全ての講義が終わった後、友人への挨拶も程々に、辰馬は足早に帰路についた。
 辰馬の関心は、今朝目撃した一羽のカラスに全て注がれており、どうしても再びお目にかかりたいと思っていた。あの木の辺りを縄張りにしているのであれば、もし今日それが叶わなくても、いずれまた巡り会うことができると思った。
 それにしても、何故自分は大して珍しくもない鳥に、こんなにも固執しているのだろうか。例の木へと向かいながら、辰馬はふと疑問に思った。あのカラスの存在を思い起こしたとき、真っ先に浮かぶのはあの片目の傷だった。
 綺麗な直線だった。かなり古い傷のようにも見えたそれは、自然の中に生きる鳥には不釣合いであるように思えて仕方がなかった。先程銀時が言っていたように、自然とは人間の想像を遥かに凌駕するようなことが起きるもので――それは辰馬自身も達していた結論である――この疑問を解き明かすことは不可能であろうことは解っていたが、それでも辰馬はあの木へと行かないではいられなかった。まるで引き寄せられているような感覚である。それに抗うことなく進んでいく辰馬の足の動きは、速さを増すばかりであった。

 そこにカラスはいなかった。木の頂を見上げたり、周りをぐるりと回ってみたものの、カラスはおろか、小鳥の一羽すら留まってはいなかった。辰馬は少し落胆しつつも、相手は野生のカラスだ、そんなものだろうとも思った。
 ふう、と溜息をひとつ吐いて、木に凭れかかって空を見上げると、生い茂る葉やら枝やらの間から、青空が覗いていた。夏に足を突っ込んだこの季節は、太陽が長い時間空に居座るのだ。
 明日もまたここに来ようか。毎日この道を通っているのだからそうなるのは必然であるが、これまで何かを気に留めることのなかった道で、誰かと待ち合わせの約束でもしたかのような非日常に、微かに胸が躍ったのだ。

 一つの足音が響いたのは、辰馬が空を見上げてしばらく経ってからであった。どれ程の時間をそこで過ごしていたのかは定かではないが、人の足音を聴いたのはその瞬間だけだったように思う。ザッザッと規則正しく聴こえてきたその音は、辰馬の背後、すなわち木を挟んだ向こう側の辺りで止んだ。
 生来人懐こい――というより馴れ馴れしいと言ったほうが正しいかもしれない――性格の辰馬は、これも何かの縁だと一人で勝手に納得し、木の向こう側を覗き込んだ。その人は恐らく男で、辰馬より背が低かった。
「こんにちは」
 声をかけてみたが、反応はなかった。よく見るとその人は耳にイヤホンを付けており、そこから音が漏れている。大音量で音楽を聴いているのだろう、辰馬の声は聞こえなかったようだ。そこで諦めてしまえば良いものを、辰馬はより一層その人を振り向かせたくなった。
「こ・ん・に・ち・は!」
 イヤホン越しに耳元でそう叫ぶと、こんな至近距離で声をかけられるとは夢にも思わなかったであろうその人は、肩をびくりと跳ねさせた。怪訝そうな表情で辰馬の顔を見たその人はやはり男で、恐らく辰馬と同年代であり、左眼を眼帯で覆っていた。
「……何、アンタ」
 彼は仕方なさそうにイヤホンを外して、当然の疑問を投げかけた。外されたイヤホンからシャンシャンと音が漏れている。これはロックだろうか。少なくともクラシックではなさそうだ。微かに聴こえてくるその音楽は、なんとなく、目の前の彼に似合っているように思えた。
「いきなり声をかけてしもてすまんのう!けんどわし、怪しいもんじゃなか!」
「いきなり声かけてくる奴ほど怪しいもんはねェよ」
 苦笑いをした彼は身体を辰馬の方に向かせ、何の用だとその隻眼で訴えかけた。
「ここで何しちゅうのかなぁ思て」
「待ち合わせしてんだよ」
「ほうかー。待ち合わせかー」
「なんだよ。アンタだってそうだろ?」
「んー?まぁ、わしもそんなもんかのう」
 笑い声を上げる辰馬を、彼は何か不思議なものを見るような表情で見、首を傾げた。
「よくわかんねェけど、なんかいわくつきなの、ここ」
 葉の生い茂る木の頂に目を向けて、彼はそう言った。なるほどいわくつきか。自分の行動はそんな風に捉えられたことに、辰馬は目を丸くした。
「いんや、そんな怖いもんじゃなか。ただここに、綺麗なカラスが留まっとったというだけじゃ」
 彼と同じように木の頂に目を向ける。あのカラスが留まっていたのはあの辺りだったろうか、などと微かな記憶を辿りながら、優雅に羽繕いをしていたその姿に思いを馳せた。
 美しいと思ったのだ。カラスなんていう鳥は日頃から度々見掛けるもの。しかも見掛ける場所と言えばゴミ捨て場やら畑やらを荒らしている現場だったりして、あまり良い印象を与えない場合が殆どだというのに、あのカラスはそんなイメージを辰馬に思い起こさせなかった。まるで別の鳥を、否、全く別の生き物を見ているように感じたのだ。
「カラスに綺麗もくそもあるかよ。真っ黒でずる賢くて、俺はあまり好きじゃない」
 彼に語り掛けられたのは意外だった。それも、辰馬の話を受け止めた上での返答だった。辰馬は彼を見る。彼は変わらず木の頂を真っ直ぐに見つめていた。
「ひとつ、聞いてほしい話があるんじゃけど」
 目を輝かせた辰馬に、彼はひくりと口を引き攣らせた。


 ***


 昼間銀時に聞かせた話を彼にも話した。子供のようにはしゃぐ辰馬に彼が呆れ顔になっていたことに気付いてはいたが、辰馬は話すのを止めなかった。何故なら、彼が呆れながらも辰馬の話に耳を傾けていたからだ。うんざりとした表情をしながらも相槌を打ってくれている彼は、見た目より優しい男だと思った。
「そんな訳で、講義が終わってすぐにここに来たんじゃ!」
「……はー、すんげェ物好きだな、アンタ」
 やっと終わったかとでも言いたげな顔で、彼は溜息を吐いた。そんな反応に慣れていた辰馬は特に気に留めることなく、銀時にも投げかけた問いを彼にもぶつけた。
「それでの、カラスの目の傷がキレーな直線だったんじゃ。野良猫なんかを見ちょると、掻きむしったりとかしてあんな風にはならんと思うんじゃが、おんしはどがあ思う?」
 木に肩を凭れ掛けていた彼はその問いに眉をピクリと動かし、辰馬の目を一瞥した。当然、銀時が言ったような答えが返ってくると思っていた辰馬は、一瞬走ったぴりりとした空気に、無意識に背筋を伸ばした。
「さァ、なんでだろうな。たまたまそうなったのか、誰かがそうさせたのか。まァどっちにしても、なんでそうなったかはそのカラスしか知らねェだろうよ」
 風が吹いた。それはそよ風というには勢いがあり、強風というには穏やかだった。風に煽られ、彼の前髪がふわりと上がる。左眼を覆う眼帯が、その存在を主張した。

「高杉ー!」
 辰馬が声を発すその前に、誰かの声が聞こえた。彼は声の聞こえたほうに振り向くと、片手を上げて応じた。どうやら待ち合わせの相手が来たようだ。
「時間切れだな。いい暇つぶしになったよ」
 じゃ、と背を向けて立ち去ろうとする、今日初めて会った見ず知らずの彼。だけど、辰馬は言いようのない名残惜しさに、咄嗟に彼の手を取った。
「なあ!なあ!わしO大学の坂本辰馬ちいうんじゃけど、おんし名前何というがか!?どこの学校!?」
 必死の形相でそう言った辰馬に彼は目を丸くしていたが、何慌ててるんだと呟いて、呆れたように笑った。
「S大学の高杉晋助。縁があったらまた会おうや」
 彼――晋助――はそう言い残すと、辰馬の手を緩やかに解き、早く来いと催促する友人の元へと早足で向かって行った。晋助にそうさせる彼の友人に対し、もやもやとした薄黒い感情が芽生えたのに、辰馬は気付かなかった。
「またここで待ってるきにねー!」
 大声で叫び、ちぎれんばかりに手を振った。肩を揺らして驚き振り向いた晋助はまた、呆れたように笑った。


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