び出したアンナちゃんと私はさっきまで映画鑑賞を楽しんだ。アンナちゃんがビデオデッキからビデオを取り出して私に手渡す。半袖から細い腕が伸びていた。アンナちゃんが中学生になってもう三ヶ月が経っていて、制服姿にもすっかり見慣れてしまった。
 
「雨止まないねえ」
「梅雨だもんね。もうちょっといる?」
「んー、そうしよっかな。夕方からマシになるっぽいし」   
 
 映画が終わってテレビの音がなくなると、雨音がよく聞こえた。帰りのことを考えると憂鬱だけど、部屋にいる分にはザーザーという雨音は心地よかった。
 雨音に身を任せながら、棚の前で数冊のアルバムを引き抜くアンナちゃんを眺めていた。彼女は私の前で手に持ったアルバムを並べて意味ありげに私に視線を寄越すと、「チラーリ」と言ってページを捲る。アイスを頬張る子供の写真。小さい頃のリョータとソーちゃんだ。

「やば……かわいいんだけど」
「お母さんとリョーちゃんいたら見づらいからさ、一緒に見よーよ」 
「いいの?リョータ怒るよー、これ」 

 そう言いながらも、私はニヤリと笑う。「きっとまだ帰ってこないよ、雨だし」同じように笑ったアンナちゃんは、リョータと同じ生意気な顔をしていた。
 
「これがミニバスのでしょ。そんでこれはおばあの家でクリスマスしたときで、あ、これわたしだ。ちっちゃーい」
 
 二人で頭をくっつけてアルバムを覗き込み、ページを捲くっていく。写真の中では三兄弟が楽しんでいたり、怒っていたり、泣いていたり。それでも笑顔のほうが圧倒的に多かった。写真の下にはラベルが貼られていて、カオルさんの几帳面な字でその時の思い出が綴らていた。
 カオルさんとリョータの様子を思い返すと、普段はこういう思い出話をする機会があまりないのだろう。一つずつ解説していくアンナちゃんは楽しそうで、私も嬉しくなった。
 
「三人ともちっちゃくてかわいいー!面影あるよね」
「まあねー。わたしですから?」
「言うねえ」
「へへ。あ、見てこれソーちゃんと一緒に映ってるの名前ちゃんだよ!」 
 
 アンナちゃんが指差した写真には、憧れのソーちゃんの隣で恥ずかしそうにはにかむ幼い私が写っていた。ラベルには「ソータと仲良しの名前ちゃん」と書かれていた。
 
「やば、懐かしっ」
 
 顔中から好きです!が溢れているそのデレデレ具合に恥ずかしくなってつい声を張り上げると、「名前ちゃんソーちゃんに恋してたもんねー」とアンナちゃんがニヤニヤ笑った。
 
「なんかさ、このときソーちゃんも名前ちゃんのこと好きだったんだって。知ってた?」
「うそ?ほんとに?」
 
 初耳だった。疑う私をアンナちゃんは、「ほんとだって、こっち見てよ」とまたページを捲って写真を見せる。私とソーちゃんが釣りをしている写真だ。「大好きな名前ちゃんの前で張り切るソータ」と書かれたラベルを「ほらね」とアンナちゃんは得意げに指した。大好きな名前ちゃん、の一文に自然に笑みがこぼれた。そっか、ソーちゃん。あのとき私のこと好きでいてくれてたんだ。素直に嬉しかった。
 確かこの写真の日、私は初めての釣りで餌の虫を触るのが怖くてソーちゃんに全部やってもらった記憶があった。アンナちゃんはまだ小さくて危ないからと釣り場から離れたところで遊んでいて、リョータはいつでもできるんだからアンナちゃんのお守りを任されていたのだ。リョータは泣きながら私とソーちゃんにずるいずるいと言って怒っていたんだっけ。
  
