「あ、隠岐の彼女さん」
 
 天気予報のアプリでは降水確率ゼロパーセントになっていたのに、帰る時間になった途端雨が降り出した。自転車通学のわたしとしては非常に困った事態に、ひとまず玄関前で雨が止むのを待っていたときだ。「え?」振り返ると、意図せず話しかけてしまったとでも言うような顔をした細井さんがいた。
 
「ごめん急に。顔見たらつい言うてしもた」
「ううん、別にいいけど……え?あのわたし隠岐くんの彼女じゃないよ?米屋たちがふざけて言ってるだけ」
 
 あの一件以来、ことあるごとに隠岐くんとの仲を探ってきたり、隠岐くんが教室に来るたびに「彼氏会いに来てんぞ」とにやける米屋と出水の背中を叩くのが日常となっている。てっきりその二人があることないことを同じボーダー関係者の細井さんに吹き込んでいるのだろうと思ったのだけれど、それは違ったらしい。
    
「そうなん?水上先輩やなくて?」

 なんでここで水上先輩の話が出てくるのだろうと思っていたら、「こないだラーメン屋で彼女っぽいの見たみたいに言うてたから」と言われ腑に落ちた。そういえば細井さん、ボーダーで隠岐くんと同じチームだ。水上先輩も同じく。
 ていうか、あのとき水上先輩そんな風に思ってたのか。隠岐くんはわたしのことを友達だと言っていたはずなのに。「違うのになあ」笑って否定すると、細井さんも「きっとあの人適当なこと言うてウチのことからかったんやわ。今度訂正しとくな」とハキハキとした関西弁で申し訳無さそうに眉を下げた。
 細井さんは傘立てたから控えめなフリルがついた薄紫の傘を取り出すと、「あれ?」とわたしを見た。
 
「もしかして苗字さん傘ないん?」
「うん。わたし自転車通学なんだ。雨だと思わなかったからカッパ持ってきてなくて」
「そうなんや。どっちの方なん?歩きで良かったら一緒に帰ろか?」
 
 まさかの提案。まともに話したのは今が初めてだというのに、細井さんって良い人だ。
 
「ありがと。でもさ、わたしの家、川の向こう側なんだよねえ……」 
 
 おれらおんなじとこに住んでんねん。いつか隠岐くんが言っていたことを思い出す。関西出身の彼らはボーダーが借り上げたマンションにそれぞれ部屋を与えられているらしいのだ。彼がおれら、と言った中には同じく関西出身の細井さんが含まれている。つまり、細井さんはあの穴場コンビニの近くに住んでいる隠岐くんと一緒のマンションに住んでいるということで。わたしの家からは随分遠い。
 細井さんは「川越えるんは結構しんどいなあ」と止む気配のない雨を眺めた。
 
「わたしに気にせず帰っていいよ。もうちょっとマシになったら特攻するから」
「冬にそんなんしたら風邪ひくで。あ、ちょお待ってや。ええこと思いついたわ」 

 ええことってなんだろうと思っている間に、細井さんはスマホを取り出すと耳に当てた。「あんたまだ教室おるやろ?傘大きいの持ってるやんな?ちゃうねん、傘ない子おるから。うん、うん。悪いけど頼むわ」電話の相手は誰だろうと思いながら外の雨を眺めていると、電話を切った細井さんが「ウチの傘で帰り」と傘を渡してきた。
 雨足はまだ緩まることはせず、玄関前のタイルに強く打ち付けている。
 
「え?借りれないよ。細井さん帰れないじゃん」 
「ウチおんなじ方向の人に入れてもらうわ。さっき雨雲レーダー見たけどこっからまた強なるらしいで」

 おんなじ方向の人というのは、さっきの電話の相手だろうか。わたしが遠慮していると、細井さんは「気にせんといて」と言ってくれる。だけどやっぱりこのまま傘を受け取ってわたしだけ帰るのも申し訳ない。うーん、どうしたものかな。悩んでいると、「マリオ〜」と間延びした声がして細井さんが振り向く。細井さんのことをマリオと呼ぶのは、わたしが知っている中では一人しかいない。
 
「隠岐」
 
 予想通りの人物は、細井さんの隣に立つわたしに気付くと、あれ?と目を瞬いた。
  
「苗字さんもおるやん。さっき言うてた傘ない子って苗字さんのことなん?」
「うん。朝晴れてたから自転車で来たんだけど、カッパ忘れちゃって」
「ウチが家まで送ったろ思てんけど、さすがに川の方は遠いし、苗字さんに傘貸したげたいねん。だから隠岐一緒に帰ってくれへん?」 
 
