自転車をぐんぐんとスピードを出して走ることに爽快感を見出したのはいつだったっけ。確か小学生のときだ。算数の小テストでやり直しをさせられたときも、クラスでわたしだけが逆上がりができなかったときも、お母さんと喧嘩したときも、街中を漕ぎまわったらちっぽけな悩みに思えた。
 そして今日も、わたしは自転車を走らせている。楽しみにしていた期間限定アイスを食べたお兄ちゃんへのイライラを吹き飛ばすために!
 
「はっやーい!」
 
 アイスの恨みは自転車で晴らす。今回はお兄ちゃんのお気に入りのロードバイクをこっそり拝借してきた。ママチャリなんかよりも重心が前のめりで、風の勢いをもろに受ける。秋の夜空には寒すぎるくらいだけれど、爽快感が寒さより勝る。誰よりも早くなった気分だ。
 目的地はコンビニだったけれど、わたしの欲しいアイスはまだ入荷されていないって夕方寄ったときに店長が言っていた。それならロードバイクで走る気持ちよさを味うことを優先して、もう少し足を伸ばす。川沿いを走っていく間に三件のコンビニを見つけて、でも止まりたくなくてどんどん先へ行く。こいで、こいで、段々人や車の気配がなくなって。気付いたら警戒区域のすぐそばまで来ていた。 
 
「おお……こんな近くまで来たの、初めて」 
 
 有刺鉄線と"立入禁止"の立て看板。自転車を柵に立てかけ、有刺鉄線の向こうを見た。たくさんの家があるのにそのどれも光がない。四年前にはあったそこに住む人たちの温かみが、どこにもない。こういうのを寂寥とか、虚無とか言うんだろうか。
 わたしの周辺は幸運なことにネイバーの襲撃を受けなかった。家も、家族も、友達もみんな無事だ。けれど、同じ地域で、同じ歳で、何もかもなくした人がいるのだという事実をこの場所が訴えかけている。
 自転車で得た爽快感がどんよりした気持ちに上書きされていく。
 
「はー、帰ろ」
 
 うんと軽く伸びをして、自転車に跨がる。足をかけてひと漕ぎしたところで、前から人が歩いてくるのに気付いた。
 背の高さから、きっと男の人だ。人気のない警戒区域の近く。自意識過剰だとはわかっているけれど、もし変な人だとしたらと思うとハンドルを握る手に力が入った。さっさと通り過ぎよう。タイヤの回転数を上げる。
 なるべく目を合わせないように、相手の顔を盗み見る。暗がりのなか、ぼんやりと遠くを見て歩く人。思わず急ブレーキをかけたのは、その顔に覚えがあったから。
 
「おっと、とと……隠岐くん?」
 
 足で踏ん張って振り返る。別に声をかけるつもりなんてなかったので、ほぼ反射的な行動だった。驚いたように瞬きをする同級生がそこにはいた。 
  
「え?あー、隣のクラスの子やっけ?」 
 
 二年A組隠岐孝二。なんで知ってるかって、それなりに有名人だから。こっちはしっかりばっちり覚えているのに、向こうはわたしの顔を見てもピンとこないらしい。仕方がないとはいえ、一方的に知っているだけという間柄で声をかけてしまったのは失敗だった。
 
「B組の苗字」
「そうそう、苗字さん」
 
 本当に覚えているのか、知っていたていを装っているのかよくわからない隠岐くんは、いつの日か廊下ですれ違ったときに友達が「あの笑顔がさーいいんだよね……」と力説していた人好きのする笑みを浮かべた。
 
「苗字さん、このあたり警戒区域のすぐ近くやで。なんでおるん?」
「そっちこそなんでこんなとこいるの?」
「おれ?おれはこのへん住んでんねん」 

 え? 危なくない?
 さっき寂れた住宅街がまだ頭の中にあったわたしはそう言いかけて、言葉にする前に答えを見つけた。
 そうだ、隠岐くんはボーダー隊員だった。危ないどころか、危険を排除してくれている側だ。
 三門から出ていく人はいても、入ってくる人はなかなかいない。そんななか、彼は一年の途中に大阪から転入してきた。噂では、ボーダーにスカウトされたらしい。縁もゆかりもない土地を守るために高校生が一人でやってきた。ボーダー隊員が多い高校のなかでも、そんな彼はちょっと特別な男の子。彼が有名人なのはそういうわけなのだ。
 
「ふーん。このへんって住みやすいの?」
「三門来てからここしか住んだことないしわからんなあ。コンビニはわりと近いし便利っちゃ便利やけど」 
 
 間延びした関西弁で話しながら、隠岐くんはがさがさとコンビニの袋を揺らす。それを見て、そういえばわたしの目的はコンビニでアイスを買うことだったなと思いだした。
 
「苗字さんはどこらへんなん?」 
「川よりあっち」
「え、めっちゃ遠ない?なんでこんなとこおるん」
「コンビニ行くつもりだったんだけどさ、漕いでたら楽しくなってここまで来ちゃった」
「なんや苗字さんおもろいな。けど帰る道わかるん?」
「た、たぶん……?」
「いや自分それあかんやつやん」  
 
