高校に入り、わたしは周りから三年遅れで女の子になることに目覚めた。友達に教えてもらって髪を巻いたり、マニキュアを塗ってみたり。部活休みの日にははりきってオシャレをしたり、化粧をしてみたり。自分を可愛く魅せる技を覚えていくのは勉強をするよりもよっぽど楽しかった。けれど、いくら可愛く着飾ったって意味がない。
「アヤちゃんアヤちゃん!一緒に部活行こうよ」
「なに言ってんの。あんた今日補講でしょ」
廊下ですれ違う同級生の何気ない会話を耳にするたび、過去の選択を後悔する。なんで湘北高校を進路で選んでしまったんだろう。なんであの時ちゃんと返事をしなかったんだろう。
「アヤちゃん、今日もかわいいね」
本当に好きな子にはあんな態度なんだ。じゃあわたしのことなんて気の迷いみたいなものだったんじゃないか。わたしは下の名前で呼ばれたことなんて一度もなかった。ましてやかわいいだなんて言われたこともない。でも、もしも。もしもあの時頷いていたら、今隣で歩いていたのはわたしだった。
同じ高校に入った宮城くんを見つけるたびにそんな苛立ちやもやもやが湧いて、ようやく気付いた。宮城くんのことを好きなのかもしれないって。
でも、もう遅い。彼には好きな子がいるのだから。気持ちに気づいたときには失恋していた。
未練がましく後ろを振り返ったけれど、宮城くんは当然こっちなんか見てくれない。仲睦まじく歩く二人の後ろ姿がお似合いで、もう"もしも
"だなんて想像できなかった。クラスが違って本当に良かった。込みあがってくる想いを瞼をぎゅっと瞑って押さえつけた。
春の気候はどうしてこうも人を眠りに落とすのがうまいのだろう。クラスメイトが一人、机に突っ伏して寝落ちている教室。先生に頼まれたプリントの山を教卓に置いて、大きくため息をついた。
「なんでこうなるかなあ……」
誰もいないはずの教室で寝ているのは宮城くんだった。二年に進級してからのクラスメイト。他のクラスメイトはもうとっくに教室移動をしているのに、退院してきたばかりの彼は変則がちな時間割が頭に入っていないらしい。「次なんだっけ?」と周りの子に尋ねる姿をよく目にしていたから。
日直が閉め忘れた全開の窓から穏やかで柔らかな風が入ってくる。風を受けて宮城くんの髪の毛が揺れた。オシャレに目覚めだした今なら、うまく癖毛が生かされているこの髪型がイケてる部類であることが理解できる。振り返ると、なんの躊躇もなく手を伸ばせた中学二年生のわたしは無敵だったと思う。今じゃ話しかけることさえままならない。
起こしてあげるべきなのだろうか。出来ることならこのままにしておきたいけれど、これ以上授業についていけないときっと宮城くんは困るだろう。「さすがにそれは可哀想だよね……」迷った末、起こすことに決めた。
とんとん、と机の端を指で叩く。宮城くんは起きなかった。「おーい」小さく呼びかけても微動だにせず。軽く肩を揺すってみた。見かけよりもガッシリとしていて、なんだか勝手に気まずくなった。
「ねえ、移動教室だよ」
「先生に怒られるよ」
「起きてー」
それでも宮城くんは起きない。時計を見ると、授業が始まって十分は経っていた。先生に頼まれた仕事をしていたからって、これだけ戻るのが遅くなればわたしも怒られそうだ。
性懲りもなくまた"もしも"が顔を出す。もしもあの時、頷いていたなら。容易くこのセットを崩して彼を起こせたのだろうか。戻れるものなら中学二年生に戻りたかった。
「……ごめんね、宮城くん」
久々に名前を呼ぶ声は頼りない。春の風に吹かれてどこかに飛んでいってしまいそうだった。
バサバサ、とプリントの山が風で崩れる。「あー、もう」文句を言いがら拾う。これを拾ったらもう行こう。何日も入院していたのだから、今日休むくらいなんともないはずだ。このまま放っておこうなんて薄情なことを思い始めたときだった。
