真夜中、玉狛支部の屋上は遊真のテリトリーになる。テリトリーと言ったって、侵入が拒まれることはない。
支部のみんなが寝静まったなか、そろりそろりと部屋を抜けて屋上までの階段を上がり、そっと開けた屋上のドア。室内から室外へ出たことで一気に下がる気温に両手を擦り、「遊真、出掛けない?」夜空の下、ふわりと浮かび上がる白い髪をお誘いする。パラペットに腰掛けた遊真は振り返ると、ふむ、と壁時計を見上げた。
「こんな時間に起きているなんてどうしたんだ?出掛けるにしたって、コンビニしか開いてないぞ」
真夜中の一時半。屋上から見えるのは、市街地の街灯と二十四時間営業の店のぽつぽつとした光といくつかのヘッドライトだけ。
「寝れないから、夜の散歩したいなって」
「そうか。いいぞ。どこに行く?」
「あっちの方とか?」
適当に指を指した方へ遊真は目をやって、わかったと頷くとわたしの手をとった。不意の接触に心臓が跳ねるわたしをよそに、「冷たいな」と遊真は薄っすら笑ってその手を離した。
玄関先でコートを羽織り、不要だと言う遊真に強引にダウンを着せた。「おれは寒くないぞ」と動きにくいのか少し不満そうに尖らせる口はマフラーで覆い隠した。
「自転車使うか?」
「ううん、歩きたい気分なの。朝までにどこまで歩けるかなって」
「朝まで?今日は寝ないつもりなのか」
「ん〜?」
肯定も否定もせず歩き出す。「誤魔化すってことはそういうことだな」と怒るわけでも呆れるわけでもなく遊真は隣に並ぶ。わたしよりもうんと低い位置にある旋毛を見ていると、遊真が首を傾けてわたしを見上げて笑う。
「せっかくだから手でも繋ぐか?」
「……そういうのは恥ずかしいから、やだ」
「ふむ、ならおれが迷子にならないように繋いでおいてくれ」
「その言い方はずるくない?」
「なんとでも言えばいいよ」
おずおずと差し出した手を小さな手が握る。指と指の間に分け入ってくる感覚にむず痒さと気恥ずかしさがあって、ついそっぽを向くと「かわいいな」と遊真が笑って冷たい空気が揺れた。
遊真はふたりきりのとき、こういう戯れをする。わたしの気持ちを知っていて、それに応える気はないくせにこういうことをする。乙女の純情を弄んでいる、悪質だ、と抗議をすると、「複雑な男心ってやつですな」と茶化す。可愛い姿をしながらも、中身は立派に悪い男だ。
ゆっくりとした足取りで住宅街を歩く。他愛ない話を重ねる中で、時折繋いだ手の不変さに気持ちが逸れるときがあった。切なくなって、込み上げてきそうななにかがあって。そうなる度に意識的に息を吐いた。
「ため息をすると幸せが逃げるらしいぞ」
「じゃあもうわたしの幸せは残り少ないね。毎日何回もため息ついてるから」
「なんで?」
「……それ、遊真が聞く?」
「なんだ。寝れない原因はおれか」
気負ったわけでもなく、平気な顔をしてけろりと事実を言い当てられる。隠しているわけじゃないから頷くと、手の甲を親指の腹が撫でる。優しい動き。左手人差し指にはまった幼い手に不釣り合いな指輪。またなにかが込み上げる。
「その指輪、もう保たないの」
最初は不思議だった。遊真の手がいつも同じ体温なこと、毎日夜遅くまで起きていること、上着が必要ないこと、小さすぎる身体のこと。トリオン体だと知ったとき、納得がいったのと同時にまた新たな疑問が湧いた。どうして常にトリオン体なのだろう。
それが明るい理由じゃないことはなんとなく勘付いていたから、この間迅さんから聞かされたときには「やっぱり」と思った。やっぱり、そうだったんだ。やっぱり、遊真と遠い未来を一緒に見ることはできないんだ。
繋いだ手を強く握ると、遊真は頷き、「修か?」と軽く笑った。
「違う。三雲くんはそういうの、教えてくれないよ。迅さんから聞いたの」
「迅さんか。なら、なにか視えたのかもな」
「……なんで、そういうこと言うの」