「そんでさ、これ。"二人を見ているリョータとアンナ"だって」 
 
 そんなふうに思い出を辿っていっていると、アンナちゃんは笑って隣のページに指を移動させた。それは唇を突き出して、不機嫌をこれでもかと醸し出しているリョータと貝殻を頭にくっつけて笑うアンナちゃんの写真だった。思い出の中と変わらない写真に、「リョータまたこの顔してる」と笑うと、アンナちゃんも「ほんとにリョーちゃんってそういうとこ変わんないよね」と笑う。
  
「わたしもちっちゃいからあんまり覚えてないんだけどね、このときリョーちゃんずっと怒ってたんだって」
「自分だけ遊びに行けなかったからなあ。それに、私がいたらソーちゃんとっちゃうから。妬いてたんだよ」
「それさ、どっちにだろうね」 
「え?どっちって……」
 
 私に嫉妬したんじゃないの。そんなニュアンスでアンナちゃんを見たのに、アンナちゃんは訳知り顔で肩をすくめるだけだった。
 
「リョーちゃんの中ではさ、きっとこのときのまんまなんだよ。ソーちゃんと名前ちゃんのこと」
「このときのまんまって……もう私ら、高校生だよ」
「うんうん。そうなんだよね。もう皆大きくなったのになー」 

 私はもう一度、写真の中のソーちゃんを見つめた。写真の中のソーちゃんは、私の記憶よりずっと幼くて、細くて、無邪気だった。二つしか変わらなかったのに、どうしてあんなに頼ってばかりいたのだろうと不思議に思うくらい子供だった。そりゃそうだ。私が好きだったソーちゃんは小学六年生で、十二歳だったのだから。
 
「ね、さっきの話。リョーちゃんどっちに妬いてたと思う?」
「……アンナちゃん、何が言いたいの?」
「さあね〜?」 
 
 にたり、と笑うとアンナちゃんはアルバムを閉じて棚に戻した。タイミングを見計らったように玄関の扉が開く音がして、リョータの帰宅を知らせる。昔からアンナちゃんは帰宅前の人物を当てるのが得意だった。

「リョーちゃん一途だよ。多分ね」 

 私にそう耳打ちしてから、「リョーちゃんおかえり!」とアンナちゃんは兄を出迎えに行った。私は動けずにいた。アンナちゃんの言っている意味を理解しかけているから。けれど、それをすべて理解してしまったら、リョータのことをまともに見れる気がしなかったから息を吐いて呼吸を整えた。
 
「また来てんのかよ。友達いねーの?」

 顔を見るなり失礼なことを言うリョータに腹が立つのに、わたしはもごもごと口を動かすだけで文句が出てこなかった。不思議そうにしながら、「雨、今ならましになってっけど」と帰りを促され、頷く。「今から帰る」リョータとすれ違ったとき、肩の位置がまた離れてしまったことに気づいた。「なに?」私の視線に片眉を上げたリョータの身体は写真の中のソーちゃんよりも分厚かった。声だっていつの間にか低くなっていた。どうしようもない何かが湧き出しそうで、「なにも。またね」と素っ気なく出ていくしか私は自分を守る方法がわからなかった。
 
「名前ちゃん、またね」
 
 不思議そうに首をひねるリョータの後ろから笑って手を振るアンナちゃんが、私にはとんでもない小悪魔に見えた。
  
 
 
 先日、例のごとく仲良しのアンナちゃんと映画鑑賞を楽しんでいた最中に帰ってきたリョータは珍しく私の顔を見ても嫌な顔をせず、「これ、やるよ」と幼少期に好きだった笛ラムネを渡してきた。頭にはてなを浮かべながら受け取ろうと手を伸ばしたら、「あのさ、勉強教えてくんね?」とリョータは気まずそうに視線をそらしたのだ。私はラムネを一つ吹きながら、「仕方ないなあ」と引き受けた。安上がりな家庭教師だ。
 受験期以来の勉強会は近くのファミレスで開催されることになった。中学三年生時に叩き込んだ知識が残っていたのか、元々要領がいいからなのかはわからないけれど、リョータは教えるとすぐに問題を解くことができた。
 