 暗闇の中、隠岐くんの笑う声が響く。「そうかも……?」変な子と思われたのかな。あまり話したことがないから、笑われるのは恥ずかしい。
 さっさとお暇しよう、行きと同じように適当に行けば帰れるだろうし。じゃあまた明日、とペダルに足を乗せる前に、隠岐くんがわたしの隣に並んだ。
 
「なあなあ、おれもそっち方面やし、途中まで一緒に行ってええ?」
「え?……逆だよね?さっきあっち行こうとしてたくない?」 
「ブラブラ歩いとっただけやねん。道わからんのやろ?わかるとこまで一緒に帰ろうや」 
 
 にこ、と人好きのする笑みを寄越した隠岐くんに、わたしは不覚にもうっと胸を高鳴らせた。う、うう、と唸りながら自転車を降りる。
 
「なんか……隠岐くんがモテるのわかる……」
「いや〜モテへんて」
「だって今、キュンってなったもん」 
「もしかしておれ今苗字さんに口説かれてるん?」
「なんでやねん!」 
 
 わたしの適当関西弁ツッコミに、隠岐くんが「いいツッコミするやん」とへらりと笑うのでわたしも真似して笑う。あまり話したことがなかったけれど、隠岐くんとわたしは意外にも波長が合うらしい。
 タイヤのカラカラ音と、コンビニの袋のガサガサ音が歩くたびに鳴る。隣には隠岐くん。今までなかった組み合わせがここにきてマッチするのが面白い。

「それにしてもこのチャリめっちゃかっこええなあ。苗字さんのなん?」
「お兄ちゃんの。結構高いんだってさ」
 
 だからこそ復讐しがいがあるのだ。今頃、バイト前に自分のお気に入りのロードバイクがないと知るだろう。お兄ちゃんの慌てふためく様子が簡単に想像できる。ざまあみろだ。思わずにたりと口端を釣り上げたわたしに向かって、「わっるそーな顔やなあ」と隠岐くんは笑っていた。
  
「なんなん、お兄さんと喧嘩したん?兄弟仲良うせなあかんやん」 
「だって勝手にアイス食べられたんだよ?名前書いてたのにさ!」 
「喧嘩の内容が想像以上にしょーもないんやけど」  
「しょーもなくない。あのアイス、あんま売ってるとこないんだから!」
 
 コンビニ限定アイスの、さらに秋限定のマロン味。かつ数量限定。売ってる店舗も限られているレア中のレア。近くのコンビニではわたしが買った日を最後に、入荷未定のポップが貼られている。だから大事に食べようとキープしていたのに。「あの栗のアイス超うまかったわ」と悪びれもなく言ってのけたお兄ちゃんの馬鹿面を思い出して、また怒りが湧いてくる。
 
「そんな珍しいやつあるん?そういえばおれもさっき新商品のアイス買ってん」
 
 あった、これこれ。隠岐くんが袋から取り出したパッケージにわたしは目を丸くした。
   
「苗字さんが言うとるのこれやったり……するっぽいなあ、その反応」  
「これ!これこれ、超美味しいの!うそ、わたしん家の近くまだ入荷してないのに。どこで買ったの?」 
「すぐそこのコンビニで売ってたで。通り道やし、ついでに寄ってく?」 
「行く!」 
 
 そのまま二人でコンビニへ向かうことになった。道すがら、「B組って賑やかそうやなあ」と言われ、「そりゃ馬鹿二人揃ってるからね」と米屋と出水を頭に浮かべながら答える。同じ二人が浮かんでいるのか、「苗字さん結構言うやん」と隠岐くんは笑っていた。コンビニの近くまで来ると、「そっちの道まっすぐ行ったら川あるわあ」と帰り道を教えてくれたりもした。
 
「なにここ穴場じゃん……マロン以外もあるし……」 
 
 お目当てのアイスに加え、他の限定商品までもが何個も積まれたアイスコーナーに感激していると、隠岐くんは「よかったなあ」とカゴを取る。
 私と会う前もコンビニで買い物をしていたはずなのに、カゴを持つ隠岐くんが面白くて、「そんなに食べんの?」と聞くと、「おれ浪費癖あんねん」と隠岐くんは小袋のチョコを放り込んでいた。
 
「ボーダーって儲かるんだね」
「ゆーてバイトしてる人らよりちょい上くらいやで。けど地元にも帰れるときあんまないし、他に使い道もないしなあ」 
 
 ガサ。隠岐くんがポテチをカゴに入れる。「ストレス発散みたいなもんやな」と笑う隠岐くんの横顔は照明のせいか陰って見えた。
 
2022.1.2

  back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -