「俺ら結構気ィ合うと思うんだよね。付き合わない?」
誘われて行った合コンで、話が合った。というか、合わせてくれていた。顔も悪くなかった。なのでデートの誘いにとりあえずオッケーしてみた。名前もよく覚えていないまま遊園地デートを終え、「ばいばい」と別れの挨拶をした。そしたら引き留められた。というのがここまでのあらすじ。
ここで頷いたら人生初の彼氏をゲットできるのだろうと思った。物は試しとよく言うし、お試し感覚で付き合うのもありかなーと他人事のような気のまま首を縦に振りかけた。
「ね?」
勝ちを確信したのか、大胆にも手を握られた。悲しいかな、私はそこで気付いてしまった。違う。私が欲しいのはこの手じゃないって。
「ごめん!無理!」
「え」
「気が合う人よりも合わない人がいいっていうか。いや、合うには合うんだけど、こう、私になんでも合わせてもらうのは違うっていうか……とにかくごめん!」
「は?」
「ジャンくんだっけ?マイクくんだっけ?君ならすぐ彼女できると思う!頑張って!」
「え、いや、あの。自分、アーサーなんだけど、」
「そっか!じゃあねエレンくん!」
帰り道、ふらっと立ち寄った公園で無意味に手を洗った。別に潔癖な方ではないのに。さっきのジャックくんだかジェニーくんだかを不快に思ったとか覚えていたくないというよりは、クラピカの手の感覚を上書きしてしまいたくなかったから。
「上書きなんてしなくたって、もう覚えてないけどね」
蛇口から勢いよく流れる水と自嘲。ついでとばかりに、ぼたぼたと溢れ出した涙も流れていく。
クラピカとさよならをして、もう二年近くが経っていた。
「名前、次の家決まった?」
「んー、まだ」
「もう、早く決めなさいよ。仕事さえなんとかなるなら別にこっち戻ってきてもいいけど」
「はあーい」
実家のソファは居心地がいい。柔らかなクッションの上に寝転がって、台所から話しかけてくるお母さんに適当に相槌を打つ。
この二年、私は以前より実家に帰るようになった。休みの度に実家に帰って、地元の友だちと遊んだり、こうしてダラダラしたり。アパートにいると寂しくて仕方ないから、一人の時間をなるべく減らしたかった。
「コーヒー飲む?」
「ん。眠いからブラックにしてー」
「あら、大人になっちゃって」
「大人だもーん。今日もみんなで飲みに行くもーん」
二年という歳月は、人を変えるのに十分な時間だ。私は成人を迎え、お酒を飲むようになった。苦手だったブラックコーヒーを飲めるようになった。仕事では次にオープンする店の店長を任されることになった。車の運転だって、それなりに上達した、はず。多分。
できたよ、と呼ばれ、テーブルに移動する。向かいに座ったお母さんと同じように湯気のたったコーヒーに息を吹きかける。焦げた豆の香り。
「イメルダさんだっけ?その人ももう少しで出ていくんでしょう?」
「うん。彼氏と結婚するからちょうど良かったって言ってたよ」
グレーな仕事をしていたわりには、あっさり引退を決めて何も知らない一般人としれっと結婚するなんて神経が図太いというか、大物というか。そんな微妙な目で見ていた私を、「世渡り上手って言ってくれない?」と彼女は不満顔をしていた。
世渡り上手。私は、どうだろう。
「そう。あんたも、いい人見つけられたらいいわね」
そう言ってなんとも言えない顔で微笑むお母さんには、私の気持ちはバレているのだろうな、と常々思う。クラピカがアパートを出ていってからこうして実家に帰っては自堕落に過ごしている私がわかりやすすぎるのか。ん、と生返事をして、コーヒーに口づけた。
ごめんね、お母さん。こないだいい人、振ったところなんだ。
お酒っていうのは、美味しいから飲むものじゃない。嫌なことを忘れるには手っ取り早いから飲むのだ。
たいして強いわけでもないのにフラフラになるまで飲んだ。手を貸してくれようとする人にアルコールで気が大きくなったせいか割とはっきりバッサリ断りを入れ、「素直にお持ち帰りされろよ」「名前のために開いたんだけど。つーかこないだのアーサー君なんで振ってんの?」と友人たちに笑顔でシバかれた。
合コンとはなんたるかを語ってくれた友人たちも私にその気がないのをわかっているので、最終的には呆れながらタクシーに押し込んでくれた。「初恋が遅すぎた分、失恋引きずんだよ」と酔った耳に囁かれ、「そんなんじゃないもん」ともつれた舌で返すと、「往生際悪ぅ〜」と冷やかされながらドアを閉められた。
タクシー料金を払い、運転手に心配されながらもおぼつかない足取りでなんとか家の前まで辿り着いた。ドアノブをひねるけれど、鍵がかかっていて開かない。
「あーもう。みんな寝てんのお?」
鞄に手を突っ込んで、内ポケットの中身をガバっと鷲掴む。出てきたのは、実家の鍵、アパートと職場の鍵の入ったキーケース、落としそうだからと酔いはじめに外したイヤリング――シーグラスのついた、千切れたヘアゴム。
