この時代にきてから半年が経った。季節はもうすっかり夏を迎えていた。
 自室の障子を開けて、縁側へ腰掛ける。あの日杏寿郎さんに叱られたけれど、眠れない日は相変わらずこうして過ごしてしまう。寝過ごさないように気をつけているお陰か、あの日以来杏寿郎さんに見つかったことはなかった。
 
「どうしたものかな」 
 
 いま、私は確かな兆しを感じていた。
 体が軽い。比喩ではなく、足を踏み出すたびにどこかへ飛んでいけそうなのだ。
 羽衣があれば帰れる。私にとっての羽衣。あのカシミアのカーディガン。それさえあれば、きっと帰れるはず。
 私がかぐや姫だったら。満月の夜に誰かが迎えに来てくれるのか。
 満月と言い切るには物足りない月に向って手を伸ばす。届くはずのないそれを掌の中に隠して、虚しくなって空へ帰す。
 私に迎えはこない。私の場合は、自らの意思で帰ろうとしなければならないのだろうから。 
 みし、みし、と木の板が軋む音がしたと思ったら、「名前さん」と呼びかけられた。
 
「こんな夜更けに起きていたら風邪を引かれますよ」 
「千寿郎くん。珍しいね」 
「実は僕も寝付けなくて。夜風を浴びようとしたら名前さんがいて驚きました」  
「杏寿郎さんに内緒にしてね。前、こわーい顔して怒られたの」
「ふふ、わかりました」 
 
 いつもなら高く結いあげている髪をおろした彼は、私の隣にそっと腰を下ろした。現代よりも心地よい夏の夜風が、彼の髪をふわりと靡かせた。
 
「明日の昼頃には兄上も戻られるそうです」 
「そっか。じゃあ明日の朝、わらび餅でも買いに行く?」
「いいですね」 
 
 煉獄家が好んで通う和菓子屋にわらび餅が並びだしたのは梅雨の終わり頃からだ。ノーマルのきなこ、大人なニッキ、ほろ苦い抹茶の三種に外れは一つもなく、朝一番に買いに行かなければすぐに売り切れてしまう。
 杏寿郎さんはこの夏、わらび餅をまだ食べられていない。杏寿郎さんの帰りに合わせて買いに行ったことは何度もあるが、任務が長引いたり、ありつく間もなく次の任務に駆り出されたりして、日持ちしないわらび餅は私や千寿郎くん、槇寿郎さんの腹へと消えていくばかりだった。

「今度こそ食べられるといいのですが」  
「いっそのこと、わらび餅食べ終わるまでは任務来ないように要さんを隠しておこうよ」
 
 要さんとは、杏寿郎さんの鴉の名だ。「わらび餅を買ったんですよ!食後にいただきましょう」と用意しに膝を立てたところで闇色の羽根を羽ばたかせて杏寿郎さんを呼びに来ることが二度も続いたせいか、要さんを思い描くと拗ねるような口ぶりになってしまい、千寿郎くんにくすくすと肩をすくめて笑われた。少しの情けなさと恥ずかしさを誤魔化すために言葉を重ねる。
 
「何味が好きかなあ、杏寿郎さん」
「兄上は名前さんが選ばれたものならどんな味でも喜んで食べてくれますよ」  
「……からかわないでよね」
「すみません、つい」
「もうっ!」 
 
 私の滲み出る想いに気付いている千寿郎くんは上がったままの口角で謝罪を口にするものだから、まだ成長途中の薄い背中を軽く叩いた。けれど千寿郎くんと目が合うとつられて笑ってしまう。
 こういう戯れは常日頃からあって、そんな私たちを杏寿郎さんは「君たちはまるで本当の姉弟のようだな」と嬉しそうに眉を下げる。かけがえのない日々。けれどもう、手放さなければいけない。
 いつまでもこうしていたいという願いと、元の世界に帰りたいという願い。それは両立できないのだから。
 
「千寿郎くん。今までありがとうねえ」
 
 見上げた月夜。満月とは言い難く、三日月と言うには肥え過ぎている。
 心からの言葉をしみじみと呟くと、千寿郎くんは眉を下げた。
 
「どうしたのですか、急に」
「多分だけど、帰れそうなの」 
 
 静かな夜だから、千寿郎くんが息を飲む音はこの耳にしっかりと届いた。揺れる瞳が、なにかに縋るように私を映す。
 カーディガンの在り処について、本当は随分前から知っていた。
 