 それはええけど、と隠岐くんは軽く笑って、傘立てから紺色の傘を引き抜くと「あ」と何かに気付いたように声を上げた。
 
「なあ、職員室で傘借りれば良かったんちゃう?」
 
 「え」「あ」わたしと細井さんの声が被る。なんでこんな単純なことに気付かなかったのだろう。
 
「わた、わたし傘借りてくる。細井さんなんかごめ、ありがと……っふ」
「いや、ウチこそ……ええこと思いついたとか言うてもたし……ふ、なんやめっちゃ恥ずいわ……ふはっ」
 
 二人で顔を見合わすとじわじわと笑いが込み上げてくる。「二人揃ってアホやなあ」と隠岐くんが呆れたように笑っていた。
 職員室で無事に傘を借り、下駄箱に戻ってくるとまだ二人がいた。どうやらわたしを待っててくれているようだ。「ほんまちゃうん?」細井さんがそんなことを言っていて、「だからちゃうって」と笑いながら否定する。なんの話だろうと思っていると、わたしに気付いた隠岐くんが「借りれたん?良かったなあ」とわたしの持った年季の入ったビニール傘を見た。
  
「雨強なる前に帰ろか。隠岐はどうする?」
「ん〜帰るつもりでおったしおれももう帰ろかな。ほな、苗字さん気ぃつけてなあ」 
「うん。二人も気をつけてね。ばいばい」
 
 A組の二人とB組のわたし。明日も会えるかはわからないけれど、また明日と言い合って玄関を出て、自転車を取りに行くため二人とはそこで別れた。
 傘を差しながら自転車を運転するのは今の世の中タブーなので、片手にハンドル、片手に傘を持つ。自転車を引いて門を出た先、豆粒みたいに小さくなった細井さんと隠岐くんが歩いているのが見えた。薄紫色と紺色の傘が並ぶ。傘の下で二人はどんな話をするのだろう。
 
「仲良いなあ」
 
 漏れ出た独り言。誰にも聞こえないはずなのに、雨音で消えていくことに安心した。それなのに、なんでかな。
 ハンドルを握る手の部分だけ冷たい雨を防げない。かじかむ手。傘を持つ方の手に力が入った。
 
 
 
 冬にマラソン大会をやると決めたのは誰だ。学校の創設者か?歴代の校長か?それともどっかの教育関係の偉い人?校内きっての不人気行事なのに無くならないのは何かの陰謀だと思う。
 
「決めたやつ恨むわまじで……」 
 
 学校指定の薄っぺらなジャージの上から体を摩擦し、足踏みをする。寒空の下、この防御の薄い服装でなにが悲しくて走らなきゃいけないのだろう。
 男子十キロ、女子七キロ。一年の女子の次に一年の男子、その次に二年の女子……といった順番で行われる。
 やってらんない、と寒さに身震いしていると、スタート地点近くで身体を丸めた隠岐くんが見えた。誰かを探しているのか、キョロキョロと周りを見渡している。その様子を眺めていたら目が合い、「苗字さーん」手招きされたのでそちらへ向かう。
 
「寒いねえ……誰か探してるの?」
「後輩探してんねん。あいつ昨日家遊びに来とってんけど、ジャージの上おれの部屋に忘れとってん」 
 
 言われてみれば隠岐くんの腕にはジャージがかけられていた。朝から探しているのに見当たらないらしい。この寒い中、体操服だけで過ごしているのだろうか。想像するだけでも寒すぎる、と身震いすると、「まあいつも元気いっぱいやから平気やとは思うけどなあ」と隠岐くんは白い息を吐いた。
 
「へえ、どんな子?」
「ほら、前言うてた同じチームの海ってやつ」 
「ああーうみちゃんの元祖」
「元祖て。まあ間違いではない……んかなあ?」 

 うみちゃんの名付けの元、海くん。本名は確か南沢海くんだ。文化祭で目立っていたらしく、学年が違っても知っている人は知っているらしいけれど、あいにくわたしは知らない側の人間だ。
 
「今どきな名前だよね」
「それなあ。おれ、あいつとおったらたまに自分の名前古い気してくんもん」
「孝二くんだっけ?」
 
 隠岐くんは「隠岐くん」感が馴染みすぎているので下の名前について考えたことがなかったけれど、確かに今風ではないかもしれない。隠岐孝二。古くはないけれど、ちょっと渋い。絶妙な位置付けだ。 
 
