もういいよ。

 そう言った彼女の凜とした声が今でも耳に残っている。最初から用意していたみたいにその言葉を発した彼女は、真っ直ぐに俺の目を見据えていた。だけど俺はその目を見ることができなかった。

「なんの話してるのかわかんねえ」

「わかるでしょう、おそ松」

 彼女から逃げるように煙草を手に取って立ち上がる。ベランダに出ようとして、彼女に腕を掴まれた。

「逃げないで」

「だ、から。なんのことかわかんねえって」

 思わず声が震えた。認めたくない。認められない。認めてしまえば最後、俺の元から彼女はいなくなる。そんなの耐えられない。

「…ねえ、おそ松。これで何回目?」

 違うんだ、俺は。

「また、浮気したでしょ」

 俺は、ただ、なまえに愛されてると実感したかっただけなんだ。

 最初は好奇心だった。俺が浮気をしたらどんな反応をするのか見てみたかっただけで、ただデートしてラブホに入っただけで手は出さなかった。それがばれた時、なまえは悲しそうに笑うだけで、俺を一度だって責めなかった。

 それが悲しかった。責めてほしかった。なんで浮気したの、私のこと好きじゃないの、やめてよ、って、そう言ってくれると思ってた。なまえは俺の事を好きじゃないのかもしれないとまで思った。だから責めてくれるまで何度も浮気した。愛されてると実感したかった。

 その内、手を出さないという俺の中の鉄則は破られて、手当たり次第に色んな女の子を抱くようになった。寂しかったんだ、なんて。そんなの都合のいい言い訳にしか聞こえないのはわかっていた。だけど、俺は寂しかった。泣いてすがってほしかった。

 ただ、ただそれだけだったのに。


「…おそ松。ねえ、別れよう」


 なあ、これは、俺が悪いのか?


「……嫌だ」

「もう無理だよ。別れよう」

「…嫌だって」

「なんで?おそ松は私のことどうでもいいから、好きじゃないから浮気したんでしょ?」

「ちげえよ!」

 なまえの言葉に思わず声を張り上げる。そんなこと思ってたなんて知らなかった。なまえこそ俺の事どうでもいいと思ってたんじゃねえの?好きじゃなかったんじゃねえの?だとしたら、俺は。

「じゃあ、なんで?」

「……なまえが、俺を浮気しても責めねえから…だから、」

「……そう。ごめんね、気付けなくて」

 静かななまえの声に、罪悪感で胸が押しつぶされそうになる。なんでなまえが謝るんだよ、悪いのは俺だろ、自分勝手に愛されたいとそればっかりで、なまえの気持ちなんて考えたこともなかったんだ。自分の幼稚さをまざまざと見せつけられた気がした。でも、それでも、俺はなまえが好きで、別れたくないと思った。このまま終わらせたくないんだ。

 立ちあがるなまえの腕を今度は俺が引っ張る。泣きそうな俺を見てもなまえの顔色は変わらない。それを見て、なまえの気持ちがもう俺にはないことに気付いた。だけど俺はそれでもいいからそばにいて欲しくて、すきで堪らなくて。

「別れたくない」

「私は別れたい」

「なまえが好きなんだよ…っ」

「そう…。でも、私は」

 お願いだから、頼むから。その先の言葉は言わないでほしかった。聞きたくなかった。胸が張り裂けそうに痛かった。

「おそ松のこと、もう好きじゃない」

 涙が出て、止まらなかった。


 思わず手の力が抜けた。それに気付いたなまえが俺の手を軽く振り払って歩き出す。そんななまえを止めようと必死だった。また腕を掴めば、強い力で振りほどかれる。それでも俺は縋り付いた。俺がなまえにしてほしかったみたいに、泣いて喚いて縋り付いた。

「…待てよっ」

「離して」

「なまえ…っ」

「しつこいよ、おそ松」

「ごめん、俺が悪かったから、だから別れるなんて言うなよ…っ」

「もういいって」

 うざったそうななまえ。だけど、そんなこと気にしている暇などないくらいに俺は必死だった。涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃで、ついに足にしがみつく。

 何度だって謝るから、なんでもするから。頼むよ、俺、俺。

「お前しかいないんだよ…っ、なまえ…っ!」

「さよなら」

 足にしがみついた俺の腕を思い切り蹴飛ばしたなまえが冷たい声でその言葉を吐いて玄関の扉を開ける。その腕には大きめの旅行バッグ。見慣れた後ろ姿がやけに遠くに見える。

「なまえ…っ!!」

 俺の最後の声は閉まりきった扉に阻まれて届かなかった。



「っ、ぁ、う、うぁ…っ、く、…っなまえ…っ」

 静かな部屋に俺の嗚咽が木霊して消えていく。どれだけ名前を呼んでも、泣いて謝っても、好きだと叫んでも、もうなまえは戻ってこなかった。


後悔先に立たず

#03/05/16