「だからね、千寿郎くん」
 
 軟膏を貰いに行ったあの寒い冬の日、見てしまったのだ。
 
「私の羽衣、返してくれるかな」 
 
 千寿郎くんが箪笥から軟膏を取り出すとき、その奥に仕舞われたこの時代に不似合いなそれ。奮発して買ったから、妹にも絶対に着させないように大切にしていたものだから、見間違えるはずがなかった。
 今宵眠れずに明日の朝を迎えるのは私だけじゃないみたい。みるみるうちに顔色を青くしていく千寿郎くんを見て、そんなことを思った。
 
ーーごめんなさい。名前さんがこちらの世界に来て気を失っていたとき、あの羽衣はひとりでに宙を待っていたのです。羽衣伝説のようだと思いつい手にとってしまいました。ごめんなさい。汚れていたから、綺麗にしてからすぐに返そうと思っていたのです。でも、あなたとこの家で過ごす日々が楽しくて。兄上の帰りを前向きに待てるようになれて。名前さんが本当の姉上のように思えて。あれがもし羽衣なら、返してしまえば物語の天女のように僕らのもとを去ってしまう。それが怖かったのです。あなたが帰りたいと嘆いていることを知りながら、僕は帰って欲しくなかった。ごめんなさい。ごめんなさい。僕はなんて酷いことを……。
 
 しゃくりをあげながら何度も謝罪を口にする彼を責められるはずがなかった。
 慰めようと彼の言葉を否定したり肯定したりしているうちに私も泣けてきて、もう何を言ったか覚えていない。
 朝日が昇る頃にはどちらともなく動き出し、台所へ向かい朝食の準備を始めた。そのまま二人でわらび餅を買いに街まででかけ、気付けば帰り道だった。
 
「私、今夜元の世界に戻ろうと思う」 
 
 二人して忙しさで誤魔化していた核心に触れる。
 
「杏寿郎さんには今日の夕飯のときに自分の口で、ちゃんと言うつもり」
 
 千寿郎くんは私と同じ隈と涙腫れで縁取った目を伏せ、頷いた。
 
「千寿郎くん」
「……はい」 
「今までありがとう。大好きだよ」 
 
 二人で料理をすることも、買い物をすることもこれで最後になるね。責める気なんてなく、ただそのままを伝えたら千寿郎くんは泣き出した。その大きな瞳を揺らし、ぼたぼたと涙をこぼす彼の豆だらけの手をそっと握った。
 
 
 
 千寿郎くんから返されたカーディガンは綺麗に畳まれていて、ほんのりいい匂いがした。それは私のいた時代に使っていた柔軟剤の残り香ではなくて、この時代にある匂い袋の優しい香りで。千寿郎くんが大切に仕舞っておいてくれたことや彼の葛藤がギュッと詰まっているように思えて、胸がつまった。
 帰るために準備すると言って自室に籠もってみたが、準備するものなんて何もなかった。私のために仕立ててくれた着物も、買ってくれた櫛も、胡蝶さんというお医者様に調合してもらったという軟膏も。きっと持って帰ることはできない。
 だから全てここに置いていくと決めた。この恋心と共に。
 そう思っていたのに。
 
「ただいま帰った!」
 
 杏寿郎さんは夕日が落ちる前に煉獄家の門をくぐり抜けた。私たちの背負った薄暗い雰囲気をいち早く察した杏寿郎さんは、そんな空気を吹き飛ばすように高らかに帰還の宣言をした。その明るさにあてられ、私たちの気持ちも自然と軽くなる。 
 杏寿郎さんはおかえりなさいと口にする千寿郎くんの頭をくしゃりと撫でると、私を見た。
 
