それは俺がまだ幼くて、病気がちだった頃の出来事である。
 俺の部屋は、ベッドの右側に大きな窓が位置していた。ベッドに横たわった時には、そこから外を眺めるのが俺の日課だった。俺から見て左側に大きな木があり、右側には遠目に公園が見える。そこで遊ぶ自分と同じくらいの子供達を、俺はいつも羨ましがっていた。

 近所の小学校に入学してから、すぐに持病の喘息を悪化させて入院した。数ヶ月間の入院の末、なんとか体調を整えたものの、すでに周りの人間関係は出来上がっていた。それでも友達が一人も出来ないわけではなかった。だが、どうやら俺は少し人とずれているところがあるようで、どうにも周りと話が噛み合わないことに、幼いながらに歯痒さを感じていた。それは周りも同じであったようで、少しずつ周りから孤立していった。
 その後も数ヶ月に一度、短い入退院を繰り返していた。そんなことを数年続けてしまえば、幼いながらも出来上がっていく社会の縮図についていけるわけもなく、俺は教室の端でただ一人、本を読んで過ごすことが多くなった。
 どちらにしても、持病の喘息のお陰で、体育や外や体育館で走り回って遊ぶようなことは医者から禁止されていたので、俺はいつも隅の方で体育座りをして、クラスメイトが笑って走り回る姿を眺めることしか出来なかった。
 そのことで何度かからかわれた。お前はいつも本ばかり読んで変な奴だ。今日も体育の授業をさぼったのか。小学校三年生くらいになってから、そういう風に絡んでくる輩が多くなったように思う。やはり成長するにつれ、社会の縮図はよりリアルに変化していくのだ。強い者が上に立ち、弱い者はそれに付き従う。だが俺には、いわゆるその「強い者」が特に強いという風には見えなかった。徒党を組まなければ何も出来ない、ただの普通の小学生だ。
 相手にしなければ、髪を引っ張られた。女みたいで鬱陶しいとハサミを持ち出されたこともあった。俺はその度に魔法の言葉「先生に言いつけるぞ」を躊躇なく使った。それを言い放つと言葉を詰まらせて、弱虫め、と吐き捨てて去っていく連中の方が、よっぽど弱虫だと思った。だけど、それしか自分を守る方法を持たない俺自身は、すごく惨めだった。それは顔に出さないように、いつもすまし顔で本を読んでいた。

 それは時は経ち、小学五年生になったばかりのある日のことであった。
 その日は風邪をひいていた。前日までは高熱にうなされていたものの、朝には熱は微熱まで下がり、少し体力を持て余していたところであったが、母からちゃんと横になっていろときつく言われたので、しぶしぶ布団に潜り込んでいた。
 かなり回復して暇を持て余していた俺は、母の目を盗んで、まだ読み始めてすらいなかった本を本棚から取り出して、膝の上で開いた。本を読むのは好きだった。特に好きなのは、ヒーローのような主人公が悪党をやっつけて改心させるというような、そんなありがちな物語だった。そういった類の物語は、何度読んでも飽きなかった。生まれ付いての虚弱体質の俺は、強くてかっこいいヒーローに憧れていたのだ。
 膝の上に置いた本の表紙をしばらく眺めた後、それをめくろうとした時だった。窓から見える木に、何か大きなものの影を見た気がしたのだ。
 反射的にそちらを見ると、鬱蒼と生い茂る木の葉から、小さな足が生えていた。その足が履いているボロボロの靴は、自分と同じくらいの大きさだろうか。ふくらはぎが傷だらけで、枝に引っかかって更に傷を増やしているように見える。それでも構うことなく、見えない上半身はもぞもぞと謎の動きを止めることはない。どうやら、何かを探しているのか取ろうとしているようだ。
 俺は自然と膝の上の本をベッドの端に寄せ、布団から這い出ていた。窓の真正面に座り、その足の動きをただひたすらに凝視した。あれは一体誰だろう。期待に胸を膨らませながら、俺はその上半身が姿を現すのを待っていた。
 ぴたりと足の動きが止まる。俺は息を飲んだ。どうやら探し物が見つかったらしいと思った俺は、自然と身を乗り出す。誰だろう。うちのクラスのガキ大将じゃなければ良いな、なんてことを考えながら、俺は目を輝かせて、その足の一挙一動を見逃すことはなかった。
 葉の隙間から出てきたのは、やはり俺と同じくらいの少年だった。だが俺は、その少年の姿に目を丸くした。
 少年の髪は白銀とでも言えばいいのだろうか、とにかくそういう色をしていて、それは太陽に照らされてキラキラと輝いていた。少年の瞳は雪うさぎのような紅をしていて、まるで宝石のルビーのようだと思った。
 一言で言うと、綺麗な少年だった。物語にでも出てきそうなその外見は、俺の知っている狭い現実を凌駕したのだ。
 少年が俺の存在に気付く。驚いたようにその美しい目を見開いて、慌てて木から降りようとした。俺は窓を開いた。これもまた、脊髄反射的な動きだったと思う。
「待ってくれ!」
 俺がそう呼び止めると、少年はその動きをピタリと止めて、俺の方を見た。向けられたその視線に再び息を飲む。やはり美しい色だと思った。
「あ、あの、そこで何をしていたんだ?」
 いざ声を掛けると何を話したらいいのかわからず、俺はとりあえずそんなことを聞いてみた。少年は観察するように俺を見た後、手に持っていた紙のようなものを見せ付けるように前に出した。そこには赤ペンで大きく「20」と書かれていた。
「テスト。飛ばされたんだよ」
 堂々たる面持ちでそんなことを言った少年は、その点数に対して恥じらいも何もないようだ。小学校にはなかなかまともに通うことの出来ていない俺であったが、生来勉強は好きな方であった。両親の計らいで家庭教師に勉強を見てもらいつつ自分でも勉学に励んでいた。学校の授業には出られなくてもテストだけ家で受けさせてもらっていたが、そんな点数は取ったことがなかった。
「すごい点数だな」
 思わず正直な感想を述べてしまい、俺は焦った。初対面の者にそんなことを言っては失礼だと思って、違うんだ、などと意味の無い言い訳を試みたが、少年は特に動じることもなく、いつの間にか木の枝に腰を下ろして、鼻をほじっていた。
「いいんだよ。頭悪くたって、俺ァこうして生きてるんだから」
 鼻くそをぴんと弾いた少年の顔を、俺は目を丸くして見ていた。この辺りはいわゆるベッドタウンというやつで、この辺りの小学校に通う児童達の親というものは、よくいう「教育ママ」というやつが多かった。勉強こそ生きる術。そういう風潮が漂う中で、そんなことを言う少年に、俺はただ驚いていた。
 俺があまりにも凝視するものだから、少年は居心地が悪くなったらしく、もういい?と言って木から降りようとした。俺は慌ててその動作を止める。
「待って!待ってくれ!」
 少年は降りようとする動きを止めると、面倒くさそうに俺の方を向いた。その目がまるで死んだ魚のような目で、こいつは本当に子供なのだろうか、と疑いたくなるほどであった。以前読んだ本の中にこういう目をした中年男性がいたのを思い出して、思わず吹き出しそうになったが、何とか耐えた。
「何だよ。用があるなら早く言ってくんない?」
「えっと、その」
 口籠る俺の言葉を、少年は体勢を立て直して待っていた。まるで勝手を知っているように木の枝に座り、肘をついてこちらを見ている。その眼差しはやはり死んだ目をしていたが、なんとなく嫌な感じではなかった。
(こいつは、うちのクラスの奴らとは違う……)
 窓の淵を掴んで、言葉を探す。自分はこんなにも物事をはっきりと言えない男だっただろうか。いやそんなはずはない。クラスの奴らにはいつも言うべきことは言ってきた。
 しかし何故だろう。なかなか言葉が出てこない。こんな風に真っ直ぐに人に視線を向けられたのは、両親以来初めてのことだった。だからだろうか。少年の刺さるような視線が痛くて、だけど少し心地良かった。
「おい、いい加減に……」
「俺と!友達になってくれないか!」
 痺れを切らした少年の言葉を遮って、俺はそう叫んだ。言葉を発しかけた少年は口をぽかんと開いたまま、俺の声に驚いて固まっている。
 たった一言だ。この言葉を発するために、酷く体力を使った気がする。どっと身体の力が抜け、ゲホゲホと咳が出た。どうやら大きな声を出し過ぎたらしい。
「おい、大丈夫かよ?」
 少し慌てた様子で、少年が声を掛けてくる。大丈夫だと言いたかったが、咳がなかなか止まらなくて、声が出せなかった。急に外のひんやりした空気を吸ったせいだろう。そう予想はついたのだが、今はどうしても窓を閉めるわけにはいかないと思った。
 彼の返事を聞くまでは、閉めてはいけないと思った。
「……お前、具合悪いんだろ?なのに窓なんて開けたら寒いに決まってんじゃん」
「ゲホッ……お前が友達になってくれるって言ったら、閉める」
「何それ。俺に選択肢ないじゃん」
 手で口を覆いながら少年の顔を見ると、少年は仕方なさそうに口角を上げて、笑っていた。その表情に魅入られた。あんな表情を向けられたのは、生まれて始めてのことだった。両親を除けば、いつも見下されたような表情と、憐れむような表情しか向けられたことがない。だけど少年のその顔は、そのどちらとも取れぬものであった。あれだけしつこかった咳が、止まった。
「俺、坂田銀時。お前は?」
「桂……小太郎」
「桂ね。じゃあヅラだな」
 厭らしい笑顔を向けた少年――坂田銀時は、そう言うなり逃げるように木から滑り降りていった。俺は窓から身を乗り出して叫ぶ。
「ヅラじゃない!桂だー!」
 走り去る彼の後ろ姿を目で追っていた。銀時は俺の方を振り返ることはなかったが、恐らく俺に向けてであろう、大きく手を振ってくれた。あれだけ大きな声で叫んだのに、咳が出なかったのは久しぶりのことだった。
 銀時の後ろ姿が見えなくなっても、俺は窓から顔を出したままだった。買い物から帰宅した母にそれが見付かって、しこたま怒られたのは、まあ当然の話である。
 俺は胸が躍っていた。しかしそれと同時に不安でもあった。彼はまた来てくれるだろうか。風邪が治ったとしても、しばらくは自宅療養を医師に命ぜられている身なので、しばらくの間は、学校で銀時を探すことは出来ないのだ。
 もしまた来てくれたら何を質問しようか。母の説教を右から左へ受け流しながら、俺はそんなことを考えていた。



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