「自分から勉強するとか珍しいよね。赤点取ったらやばいの?」
「新キャプテンうっせーし。多分このままだと試合出してもらえねーかも」 
「やばいじゃん」
「だからやばいんだって」
「普段から勉強しない罰だね。大人しく受け入れな」
「うっせーなあ。だから今やってんの」
「あんたねえ……それが教えてもらう側の言うことぉ?」 
 
 切りの良いところで中断して軽口を叩き合っていると、「苗字さん?」と声をかけられた。クラスメイトの男子だった。彼は私に「偶然だね」と笑いかけたあと、リョータに会釈して値踏みするように見下ろしていた。リョータの外見がそうさせたのだと思うけれど、感じが悪いなと思った。
 
「え、もしかして彼氏?」
「まさか。違う違う」
「そうなんだ。へえ……」 

 彼の意味ありげな視線に、「なんすか」とリョータが生意気な顔をして片眉を吊り上げた。威嚇するなよ、と私はクラス内の自分の評価を心配して内心ハラハラしていた。萎縮した彼は「いえ、なにも」と言って自分のテーブルに戻っていった。「彼氏だった?」「違うって」「やったじゃん。いけんじゃね?」「つーかどういう関係だよ」彼が友達に囃し立てられる声がこちらまで届いてなんだかいたたまれない。
 
「……あいつはやめとけば」

 リョータはつまらなさそうに頬杖をついた。こちらをチラチラと気にしている彼が視界に入っていたので、リョータの言うことはわかっていたけれど、直接好意を伝えられたわけでもないのに認めるのもおかしい話で私は首を振った。
  
「そんなんじゃないって。ただのクラスメイトだし」  
「向こうはそんな感じじゃなかったけどな。それともなに?あんなのがいーの?」

 リョータの片眉が上がる。人を馬鹿にした言い方に苛立った。
 
「いいって言ったら?」
「全然お前のタイプじゃねーじゃん」
「私のタイプなんかリョータに教えたことないし」
「見てればわかるし。頼りがいがあってー優しくてーカッコよくてー」   
 
 暗にソーちゃんを指しているのだろう。自分が優位に立ったかのよう皮肉った笑いを浮かべてリョータは指を折った。「背が高い?」四本目の指が折られた。
 
「……なにそれ」
「名前のタイプの話。改めて考えると高望みしすぎじゃね?」 
 
 ソーちゃんが生きていれば私はリョータに「ブラコン!」と罵る権利があったのに、あいにく今の私にそんな権利はないので「はいはい」と適当に流した。それにしても、恋愛話でリョータに口出されるのは癪だ。
 
「あんたもそうじゃん、高望み」
「は……?なにが」
「女子の噂の伝染力舐めないほうがいいよ。湘北高校の宮城リョータくん」
  
 リョータが手当たり次第告白しまくっているという噂は別の高校に通う私にまで届いていた。しかも相手は普通の人なら勝負に挑もうとすらしないマドンナばかり。何が目的なのか知らないが、昔馴染みがそんな噂で注目されることになって私は情けなかった。 
 
「あんたツンっとした美人好きなわけ?もうちょっとイケそうなとこ狙いなよ」 
「……名前には関係ねーだろ」 
「なら私のことだってリョータに関係ないしほっといてよ」
「そーかよ」 
   
 むっと唇を突き出してリョータは席を立った。「飲み物とってくる」逃げる口実なのはバレバレだった。
 
「どこが一途なんだか」
 
 ドリンクバーでジュースを入れているリョータには聞こえないことをいいことに、いつかの日にアンナちゃんが耳打ちしてきた言葉で毒づいた。ズズズとわざと音を立ててストローでカルピスを啜る。お兄ちゃん贔屓も大概にしないとね、心のなかでアンナちゃんに語りかけた。
 噂を知ったとき情けなく思うより先に、傷ついた自分がいたことに私はまだ気付かないでおこうと思う。