「そやで。名前、知っとったん?」 
「隠岐くんさ、多分自分で思ってるより有名人だよ。二年の女子はみんな隠岐くんのことフルネームで言える」 
「え〜なにそれ怖いんやけど」
 
 隠岐くんとそんな話をしている間に、一年の女子がスタートを切る。途中、ちらちらとこちらを気にするいくつかの視線を感じ、あの走っている一年の女子たちも隠岐くんの名前を言えるのだろうなと思った。
 次に一年の男子が並び始めた。風が強くなってきて、あまりの寒さに体を擦る。「ここで見つからんかったらジャージ無しで走ってもらおかあ」とのんびりとした口調ながらも酷なことを告げた隠岐くんと、口癖のように寒い寒いと言い合っていると、「隠岐センパーイ!」と先頭から大きく手を振る子が一人。動きが大きい。良く言えば賑やか、悪く言えば騒がしい。まさかあれが南沢くんだったりして、と隠岐くんを見ると「うみちゃんみたいやろ?」と肯定された。以前見せてもらった動画で勢いよく床材に潜り込んだかと思うとこれまた勢いよく飛び出してきて回し車を高速で回し、最後はケージを駆け上ったうみちゃんを思い出して納得した。さすが、うみちゃんの元祖。
 隠岐くんが「忘れもんやでー」とジャージを掲げると、南沢くんは「やべー!」と頭をかくと、元気よくこちらに向かってきた。
 
「昨日おれん家に忘れとったで」 
「存在すら忘れてました!あざーす!うわ、あったか!」

 早速ジャージに腕を通した南沢くんは、「ジャージ一枚でこんな変わるんすね!すげー!」と無邪気に笑う。元気な子だな、と思わず笑ってしまったら、目が合った。
 
「あれ?もしかして先輩の彼女ですか?」 
 
 細井さんに続き、隠岐くんのチームメイトによる勘違い再びである。細井さんの訂正はまだ南沢くんにまでは行き届いていないようだ。
  
「ちゃうって。こないだからなんなんほんま」
「そうそう、違うよ。ただの友達」
「え〜?」 
 
 納得がいかないと南沢くんが口を突き出していると、一年男子に対してスタート位置につくようアナウンスがかかる。「呼ばれてんで」と隠岐くんが南沢くんの背中を押す。彼は振り向いて「先輩、ちょっと」と隠岐くんに耳打ちをして、それを聞いた隠岐くんは「アホ」と南沢くんの頭を軽く小突いた。
 
「アホなこと言ってんとはよ行き」
「へへ、はーい!一位取ってきますんで、先輩たちも頑張ってくださいね!じゃ!」
 
 ピョンピョンと飛び跳ねるように勢いよく駆けて行った南沢くんの後ろ姿を見て、隠岐くんは「絶対コースミスるやろなあ」と呟いた。彼のことをよく知らないわたしですら有り得そうと思ったので、彼をよく知る隠岐くんの予想はまず間違いなく当たるだろう。
 それにしても、南沢くんとのこそこそ話はなんだったのだろう。ちらりと見上げると、「ん?」と首を傾げた隠岐くんと目が合った。「なんでもなーい」内緒話を探るのはよくないな、と思い直して視線をもとに戻した。どうせわたしには関係ない話だ。
 一年男子がスタートし終え、次は二年の女子がぽつぽつと並び始める。そろそろ行くね、と隠岐くんに告げる。
 
「ファイト〜」
「……他人事みたいだけど、隠岐くんもこのあと頑張るんだよ」
「おれマラソン苦手やねんもん。苗字さん得意そうやんな。いっつもチャリ乗っとるし」  
「自転車と持久走は全然違うよー。じゃあほんとに行ってくる」
「頑張ってなあ、いってらっしゃ〜い」 

 隠岐くんの緩さ加減に力が抜けて、思わず笑いが漏れる。だからそっちもこの後頑張らなきゃ行けないんだってば。
 手を振って別れ、スタート地点に並ぶ。寒さで縮こまった身体や筋を伸ばし、ふうと白い息を吐く。
 さっきまでの場所に視線を向けるとそこにはまだ隠岐くんがいて、わたしが見ていることに気付くと大きく手を振る。が、ん、ば、れ、と唇が動くのが見えて、頷いた。
 マラソンは嫌いだ。特に冬のマラソン。寒いし、肺が痛いし、疲れるし、筋肉痛になるし。良いことが何一つない。けれども、まあ。今回はちょっと頑張ってみようかなと思っているわたしが心のどこかにいた。

2022.1.4

  back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -