(3Z)
僕を蝕むは恋心
その時はまだ、彼の黒髪は肩に届くか届かないかの長さであり、彼の表情には少年のようなあどけなさが残っていた。
それでも、その黒髪は風に靡くたびに美しく煌めき、その瞳は凛として真っ直ぐ前を見据えていた。
二階職員室の窓から、教頭の罵声をBGMに、彼の姿を目で追った。
風に靡く黒髪、まるで何も映していないかのような黒い真っ直ぐな瞳。どれもこれも、自分のものとは正反対のそれ。
実に興味深かった。
あの視線の先にあるものは?あの瞳に映っているものは?
あの視線を、あの瞳を自分のほうに向かせるには?
汚れを知らないあの瞳に、自分の姿が映し出されたら、どんな心地がするのだろう。
始まりは、そんな好奇心。
***
「先生は、」
彼は言った。
「何?」
くわえていた煙草を指に移し、視線だけを彼に向ける。
彼は少し俯き、頬を染めて、えっと、だの、あの、だの呟いている。 俺は煙草を灰皿に押し付け、重い腰を上げた。
最近の国語準備室は殺風景だ。俺だけが使っていた頃には、ジャンプだの、カップラーメンの空だのと、随分とカラフルだったというのに。
それらは全て、きれいさっぱり片付けられてしまった。
誰に?だなんて、そんな野暮なことは聞かないように。
ソファーの、彼の隣に腰を下ろす。どっこいしょ、なんて言ったら、おじさんくさいです、と言われてしまった。
「おーおー言ってくれるねぇ。」
「だって、本当のことじゃないですか。」
彼は俺の方に視線を移すことはなく、どこか怒っているような、拗ねているような表情を浮かべている。
「じゃあ、そんなおじさんのこと労ってよ。」
彼の肩を抱き寄せる。彼は抗うことなく俺の腕の中に収まった。
それでも、視線は俺に向けてくれない。
彼の肩に乗せた手で、その長い黒髪をいじってみる。だが、すぐに俺の指からすり抜けてしまうそれ。羨ましい限りだ。
「…で、何?」
彼の髪に顔を埋めると、何だかいいにおいがした。
「…何がですか。」
「さっきの続き。気になるだろーが。」
とぼけようとしているらしいが、逃がす気はない。黒髪に頬ずりしながら、軽く髪を一束軽く掴む。
俺の考えを悟ったのか、彼は諦めたようにふう、と一息ついて、口を開いた。
「先生は、だらしないんです。」
「………は?」
思考が一瞬ショートした。これは予想外。何かこっぱずかしいことを言われるもんだと期待していたのに。
「部屋は片付けないし、授業中も煙草吸ってるし、白衣にアイロン掛けないし。」
俺の私生活におけるだらしなさを、ノートの箇条書きを読み上げるように語る彼。何だか少し、悲しくなった。
「ああ、きっと女の人にもだらしないですよね。僕は知らないですけど。」
そして付け足すようにそう言って、ふい、と顔を背けてしまった。
「…俺、何か怒るようなことしたっけ?」
全くもって記憶にないが、聞かなければ仕方がない。ましてや女絡みなんて、あるはずがない。彼と出会ってからは。
すると彼は、怒ってませんよ、と呟いた。
「先生は、だらしないんです。だらしなくて、なのに…」
背けた顔が少しだけこちらに戻ってくる。その頬は、先程よりも紅い。
「なのに、何で僕は、先生のこと好きなのかなって。」
気になったんです。
今日初めて、彼の瞳に俺が映る。映し出された俺の顔は、自分でも驚くほどの間抜け面だった。
髪を掴んでいた手は、いつの間にか放してしまっていた。その手で彼を自分のほうに引き寄せ、抱き締めた。
「そんなの、簡単だよ。」
「…そうなんですか?」
彼は全く身動きを取らない。されるがままとは正にこのこと。
「…知りたい?」
「…先生が知っているのなら。」
彼はそう言って息を吐き、静かに目を閉じた。
***
好奇心の赴くままに、俺は適当な名指しを装って彼を学級委員長に任命し、こき使ってやった。
たまに、仕事を手伝ったご褒美だとか言い訳をして、彼が好きだと言った蕎麦を奢ってやったりした。
最初は無表情だった彼の顔が、くるくると変わる様を見ているのは、実に面白かった。
彼の瞳に自分の姿が映っていることに、どこか優越感を覚えていた。
当初の目的は、すでに達成されたはずだった。
だがいつしか、それでは満足できなくなっていた。
彼が他の誰かと少し話しているのを見るだけで、イライラするようになってしまった。
彼にはあまり友達がいなかったので、教師としてそれは喜ばなければならないところだが、俺にはそれができなかった。
そして俺は自覚したのだ。しまった、と。
ハマってしまった、と。
今思えば、もしかしたら最初から俺は彼に墜ちていたのかもしれない。
二階職員室の窓から見ていただけの、あの頃からずっと。
そしてその数ヶ月後、彼は俺に告白してきたのだ。
あの日は本当に驚かされた。
***
「伝染ったんだよ。」
俺がそう言うと、彼はゆっくりと顔を上げた。
「伝染った…?」
彼は首を傾げる。まるで意味がわからないといった顔で、俺の目を見つめている。
ああ、駄目だよその上目遣い。反則。
彼の前髪を避け、そのきれいな額にキスをした。
「そう、伝染ったの。まだお前の髪が短かった頃から、お前のことがだーいすきだった俺の気持ちが。」
きっといやらしい笑みを浮かべていたんだろう。俺の顔を見ていた彼の顔は、みるみるうちに紅くなっていった。
彼が俺の胸に顔をうずめ、先生はばかです、と言った。
(銀桂webアンソロジー企画様に提出させていただいた小説)
(2009年6月26日〜2010年10月10日の企画だったので、書いたのかなり前ですね…)