「なんのごめん?」
上から降ってきた声に体が固まる。見上げることができない。どんな顔をすればいいのかわからない。
「おっ起きてたんだ。びっくり、した」
なんのごめんって、一つしかないでしょ。そう思っても口には出さなかった。中学二年生の無敵さなんて今のわたしにはもう欠片すら存在しない。
ありがたいことに宮城くんは追求する気はなかったようだった。「寝過ぎた」そう言って宮城くんは屈んで、ポケットに入れていた手を出してプリントを拾い始める。全身に力が入った。平気なふりをしなければ。
「みんなは?」
「北校舎。移動教室だから」
「あーそうだっけ」
小柄なはずなのに近くにいる宮城くんは大きく思えた。差は中学の時よりも広がっている。当たり前だ。もうわたし達は高校に入って二年になるのだから。怪我は本当にもう大丈夫なのだろうか。退院したばかりだというのに、ついこの前は顔中にガーゼや絆創膏を貼っていた。
「そんなに見られると照れんだけど」
どうやらわたしは彼をじっと見すぎていたようだった。宮城くんが気恥ずかしそうに言う。久しぶりに目があった瞬間だった。カッと顔に熱が集中する。
「みっ見てない!見てない見てない!」
「見てた。ぜってー見てたね。熱視線感じたもん」
「ちがっ……怪我!怪我気になっただけだし!」
「なに?心配してくれてた感じ?」
面白おかしそうに上下する眉。人をおちょくるみたいに釣り上がる唇。そんな顔、久々に見た。気持ちがごちゃごちゃになって涙腺が緩んでいく。
「心配とか……するに、きまってるし」
「え、もしかして泣いてる?」
「泣いてない!」
手に持っていたプリントで顔を隠す。「……いや、どー見ても泣いてるじゃん」宮城くんの呆れたような焦っているような声。
先輩にリンチされて怪我。バイクで事故を起こして入院。復帰したばかりなのにまた怪我をしてくる。そんな彼を心配しないわけがない。
元気で良かった。死ななくて良かった。また話せて良かった。抑えようとすると余計に出てくる涙で息が上がる。「うぅ……ひっ、っう」宮城くんの前でこんな情けない姿を晒すことになるなんて、と思っても嗚咽が止まらない。困らせたくない。これ以上幻滅されたくないのに。
ぎゅうっと強く握りしめた手に宮城くんがそっと手を重ねた。「これ破いちゃまずいっしょ」宮城くんはそう言ってわたしの指を優しく解くと、クシャクシャになるほど握りしめていたプリントを抜き取った。泣き顔を見られたくなくて下を向いたわたしの隣に宮城くんが座る。余計に顔があげられなくなった。
「今日はサボるかー」
大きな独り言にしゃくりを上げながら頷く。「あーあ。苗字サンがグレちまった」宮城くんはそう言ってわたしをからかった。二年ぶりの会話。それだけで、抑えていたはずの気持ちが簡単に復活する。
やっぱり、宮城くんを好きだと思った。
時間が過ぎるのはあっという間で、夏が来たと思ったらもう秋になっていた。陸上部の先輩たちの引退に涙流したのはもう一月も前のことで、今じゃもうどこの部も新体制を敷いている。
「あ、噂に聞く鬼キャプテン様だ。おつかれー」
「おーおつかれー」
彼の前でみっともなく泣いてしまったあの日以来、わたしと宮城くんの関係が変わった。中学の頃みたいに話せるようになった。わたしにとってこれは大きな変化だった。
宮城くんはバスケ部のキャプテンになった。中学の頃の彼を知っている身からすると、周りをまとめたりすることができるのだろうかと失礼ながら心配になるのだけれど、案外うまくやっているらしい。部活終わりに出会った彼は、「今日もばちばちにシメてやったぜ」なんてカッコつけてキャプテン風を吹かせている。
「そっちはなんでひとり?陸部ってこんな遅くまでやってないっしょ」
「部室にタオル忘れちゃって。今取ってきたとこ」
タオルを見せると、宮城くんは「ふうん」と相槌をうった。
「ならさ、一緒に帰ろ」
「えっ!やだ」
驚いて反射で断った。すると、宮城くんは「なんで」と形のいい眉毛を不機嫌そうに歪めて唇を突き出していた。なんでと言われましても。あなたは彼らと帰るのではないでしょうか、と彼の後ろに並ぶ部員と彩子ちゃんに視線を投げかけた。
「あーオレ達にはお構いなく。若いもん同士好きにやれ」
「なんだよそれ、アンタもじゅーぶん若いだろーよ。アヤちゃんごめん、今日は三井さんに送られてもらってもいい?」
「心配しなくても一人で帰れるわよ」
「おいなんだその送られてもらってって。先輩だぞ俺は」
わたしのことなんて置いてけぼりで話は進められて、いつの間にかわたしと宮城くんの二人で帰ることになっていた。本当にこれで良かったのだろうか。彩子ちゃん達の後ろ姿をぼうっと眺めていると、「行こ」と宮城くんが歩きだす。
「えっ、でも、ほんとにいいの?」
あっちには彩子ちゃんがいたのに。言葉の端に彩子ちゃんの存在をアピールしても、「いーんだって」と宮城くんが気にかける様子はない。
「ふーん、そう。いーんだ、へえ」
彩子ちゃんよりもわたしと帰ることを選んでくれた。その事実がわたしを気分よくさせ、平静を装っているつもりが声が弾んでしまう。足取りが軽くなる。
「ほんと苗字サンってさあ……」
「ん〜なに?」
唇をつきだした宮城くんがなにか言いたげに眉を寄せてわたしをじとっと見つめる。
「なんつーか、バカだなって」
「わたし、赤点取ったことないんですけど」
「すげーじゃん。今度勉強教えてよ」
「宮城くん調子いいなあ、もう」
中学校が同じで良かった。校区が同じだから、帰り道を宮城くんと長く歩ける。
太陽も沈みかけ、ポツポツとライトが明かりを灯す。ついこの前までこの時間はまだ明るかったのに季節の変化はあっという間だ。
「苗字サン、まだ時間ある?」
「うん。うちの家、ゆるいから」
「ならさ、久々に寄ってこーぜ」
宮城くんがそう言って親指を向けたのはバスケコートのあるあの公園だった。誘いに乗り、久しぶりに足を踏み入れる。あの日以来、ここには来ていない。誰もいないコートをライトが照らす。「懐かしいな」思わず漏らした声は宮城くんに届いていて、「オレは結構来てるけどね。リングのあるとこなんてあんまねーし」と彼はベンチに腰を下ろした。隣に座る流れなのだろうが勇気が出なくて、リングを指さす。
「久しぶりにフリースロー対決でもする?」
「オレ、ボールないよ」
「わたしもない」
「じゃあできねーな」
座んないの。そう促されベンチの端に座った。宮城くんとは距離があるのに足先がソワソワする。急に緊張してきて、会話の糸口が見つからない。宮城くんから話を振られることもない。そもそも、なんで宮城くんはここに寄ろうだなんて言ったのだろう。そんなことを考えてしまうほど、妙な時間が流れていた。
「昔さ、オレが告ったこと覚えてる?」
なんで今、そんなことを聞くの。そう言いたいくらい唐突だった。忘れるはずがない。あの日のことをわたしはずっと後悔しているのだから。わたしが固まったのを見て、「覚えてるよな、そりゃ」と宮城くんは笑う。
「あの時、苗字サンすっげー悩んでたじゃん。ミスったーってマジで後悔した。だからずっと謝りたくて」
宮城くんが謝罪の言葉を口にする前に「違う」と首を横に振った。宮城くんが謝ることなんてひとつもないのだから。
「違う、違うよ。全部わたしが悪いもん。早く返事しなきゃいけないのに、できなくて。そのことをちゃんと謝らなきゃってずっと思ってて、それでっ……ごめん」
部活、塾、受験。色々言い訳を作って宮城くんと向き合うことから逃げた。いつでもいいと言ってくれた宮城くんの優しさに甘えた。高校に入ってからようやく自分の気持ちを自覚したときには、すでに彼には好きな人がいて。また話せるようになったおかげで浮かれていた。また前みたいに戻れるって。そんなわけないのに。わたしはきちんと返事をしなければいけなかったのに。
「ちょっとストップ!湿っぽいのはなしね。オレ、泣かれるの弱いんだって」
「……泣いてない」
「けど泣きそーじゃん。好きな子を泣かしたい男なんていねーっての」
好きな子だって?理解が追いつかなかった。宮城くんの好きな子。それは彩子ちゃんだ。けれど、ここにいるのはわたしで。
まさか、嘘だ。絶対嘘だ。だって宮城くんは彩子ちゃんが好きなのだ。冗談に決まってる。
「彩子ちゃんじゃん、宮城くんは」
「……アヤちゃんにはさ、散々言われてんだよね。私を利用しようとするなって」
「利用?」
「苗字サンから逃げる理由にすんなってこと。意味、わかる?」
「わか、わかんない」
宮城くんは「苗字サン、マジでバカじゃん」と唇を尖らせた。「バカでいいもん」だってバカじゃないと都合よく考えてしまう。
「バカじゃないと、期待しちゃうから、やだ」
宮城くんがまだわたしのことを好きみたいだって。感情が高ぶって、涙が出そうで目を伏せた。宮城くんがふうと息を吐く気配がした。「苗字サン」呼び掛けられても顔をあげられなかった。彼と向き合うのが怖かった。
「好き」
その言葉に、弾かれたように宮城くんを見た。その真剣な表情に息を呑む。あの日とは違う。あの時はそらされた目が、しっかりとわたしを捉えて離さない。
「……あの」
「うん」
「わた、わたし……」
言いたいことは山ほどあった。過去のことをもっとちゃんと謝りたかったし、わたしもずっと好きだったと伝えたかった。なのに、どれも言葉にならない。あのときとは違う気持ちでいるのに、わたしの喉はあのときと同じでカラカラだった。もうこれ以上、宮城くんの告白をなかったことにしたくないのに。
わたしは縋るような目で宮城くんを見ていたのだと思う。宮城くんはどもるわたしに、「オレのこと、好きってことでいい?」と問いかけ、堪えるかのようにきゅ、と唇を引き結んだ。悔しいけれど、言葉を持ち合わせていなかったわたしは必死に頷く。言葉にならなくても、好きだということを伝えたかった。
しばらくの間、沈黙が流れた。きっと互いに、嬉しさを噛み締めていたのだと思う。「あのさ」沈黙を破ったのは宮城くんだった。
「そっち、行っていい?」
そう聞いたくせに、わたしが頷く前に動き出した宮城くんによって空いていた二人の距離が縮まる。すぐそばまできた宮城くんの気配に心臓がどくどくと脈打つ。躊躇いがちに伸びてきた彼の腕がわたしの身体を包む。いっぱいいっぱいのわたしを宮城くんは腕の中に迎え入れた。恐る恐る、わたしも彼の体に手を回して、ぎゅ、と軽く服の端を掴んだ。そこでわたしはようやく、「好き」と口にすることができた。情けなくて声は震えていたけれど宮城くんには届いていて「うん」と彼は頷いて抱きしめる腕に力を込めた。
慎重に呼吸を繰り返し、少し落ち着いたあと宮城くんとの間に隙間を作ってちらりと彼を見た。視線に気付いた宮城くんが方眉を上げる。「ついでにちゅーでもしとく?」とからかい口調で。わたしが頷くと、宮城くんの瞳が揺れた。初めて彼の内側に触れた気がした。頬に添えられていた手が震えているように感じて、どうしようもなく好きだと思った。空はもう真っ暗でライトの灯りだけが頼りだったのに、わたしの視界は陰っていった。
2023.01.14
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