たいしたものじゃない。ヘアゴムとして機能しなくなったのだから、さっさと捨てればいい。それなのに大事なものを入れている内ポケットに当たり前のように居座っている。
未練たらたら。友人たちが言うように、もう立派に失恋しているのに。
「はは、ばっかみたい」
どうしようもなく情けなくて笑えてきて、鍵を開ける手が震える。ただいま、と真っ暗な玄関に呟いて、張り切ってはいたヒールの高いパンプスを脱ぎ捨てる。
そのまま廊下にべったりと顔を付けて寝転がった。冷たくて気持ちいい。このままここでなにもかも忘れ去って寝てしまいたい。ほとんど分解されてしまったアルコールの残りカスの部分でそんな甘えたことを考えていると、頭上に明かりが灯った。
「わ、まぶし」暗がりに与えられた光の眩しさに目を瞬いていると、ぺたりぺたりと廊下を裸足で歩く音が近づいてきた。
「名前ちゃんかい?今帰ったの?」
「おばあちゃん、ただいまあ。起こしちゃった?」
「ちょうどトイレに行こうとしたところなのよ」
トイレに向かう背中は小さい頃よりもずっと頼りない。一度骨折してしまったからか、足取りだって酔っぱらいの私と大差ないくらい。それでも、「年寄りってのはいやねえ。色々ガタがくるわ」と明るく笑うおばあちゃんみたいに私もなりたいと思っている。
「思ってるんだけど、なあ……」
最近の私はうまく笑えている気がしない。最近、というには二年は長すぎるかもしれない。
私ってやつは、底抜けに明るいわけでも、ひたすらポジティブなわけでもないけれど、それでも割と前向きな方だったはずだ。それが今じゃどうだろう。湿っぽくて、陰気で、自棄っぱちで、実家の廊下にいつまでも顔をくっつけている。「はあ」ほら、今みたいにため息を作るのが得意な人間になってしまった。
「やだ、名前ちゃんまだいたの?」
「なーんか、起きる気力なくって。今日はここで寝ちゃおっかなあ」
「おばあちゃん、名前ちゃんが風邪引いたら悲しいわ。ほら、起きてちょうだい」
トイレから戻ってきたおばあちゃんは、まだいる私を心配して曲がったままの背をさらに曲げて引き起こそうとする。そんなことをして怪我でもされてはたまらないので、重だるい体を自分の力でなんとか起こした。
カラン。掌から滑り落ちた鍵とヘアゴム。拾うためにまた一つ息を吐いて、ゆったりとした動作でしゃがみ込む。
「まあ、名前ちゃんのお気に入り壊れちゃったの?」
私のお気に入り。鍵を指しているのではないことがわかっていて、拾い上げたあとぎこちなく笑った。
「ゴムが切れちゃったの。もう捨てなきゃだめだね」
希少価値が高いから持っていたわけじゃない。クラピカと一緒に見つけたものだから、思い出が詰まっているから、どこか彼を連想させるから、未練がましく持っていた。もうそれを繋ぐゴムの寿命はとっくに切れていて、私達の縁も切れてしまったのに。
「あら、じゃあ新しいゴムにしたらいいのよ」
これを機に捨ててしまおう。そう思っていた。けれど、おばあちゃんはあっけらかんとそう言うと、部屋に戻って私を手招きした。
「おいで」招かれるままおばあちゃんの部屋に入る。おばあちゃんの部屋はしっとりとした、枯れ草のような独特の匂いがする。年寄りの匂い、とお父さんやお母さんはたまに困ったような顔をして言うけれど、私は嫌いじゃなかった。おばあちゃんの優しい匂いは、古い造りのアパートメントエレーナと似ているから。
「えーと、どこに置いてたかしら」
ボケ防止で始めたはずなのに、今では立派な趣味となったおばあちゃんのアクセサリー作り。なかなか器用で、私好みのセンスをしている。鍵につけているキーホルダーも、鞄に眠っていたピアスもおばあちゃんに作ってもらったものだ。
おばあちゃんは、年々増えていく材料を整理しているいくつかのボックスを開き、「あったあった」と私に何もついていない無地のヘアゴムを渡した。
「はい。自分で付け替えれる?」
「多分。作るの、簡単だったし……」
「ふふ、そうね。簡単簡単」
にこにこするおばあちゃん。私は手に持ったままだったヘアゴムに視線を落とした。
まあ、別にいいけど。そんなことを心の中で呟いて、切れたヘアゴムから金具を外す。
「ねえ名前ちゃん」
「んー?」
おばあちゃんの穏やかな声が私のささくれだった心を優しく撫でる。
外した金具をまた新しいヘアゴムにつけて、完成。作り直すって、こんなに簡単なんだ。
「切れたものはね、何度でも繋ぎなおせばいいのよ」
「……うん」
「おばあちゃんはね、えにしの糸も同じだと思ってるの。名前ちゃん」
ちょこんと、手のひらにのったヘアゴムを摘み上げる。久々にじっくりと見たシーグラスは曇ガラスのようにふんわりとした優しい色合いをしていた。
2021.11.17
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