よくある話だろう。入学式とか、学科で初めて行う飲み会なんかで、その場の雰囲気で連絡先を交換すること。そしてその連絡先は卒業まで一度も使われることなく、アドレス変更を報告しなかったり、もう使わないだろうと消去してしまうことなんて、よくある話だろう。
 彼と自分はそんな関係。講義室や廊下ですれ違う度に、おはよう、ばいばい。それだけの言葉を交わす関係。同じ学科の学生であるというだけで特別遊んだりすることもなく、このまま時が過ぎて卒業すれば、ある時ふと増え過ぎた携帯電話の電話帳を目の当たりにし、整理と称してその連絡先を真っ先に消去するだろう。
 坂本と自分の関係を、高杉はその程度のものだと思っていた。


 坂本と高杉が連絡先を交換したのは、まさに大学に入学してから数日後に開催された学科の飲み会であった。
 ビール一杯で見事に酔っ払い、へらへらと笑いながら人から人へと渡り歩く坂本の手には、ビールのジョッキと携帯電話。赤外線通信なんていう便利なものが最近の世の中には出回っていて、いかにも機械に弱そうな坂本でもその便利機能はとりあえず使うことが出来るらしく、一人一人と携帯電話を向かい合わせて連絡先を交換している。
 テーブルの端に座る高杉は決してその席から動こうとはせず、隣に座る適当な同期と他愛ない会話を交えながら、ビールを飲み、煙草を吸う。煙草はマルボロ。特にメンソールが入ったものが好きだった。
 坂本が高杉の元へやって来た頃には彼はすっかり出来上がっていて、真っ赤な顔に酒の臭いを纏いながら、よりだらしない顔をしてへらへらと笑っていた。
「これからもよろしくのう、高杉」
 ああ、名前知ってたんだ。胸の内で高杉は思う。特に会話を交わしたこともない相手の顔と名前を覚えるなんてこと、高杉はしようとも思わない。
 よろしく。周りの雑音に掻き消されそうなくらいの声量でそう言えば、坂本は聞こえたのか、はたまた口の動きでそれを読み取ったのか、ふにゃりと目尻を下げて笑う。ビールのジョッキを差し出されて、高杉も手近にあったチューハイのグラスを手に取った。ガラスのぶつかり合う音は微かに耳に届いて、二人は中の酒を一気に飲み干した。


 それ以降、坂本とは会話らしい会話をしていない。
 ビールを飲み干した坂本はどうやら吐き気をもよおしたらしく、手で口を覆いながら便所へと駆け出して行き、そのまま戻ってはこなかった。坂本があと少しだけ酒に強ければその時に会話らしい会話が出来たかもしれないが、高杉は坂本に対して別段興味があったわけではないので、そのまま関わることなく大学生活を送っている。
 それでも、唐突に耳に入ってくるあの笑い声に、振り向かないわけではない。
 坂本はいつも笑っている。でかい図体にでかい声。彼がやって来るやいなや、それまで静かだった講義室は一気に賑やかになる。うるさいと言っても過言ではない。
 だけど不思議なことに、それは決して不快なものではないのだ。
 電車や街中で聞こえてくる男子高生集団の笑い声なんかはやたらと耳に障るのだが、坂本の笑い声に舌を打ちたくなるような感情を抱いたことはない。
 坂本の性格が幸いしているのかもしれない。どうやら坂本は何でもかんでも馬鹿正直に受け止める性格のようで、時には嘘すらも受け止めて騙されることもあるらしい。遊びの誘いにはいつだって喜んで応じている。頼まれごとは基本的に断らない。この男は身体がいくつあるのだろう。そんな疑問すら持たれることも少なくはないようだ。
 坂本は嫌な笑い方をしない。可笑しいから笑う。嬉しいから笑う。ただそれだけの単純な男。人間誰しも裏の感情があるものだと高杉は思っていたが、坂本にはそれは見えない。それに関しては小さな興味を抱いていたが、ただの単純馬鹿なのだろうと思ってしまえばそれまでである。
 坂本と自分は全く違う人種なのだ。住む世界が違うと言っても過言ではないくらいに、坂本の持つ性質と自分のそれは大分かけ離れている。人の輪の中心で笑っている坂本と、輪の外にいる自分。きっかけを失った以上、これから関わることはほとんどないだろう。
 高杉は鞄から教科書を取り出し机に放る。軽く叩きつけられた教科書はばさりと音を立てたが、あの笑い声が響き渡る講義室の雑音にすらならなかった。