「どこも怪我はしていない!」
 
 あの一件以来、怪我があれば飛びつくように手当!手当!と喚くようになった私にいつからか杏寿郎さんは先手を打つようになった。

「ふふ、それは良かったです!今日はわらび餅を買いに行ったんです。ね、千寿郎くん」
「はい。兄上、食後に皆で食べましょう」  
「そうか!それは楽しみだな!」 
 
 夕飯の用意をしてきますね!と先を歩き始めた千寿郎くんの後ろを追う。「名前」そっとかけられた声に私は足を止めた。
 
「どうしましたか?」
「……いや、なんでもない」 
 
 杏寿郎さんはふ、と静かな笑みを零すと私の頭にその大きな手を置いて、ぽんぽんとあやすように優しく叩く。
 何もかも見抜かれているのではないかと思った。千寿郎くんがカーディガンを隠していたことも、今夜帰ることも、私の恋心も。
 その仕草に、その表情に、泣いてしまいそうになる。杏寿郎さんという存在に私の決心はいともたやすく揺さぶられていた。
 
 夕食のときに言おうと思っていたのに、楽しい雰囲気を壊したくないと理由をつけて言えなかった。ちらちらとこちらを伺う千寿郎くんの視線に気付かないふりをして、食器を洗った。
 後で言おう後で言おう。そうして先延ばしにしている間に、夜となり、空には月が浮かんでいた。私の気持ちを反映したかのように、相変わらず中途半端な形をした月だった。
 
 ぼんやりとしたまま、杏寿郎さんの部屋の前にいた。ノックをしようとして拳を上げては下ろす、という動作を繰り返す。
 なにも今夜帰らなくてもいいのではないか。カーディガンはもう私が持っているのだから、きっといつでも帰れるはず。
 そうしてまた上げた手を下ろしたとき、障子が開いた。
 
「いつまでそこに立っているつもりだ?」 
「あ……」  
 
 顔を出した杏寿郎さんはふと表情を緩め、「浮かない顔だな」と私の頬を優しく撫でた。
 
「その、杏寿郎さんの顔が見たくて。無事に帰ってこられたのだと、安心したくて。お疲れなのにごめんなさい」
「そうか。見ての通り元気そのものだ。安心できたか?」 
「……はい」
「そのわりには晴れないな」 
 
 両手で頬を包まれ、私は笑顔を作ってみせた。けれど、下手くそで、情けなくて、涙腺が緩む。
 だめだ。この人の顔を見ていると決心が鈍る。
 
「杏寿郎さん」
 
 でも、言わなきゃ。
 
「どうした」 
 
 言え。一思いに言ってしまえ。
 
「帰る宛、ついたんです」 
 
 水膜が眼球を覆う。瞬きができない。
 杏寿郎さんは一呼吸おいたあと、「そうか」と眉を下げ、微笑んだ。良かったな、と。  
 
「千寿郎も知っているのだな」
「はい。昨夜、話しました。槇寿郎さんには、折を見て千寿郎くんから伝えてくれると」 
「そうだな。それが賢明だろう」
 
 不格好な月と違って、綺麗なまん丸をした瞳が柔らかく細まる。ぎゅ、と肺が縮こまって、息をするのが辛くなった。 
 頬を包む大きな手に、自分の手を重ねた。優しくて、温かい。この手を離したくない。下瞼に溜まった涙が、堰を切ったように溢れ出す。 
 
「でもっ、わた、し」
 
 帰りたくない。あんなに帰りたくてしかたなかったのに、帰りたくなくなってしまった。千寿郎くんと話したときには覚悟が決まっていたのに。帰らなきゃいけないのに。私の居場所はここじゃないのに。全てわかっているのに、この人への想いが邪魔をする。
 こちらの時代に来てから、たった半年。杏寿郎さんと過ごした時間なんて、どれだけかき集めてもきっと一月にも満たないだろう。けれど、私の心に深く根付いてしまった。
 
「まだ、帰りたくっ、ない」 
 
 分厚い手が、私の手から逃げるように頬から肩に下りた。そのまま強く抱きしめて欲しい。なのに。杏寿郎さんは私の肩を後ろへ押した。反動で、左足が半歩下がる。

「一時の気の迷いで機を逃すな」
 
 きっと、私は縋るような目で彼を見ていた。あの夜に私が帰ることを惜しんだ杏寿郎さんなら、この気持ちをどうにかしてくれるんじゃないかって。引き留めてくれるんじゃないかって。なんて、甘い考えなんだろう。
 まだ、だなんて中途半端な言葉。今帰らなければ帰れなくなるのを感覚的にわかっているのに、猶予があるとでもいうような言い方。人生の岐路に立っているというのに、選択を彼に委ねて。その責任を背負わせようとしていた。
 
「名前。君のいるべき場所はここではない。それがわかっているだろう?」 
 
 杏寿郎さんは、私のためを思って真摯に向き合ってくれているのに。
 彼は正しい。その正しさが今は苦しいほど痛い。
 
「発つならばなるべく早いうちがいいが、今日はもう日も落ちている。夜の闇の中ではなにがあるかわからん。明日、日が昇る頃に発つと良い。いいな?」
 
 有無を言わせず話をまとめた杏寿郎さんの手が、肩からそっと離れた。きっと、明日旅立つときにはもう触れてくれない。なんとなく、そう思った。
 
「君のことだ。昨夜は眠れなかったのだろう、顔色が良くない。明日に備えて今日は早く寝るように」
    
 こくりと頷くと、杏寿郎さんは硬い表情を和らげた。「おやすみ」二人の間にあった敷居に沿って、杏寿郎さんが障子を引く。ここが閉じられたらもう、終わりだ。
 終わりたくなかった。
 
「……何をしている。指を挟んでしまうぞ」
 
 完全に閉じられてしまう前に、手を差し入れた。掛けていた指に少し力を込めると、障子は簡単に動いた。人一人通れるだけの隙間を開けて、私は敷居を跨いだ。後ろ手で障子をスライドさせる。ぱた、と木と木が打ち合う軽い音。私は自分の手で、退路を閉じた。
 杏寿郎さんは私の行動を止めようとはせず、ただ神妙な面持ちで見下ろしていた。

「……俺は君に教えなかったか。男の部屋で二人になってはならぬと」
 
 杏寿郎さんは静かにそう言ったけれど、言葉の端々に圧を感じた。
 大胆なことをしているのはわかっている。ストレスのかかった心臓が忙しなく動き、脈が早くなり汗がにじみ出て、呼吸が少し苦しくなった。

「わかっています。だから、わかっているから、大丈夫です。私は、自分で。全部自分で決めて、自分の責任で……残りたいと思っています」
「……一時の気の迷いでは済まない。おそらく、もう二度と元の場所に戻れなくなる」 
「それでも!それでも、私は、ここにいたいです。杏寿郎さんの、そばにいたい」 
 
 杏寿郎さんの無骨な指が、髪の間を通り、頬を撫でて私の顔を上に向かせた。さっきよりも一段階熱い掌。ぎゅ、と切なそうに寄せられた眉。大きな瞳いっぱいに熱が灯っていた。 
 
「本当は君を帰したくない。どこにも行かぬようこの腕で閉じ込めてしまいたいと、ずっと思っていた。それを堪えていたというのに」
「杏寿郎、さん」 
「……こんなことをされてしまえば、手放せなくなる」

 おずおずと、彼の背に手を回した。人々を守る背中は広くて、分厚くて、私の手じゃ回りきらない。それでも温かいこの熱を私だけのものにしたい。 
 力いっぱい抱きしめ返された。「今ならまだ、戻れる」耳元で、彼が優しく逃げ道を作ってくれた。でも、私はもう自分の行くべき道を決めた。自分で選んだ。退路は自分で塞いだ。
 
「私は、杏寿郎さんと生きたいです」
 
 目を覚ました真夜中、そっと布団から抜け出した。縁側まで歩く気怠い体は重く、どこにも飛んでいけそうになかった。夏の夜風が肌を冷やす。千寿郎くんが大切に保管してくれていたあのカーディガンに袖を通しても、きっともう帰れない。
 朝になったら、まだここにいる私を見て千寿郎くんは喜ぶだろうか。それとも責任を感じて泣くだろうか。どちらにしろ、私と千寿郎くんは抱き合って存在を確かめ合って、それから二人して朝食作りに励むのだろう。槇寿郎さんには、まだなにも伝えていないといい。
 
「泣いているのか」 
 
 背中から腕が回って、すっぽりと体が覆い尽くされる。そのあたたかさにそっと目を瞑る。
 夏の次は秋がきて、その次は冬がくる。荒れた肌を治す高保湿なクリームも、上質なウールもない冬を、私はまた乗り越えなければならない。
 それでもいい。
 
「ええ。幸せで」  
 
 さよなら、お父さん、お母さん。大嫌いで大好きな妹。友だち。便利な時代。私の人生の大半を過ごした世界。みんな、さよなら。
 私は、この人を選びます。
 
 
2021.11.1

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