 
 
 次の学年ではまた受験生としての一年を過ごさなければならないと憂鬱になっていた三学期、リョータが事故にあった。
 
「リョーちゃんっバイクでじ、事故にあってっまだ、起きない、の」
 
 大泣きするアンナちゃんから電話で知らされたとき、汗で何度も受話器を落としそうになった。病院に急いで駆けつけたのに家族以外は病室に入れないと受付で突っぱねられて、泣きながら家に帰った。次の日は学校を休んで一日中電話の前でカオルさんやアンナちゃんからの知らせを待っていた。そんな日が二日続き、ろくに眠れていないこともあってぼんやりと電話を眺めていたとき、鳴った。飛びつこうとした私に、「大事な話だから」と先にお母さんが出て、それから私に代わってくれた。
 
「さっきやっと意識戻ってね、うん、うん。奇跡だって。名前ちゃんこそ心配かけてごめんね。よければ顔見に行ってあげて」
 
 カオルさんは私に弱さを滲ませることはなかった。電話越しに泣く私をカオルさんは慰めてくれて、その優しさが余計に私の涙を誘った。
 次の日は日曜日で、私は朝イチで家を飛び出した。カオルさんとアンナちゃんは前日の夜遅くまで病院にいたらしく、一度家に戻るということだったけれど、私は我慢できなくて二人を待つことなく病室へ入った。リョータに会うためにここまできたのに、私はカーテンに手をかけたままその手を引くに引けなくてリョータのベッドの前で立ち尽くしていた。
 生きているのはわかっている。カオルさんが奇跡だと言っていたのだから大きな怪我もなかったのだろう。きっと天国のお父さんやソーちゃんが助けてくれたんだと思う。会って無事を確かめたかったのにカーテンが引けない。声をかけられない。会うのが怖かった。
 
「いつまでそこに立ってんだよ」

 頭の中がぐるぐる回る矛盾と寝不足で気分が悪くなってきたときに、カーテンは向こうから開けられていた。最近見なくなった下ろした前髪の隙間から気怠そうな目が私を見ていた。包帯だらけのリョータは疲れた顔をしていて、けれど生きていた。
 
「リョ、リョータ、生きてる」 
「おー地獄の底から蘇ったぜ」
「い、生きてるよね?脈、ある?」 
「あ、おいコラ。なにすんだよ。こっちは抵抗できねーんだぞ」 
 
 いつもの軽口を受け流せる余裕はなかった。私はそこにあったパイプ椅子にすとんと座ると、点滴が打たれている腕を取って脈を測った。ドクドクと肌の下に流れる血を感じる。リョータの胸に耳を当てたら、そこにはたしかに心臓があって、動いていた。顔を上げるとリョータは驚いた顔をしていて、「なに」と掠れた声を出した。
 
「生きてて、良かった」
 
 張り詰めていた糸が切れた瞬間だった。蛇口をひねったみたいにボタボタと涙が溢れ出した。滲んだ視界にはぎょっと目を見開いたリョータがいて、私はその頬に手を伸ばした。その肌は柔らかくて温かった。リョータが生きている。ちゃんと、ここにいる。実感すれば涙の量が増した。
 
「い、生きててほんと、良かった」
 
 もうそれしか言葉が出てこなかった。震えていた私の手にリョータの手が重なった。皮が分厚くて、硬くて、大きくて、私とは全然違う男の子の手。そんな頼りになるはずの手は私の手と一緒に震えていて、全然頼りにならなかった。生温い水気を掌に感じた。
 
「泣きすぎだろ」
 
 耳に届いた声は強がりを絞り出したみたいで情けなくて、私は泣きながら笑った。愛おしいってこういう感情なのかもしれない、場違いにもそんなことを思った。
 
 
後編へつづく
 
 
2023.1.28

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