◆◆◆


 ひとしきり夜遊びを楽しんで友人と別れた後、高杉は駅の喫煙コーナーで煙草を吸っていた。普段なら自分の他に一人二人、くたびれたサラリーマンあたりがここで煙草を吸っているのだが、今日は偶然にも高杉一人だった。もう夜も遅いからだろうか。携帯電話を開いて時間を確認すると、終電の時間はとうに過ぎていた。
 高杉のアパートはここから一駅。歩いて帰れない距離ではない。雨が降っているわけでもないので、この一本を吸い終わったら歩いて帰ろう。そんなことをぼんやりと考えながら、煙草を指で軽く弾いて灰を落とした。
 この駅の喫煙コーナーはまるでガラスの箱のようで、その中で煙を燻らすと、外から見るとまるで毒ガスの充満した処刑場のようだ。いつかこの煙に殺されるかもしれないと思いながらも、吸うことを止められないのはどうしてだろう。落ち着くから?口が寂しいから?あるいはその両方か。
 吸い始めた理由なんて覚えていない。むしろ理由なんてなかったのかもしれない。気が付いたら吸うようになっていて、最早抜け出そうとも思わなくなっている。ガラスの箱の中に自ら足を踏み入れて、さながら毒ガスのような煙を吸い込んでいても、決して被虐的思考を持っているわけではない。
 この煙が旨いと思う瞬間がある。それだけのためにこの非力な麻薬もどきに火を付けるのである。
 すっかり短くなった煙草を、僅かに水が浸っている灰皿の中に放る。じゅ、と音を立てて火が消えたところを見届けた後、高杉はガラスの扉を開いた。


 一週間ほど前までは毎夜毎夜熱帯夜が続いたというのに、茹だるような暑さはいつの間にか影を潜めていた。頬を撫でる風は涼しく、鳴くのはセミから鈴虫へと交代したようだ。
 このまま次第に寒くなって冬になり、今度は暖かくなって春が来て、暑くなったと思ったらそれは夏だ。その間に数少ない友人達と酒を飲み、馬鹿騒ぎをする。そんな代わり映えのない一年を数度繰り返して、大学生活は終わっていくのだろう。まだ始まったばかりだというのに、高杉は既に終わりを見据えていた。
 一際強い風が吹いて、高杉の身体はぶるりと震えた。昼間は暑かったものだから上着なんか持ってきていなくて、半袖のシャツから伸びる腕に、ぽつぽつと鳥肌が立つ。ジーパンのポケットに手を突っ込むと、少しだけ温かくなった気がした。
 その手に振動を感じた。それが右のポケットに入っていた携帯電話の振動だということに気付くのにそう時間はかからなかった。
 腕時計を見ると既に一時を回っていた。こんな時間に誰だと高杉は眉間にしわを寄せる。共に夜遊びをする者はあっても、電話をかけてくる者に心当たりはなかった。
 先程別れた友人だろうか。もしかしたら無くし物があったのかもしれない。ぐだぐだと考えてる間にも携帯電話は鳴り続いていて、さすがに出なければと思い、ポケットからそれを取り出した。
 折り畳まれた携帯電話を開いて、高杉は目を丸くした。着信画面に見慣れぬ名前が表示されていたからだ。
「坂本……?」
 そこに表示されていたのは、一度たりとも使うことはないだろうと思っていた、坂本の名前と電話番号であった。
 歩みを進めていたはずの足はいつの間にか動きを止め、高杉は鳴り続ける携帯電話を凝視している。坂本が一体何故、こんな非常識な時間に、ほとんど話したこともないような自分に電話を掛けてくるのか。高杉には理解できなかった。電話は変わらず鳴り続ける。そういえば留守番電話を設定していなかった。
 間違い電話かもしれない。坂本はあの日、自分以外にも多くの同級生と連絡先を交換していた。例えば酒の席で、仲の良い同級生を呼び出すための電話をけているだとか。もしくは、何かの非常事態なのかもしれない。最近は物騒だ。坂本のような男が誰かの恨みを買うなんてことはなかなか想像できないが、ひったくりとか、通り魔とか、無差別な犯罪の被害になら巻き込まれてもおかしくはない。
 高杉は通話ボタンを親指で押す。ゆっくりとした動作で携帯電話を耳に当てると、その向こう側は異様なまでに静かだった。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -