隠岐くん御一行を接客した次の日の昼休み、廊下で出会った隠岐くんはわたしの顔を見るなり「昨日ごめんなあ」と眉を下げた。わたしとしてはそこまで迷惑と思っていなかった――もちろん、再びあのラーメン屋スタイルを見られたことや話のネタにされたことは非常に恥ずかしかったけれど――し、なにより面白かったことを伝えると隠岐くんは肩の力を抜いて柔らかく笑った。わたしは隠岐くんのこういう顔が好きなのだと自分自身のことなのに最近になって知った。
可愛い、好きだなとニヤけそうになる口元を両手で覆って、話を繋げるために出てきたのがイコさんこと生駒さんの話題だ。大学一年生、剣の達人、めっちゃ強い、めっちゃおもろい、モテたくてギター始めた、料理も始めた、女の子はみんな可愛く見える、なんでもウマいと言う、という今後役立つ予定もない生駒さん情報がわたしの脳にインプットされていく。
「おれらからしたらめっちゃカッコいいねんけど女の子からはモテへんねんなあ」
そこに生駒さん本人の意図とは別に、男ウケは抜群という新情報も刻まれた。
「男の人から見たカッコいいと女の人から見たカッコいいは違うしねえ」
「それよう聞くな。苗字さんから見てもイコさんのカッコよさわからん?」
「ん〜そうだなあ……」
わたしは昨日の生駒さんしか知らない。第一印象は眼力の強い怖い人だった。けれど、すぐにお礼を言いに行ったり、後輩のご飯代を払ったりする姿を見ると、隠岐くんの言う「めっちゃかっこいい」一面もわかる気がする。女の子を可愛いとストレートに言えるところもポイントが高い。顔だって悪くなかったような。それになにより、後輩にこれだけ好かれているという人間性。うん、悪くないんじゃないでしょうか。
「確かにカッコよかったかも?」
隠岐くんに同意する形でそう口にする。隠岐くんはまるで自分のことが褒められたかのようにパッと顔を明るくさせると、「やろ?」と自信ありげに頷いた。
生駒さんのこと大好きなんだなあと微笑ましく思いながら、「彼氏にするならやっぱりああいう人がいいよね!頼りがいありそうだし!」と隠岐くんの笑顔がもっと見たくてよく知りもしないくせに生駒さんを褒める。だけど驚くことに、隠岐くんは「え」と笑顔を崩したものだからわたしも同じ音を漏らした。
「え?」
うそ、わたし今、返答ミスった?なんで。褒め方がだめだったのか。よく知りもしないくせに彼氏にするなら、なんて上から目線過ぎたからか。うわ、絶対そこだ。隠岐くんの先輩に当たる人、しかも慕っている相手のことを「彼氏にするなら」って。わたしごときが何をいけしゃあしゃあと。あー、バカバカ!失敗した!謝る?けど謝ったらそれはそれで変な感じになるじゃん!もー!どうしよう!
微妙に変わった空気に焦りを感じて脳内にて大反省会をしている真っ只中、「隠岐〜」と気怠げに呼ばれた声に隠岐くんが意識を移す。前から歩いてくる人達が目についた。ツンツン髪とツンツン髪。一人は水上先輩で、もう一人は誰だろう。考えている間に、隠岐くんはいつものへらりとした笑顔に戻る。
「どしたんですか」
彼らと話し始めた隠岐くんに内心ほっと胸を撫で下ろした。良かった、いつもの隠岐くんだ。
「ちょうどええとこおるやん。こいつに辞書貸したってーや。電子のやつ」
「ええですけど。村上先輩が忘れるなんて珍しいですね」
村上先輩と呼ばれた人は悪い、と柔らかく眉を下げた。
「太一に貸したらなぜか壊れて返ってきてしまったんだ」
「なぜかちゃうねん。貸すことがそもそも間違ってんねん。あいつに物貸すときはあげたと思わなあかんていつも言うてるやん。おまえが甘いから付け上がんねんて」
「太一を悪く言わないでやってくれ。悪気はないんだ」
「よけい質悪いわ、それ」
水上先輩の尖った発言に隠岐くんは「言い過ぎちゃいます?」と笑って、わたしに片手を立ててごめんなと断ると「教室に置いとるんで取ってきますわ」と村上先輩と一緒に教室に戻って行った。
残されたわたしと水上先輩。隠岐くんともう少し話したい気持ちはあるけれど、待っていてとも言われていないし、待っている理由も用事もない。なんなら行く前にごめんと謝られたので、隠岐くんとはここでお開きということだろう。
昨日店に来てくれた水上先輩に挨拶だけしてこの場を去ろうと思っていたら、先に声をかけられた。
「昨日はごちそうさん。なんやまたサービスしてもろて」
「いえ、店長が好きでやってるんで。わたしはただのバイトですし、お礼を言われるようなことなんにもしてませんよ」
「けど自分おらんときはサービスしてくれへんで。店長に気に入られとんねんな」
「はは、そうかもですね。良ければまた来てください」
本当は店にはわたしがいないときに来てほしいがこれは社交辞令だ、リップサービスだ。いい感じに途切れた会話の後、じゃあ、と頭を下げようとしたら、少し遠くを見ていた水上先輩がわたしに視線を戻すと「イコさんな、あれから苗字ちゃんのことめっちゃカワイイばっか言うとってん」と会話の流れも何もない事を言ってのけた。しかも割と大きめの声で。
「そ、それはそれは……ありがとうございます?」
今日は生駒さんの話ばかりだ。さっき生駒さんの話で隠岐くんと微妙な空気になったところなので、正直生駒さんの話はもうおしまいにしたいなあと思っているのに、水上先輩はまだ生駒さんの話を続けるらしい。
「自分的にどうなん、イコさん。あ、イコさんって昨日金払ってた人な」
「え、あの、生駒さんですよね。わかりますけど。か、カッコいいとは思います……?」
「ほんま?良かったわーならイコさんの連絡先教えるし一回くらい遊んだってや。スマホ今持っとる?」
予想だにしない提案を持ち出され、狼狽える。遊んだってってなんだ。
「え、あの、持ってますけど……え?」
「いやー、良かった良かった」と不自然なまでにいい笑顔と爽やかな声を作る水上先輩はちょっとした恐怖だ。
なんなんだろう、からかわれている?不審に思いながらも流されるままスマホを取り出すと、後ろから肩を引かれた。おっと、と倒れる前に誰かに当たる。わたしが体勢を立て直すと肩に置かれた手はすぐ離れていった。「ごめん」と言われた声で、わたしがぶつかったのは隠岐くんだとわかった。
「水上先輩何してるんですか」
見上げた先の隠岐くんは、眉を寄せて難しい顔をしていた。そんな顔、初めてだ。
「何て別に。隠岐くんには関係ない話ですけど。なあ?」
「えっと、まあ、そうですね……?」
関係ないのかあるのかよくわからないまま頷く。「やって」と水上先輩は顎でしゃくった。
「やってって。いや、イコさん持ち出すとかあかんでしょ。反則やわ」
「聞こえとるやん」
「聞こえるようにしとったんでしょ。先輩わかっててやってますよね」
「だってお前そんなんちゃう言うてたしええやん」
生駒さんを紹介するという話から別の話に変わっていっている気もするが、会話に主語がないというか、抽象的というか。一体何の話をしているのだろう。
隠岐くんよりゆっくり歩いていたのか「どうしたんだ?」と電子辞書片手に合流した村上先輩と顔を見合わせる。二人揃って蚊帳の外だ。「さあ……?」頭にはてなを浮かべて首を傾げていると、隠岐くんがわたしを見て、すぐ目を逸らした。
「ちゃう……く、ないかもですし」
小さな声でそう言った隠岐くんに向かって、水上先輩は「かもて。予防線張んなや」と小馬鹿にするように笑った。
「自分がグズってるから優しい先輩が発破かけたったんやろ」
「そんなん言うて面白がってるだけやないですか。優しいとかよう言いますわ」
「当たり前やろ。誰が善意でこんなんすんねん。お前みたいなんがしょーもないことでジタバタしてんのめっちゃおもろいわ」
「……先輩ってほんっまいい性格してますね」
「そりゃおーきに」
「褒めてませんし。もーほんま嫌や……」
大きなため息をついた隠岐くんはそう言って顔を覆った。村上先輩と再び顔を見合わせて肩を竦めていると、隠岐くんに口喧嘩で勝って――なんと表現したらいいのかわからないけれど、わたしにはそう見えた――満足した水上先輩は「苗字ちゃん、簡単に攻略されたあかんで。気張りや」とよくわからないことを言ってから、「ほな俺ら戻るわ」と村上先輩に声をかけると一緒に去って行った。
「攻略って何の話?え?ゲーム?わたしあんまゲームしないんだけどなあ……」
あの人何がしたいねん、と呟いた隠岐くんを見上げると、隠岐くんはぎゅっと唇を引き締めた。言いづらそうに視線を逸らすと、「ゲームちゃうけど……ちゃうくないって話し」と水上先輩同様、よくわからないことを言う。
結局、生駒さんと遊ぶとか、連絡先とかの話はどうなったのだろうと気になったけれど、「あれ全部水上先輩の質の悪い冗談やから気にせんといて」と教えられた。やっぱりからかわれていたようだ。
生駒さんといえば、と今更ながら隠岐くんと二人のときに流れていた微妙な空気の原因を思い出す。昼休みも終わりに差し掛かり、そろそろ教室に戻ろうという時に、おずおずと隠岐くんの顔を覗き見た。
「そういえばさ、あの、さっきは生駒さんに対して上からでごめんね……?」
「え、さっき?上から?ごめん何の話か全然わからんねんけど……?」
良かった。わたしの心配はどうやら杞憂だったらしい。説明すると、隠岐くんは思い出したのか「あー、あれな」と自信なさげに眉を下げた。今日の隠岐くんは色んな表情をする。
「……イコさん出されたら勝ち目ないなって思ただけ」
口元を手で隠すとチラリとわたしを見る。まるでわたしの反応を窺っているような仕草だ。何か試されているのだろうか。さっきの大反省会を経て、少し考えてから物を言うことを覚えたわたしの脳内はさて何をどう返そうとフル回転していた。生駒さん、勝ち目、攻略……。これだ!
「生駒さんゲーム強いんだ?」
全ての話をミックスした上で選んだ回答に、隠岐くんはしばらく「へ?」と瞬くと、ぶはっと吹き出した。「ッ、へっ、下手な方やとっ思う、でっ」と腹を抱えて涙目になっている。これは正しい答えと言えそうにないな、と笑われる恥ずかしさを誤魔化そうと前髪を触る。
「あかん、腹……めっちゃ痛いっ」
「笑いすぎだって……もう、なんで!?」
結局、隠岐くんが本鈴直前まで笑い続けたせいで、わたしは教室に戻ったあと「見せつけてくれてんねー、おふたりさん」「どんなお話されてたんですかあ?」と教科書の用意もせずにからかってくる馬鹿二人の餌食となった。
2022.1.15
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