同じことを思っていたのに、いざ本人から言葉にされると重みが違う。わたしにだけ隠されていた遊真の秘密。それをわざわざ、あの迅さんから伝えられたのだから、それがどんな意味を持っているのかわからないわたしじゃない。わからない遊真じゃない。
歩みを止めようとしたわたしを、遊真が手を引いて進ませる。「あっちまで行くんじゃないのか」って。
「遊真、死んじゃうの?」
この手は、いつまで、どこまで引いてくれるのだろう。
「そりゃいつかはな」
「誤魔化さないでよ」
「そう言われてもな。そのいつかがいつになるのかおれにもわからん。迅さんなら知ってるんじゃないか」
まるで、だから秘密を教えたのだろうとでも言いたげな、そんなニュアンス。あえて言葉にせずとも、その未来がすぐ先に視えてきていることを示唆していた。
「泣くなよ」
そんなことを言われたってそう簡単に涙が引っ込むはずがない。鼻の奥がつんと痛む。必死に声を我慢していると、小さな身体がわたしを包む。
「上着はやっぱり邪魔だな。くっついている感じがわかりにくい」
こんなときに茶化そうとするダウンで膨らんだ身体を抱きしめ返す。その形をしっかりと確かめたくて、ぎゅうっと強く腕を回して、肩口に顔を埋めた。柔らかい毛先が頬に当たる。シャンプーの匂いがする。遊真は今確かに、ここにいて、生きている。
「遊真、好き」
極まって溢れだした想いを伝えるのは何度目だろう。遊真の笑い声がする。
「お、今日は積極的だな」
「ふざけないで」
遊真の赤い目は、ときどきハッとさせられるほど優しく細められる。目と目が合ったとき、戯れで手を繋いだとき、わたしが好きだと伝えたとき。きっと今だってそうだ。だからわたしは少し前から気付いていた。遊真もわたしが好きだってことに。
「遊真も言ってよ……お願い」
遊真からの好きが欲しい。遊真は野良猫みたいな人だから、その時が来る頃にはわたしの前から姿を消すだろう。だから、今。遊真から確かな言葉が欲しい。そうじゃないとわたしはきっと後悔するから。
遊真の小さな手がわたしの髪を梳く。「顔見せてよ」言われるがまま涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、遊真の顔がすぐそばにあった。目と目が合ってキスをされると思って瞼を下ろしたのに、「さすがにこれはだめだな」と遊真は呟いた。離れる気配にまた目を開ける。
「なんで。だめじゃないのに。わかんないよ、わたし……」
好きだと言ってキスをしてくれればいいのに。終わりが近いというなら、遊真の残りの時間が欲しい。全てを曝け出して幸せな思い出を作る時間をわたしにちょうだい。
欲張りなことはわかってる。それでも、何も残さずわたしの前から消えようとする遊真は卑怯だ。
「わかんなくていいよ」
「よくない。よくないよ、だって遊真、わたしに何も残してくれないつもりだ」
「ほう。バレたか」
ふ、とその幼い顔に似合わない笑みをこぼして、遊真はマフラーを取った。「さっきから手が冷たいぞ」そう言ってわたしの首に巻く。
何も残してくれないなら優しくしないで。鼻を啜ると、マフラーと首の間に細い指を差し込まれ下に引かれる。「名前」またすぐ間近に遊真が迫っていた。
「おれはな、おまえが手に入れられなかった男になるのも悪くないと思ってるんだ」
遊真の目が薄っすらと細められる。わたしのことが好きって訴えてくる目。「意味わかんない」涙混じりの鼻声でぼやけば、遊真はまた「わかんなくていいよ」なんて言う。
遊真の複雑な男心がわかるときなんてわたしにはきっとこないのだろう。そう頭でわかっていても諦めがつかない。こんなに好きなのに。遊真だってわたしのこと、好きなくせに。好きって言ってよ、お願い。
願いは届かず、触れそうなほど近くにある唇は結局くっつかずに、また離れていった。
2021.12.19
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