『あのこと体液を交換しました』
「3.141592653 58979323846 2643383279……」
病室で寝ていた照美が突然口を開いて円周率を呪文の様に呟いた。
「――5028841971 6939937510 5820974944……」
「もういいよ、照美」
「……」
照美の声を遮る様に俺は口を開けた。
「ねぇ、僕はもう……僕じゃないのかな?」
その問いに俺は少しの間を開けて答えた。
「いや、照美は照美だよ」
「……そう、よかった」
全身を包帯で包まれて、怖い程に綺麗な瞳は片方隠されてしまっている。
照美は、自分で自分の体を傷つけた。
寂しくて、寂しくて……。
辛くて、悲しくて、怖くて、寂しくて。
深すぎる傷を付けたんだ。
――――……
『ねぇ、ヘラ。人間は死んだらどうなるの?』
ある日照美が聞いた。
『死ぬって、どんなんだろう?』
『さあ……それは俺も死んだ事はないからなぁ……』
『ちょっと興味があるんだ』
照美は少しだけ切なそうに笑った。
なんだ。そうか。
あの日からだったのか。
照美が、狂ったのは……。
「ヘラ、僕もう行かなくちゃ」
あの日の事を思い出していた時、照美が言った。
弱った体をフラフラと起こしながら。
“どこへ? ”
“あの子がいる所まで”
歩いて行く照美を俺は追いかけた。
気づかれない様に。
とても、心配だったから。
照美は広い病院をぴたぴたぴたぴた、と歩き回る。
同じ所を何度も何度も。
たまに後ろを振り向く素振りを見せてほくそ笑む。
まるで、俺が付いて来てる事を知ってるかの様に。
照美がエレベーターに乗った。
エレベーターは下に向かっていたので俺は階段で一階に下りた。
「くそ……っ」
予想通り俺は照美を見失った。
俺は怖かったんだ。
アイツが遠くを見つめる視線が。
そして何より、照美の苦しみを分かってあげれずに 何もしてやれないで
また 照美を 失いかける事が。
しばらく病院のロビーを彷徨っていると、俺は広い病院で迷子になった。
暗い廊下を歩いて、歩いて歩いて……
やっと光が差して見慣れた場所に来た。
迷子になってる間に随分と時間が経ったみたいだ。
俺はすぐに照美の病室に戻った。
「あれ? ヘラどこに行ってたの?」
何もなかったかの様な顔で俺に言った。
「俺は……お前を探しに行って……、」
「……え?」
俺の言葉を聞いて、驚いた様な顔をすると、今度は顔を手で隠してクスクスと笑い出した。
「フフ……やだなぁヘラ……。僕はずっと、ここにいたよ?」
「照美……?」
顔を隠した手が少し赤い事に気が付いた。
「お前、その手……」
「あ、え…? なんだろう…血…?」
照美は驚いた様に自分の両手を見つめた。
「歩いたから、傷が開いたんだ」
「ヘラそれ、本気で言ってるの?」
“僕はずっとここいた”
繰り返すように照美は言った。
俺がさっき照美が出て行った事を話そうとした瞬間……――
「あの、面会時間過ぎてるんですけど……」
「ああ……すいません」
看護士が入って来て言った。
「……じゃあ、明日また来るから」
「うん。気を付けてね」
照美は笑ってた。
アイツはたまに狂ったかの様に鋭い目つきになって
全然笑わなくなる。
いわゆる、二重人格になってしまったのだ、と俺はすぐに分かった。
自分で自分の胸に刃物を突き刺して、入院してから。
儚げで、どこか遠くを見つめる。
死んだ魚の様な目で。
かと思えば、少し時間が経つと
再生ボタンを押したみたいに突然笑い出す。
なんだか、俺の知らない人みたいで怖かった。
次の日の朝、
土曜日だった為、俺はいつもより早く照美の所に行きたかったがつい寝坊をしてしまい、着いたのは昼の三時だった。
「照美!」
「…………」
照美は俺の顔を見るとじっと見つめて目を見開くとこう告げた。
「……照、美?」
「……来ないで」
「え……?」
照美は暴れた。
枕を投げつけて、腕に繋がれた点滴を振り回して。
「来ないで……っ!!」
また、変な人格が何か変な妄想をしたのだろう。
それが照美を怖がらせているんだろう。
俺は震える照美を抱きしめた。
「……ヘラ?」
「どうした?」
「君がさっき、僕にした事覚えてないの?」
照美が言った。
震える瞳で。
「俺は今来たんだぞ……?」
「お昼に来たじゃないか……それで、僕を脅して無理矢理……っ!」
“被害者妄想”“現実”
“知らない”“真実”
“二重人格”“誰が? ”
……誰、が?
必死に助けを求める照美。
見たな、どこかで。
どこで? ここで
いつ? お昼過ぎ
その時何してた? 寝ていたはず…。
「……なんだ、俺か……俺の方だったのか……」
二重人格だったのは。
今までおかしくなったと思ってた照美は普通で、
おかしくなってたのは俺だったんだ…。
PM:3時14分
「時間だ……行こう、照美」
まだまだ……実験は成功していない。
二つのベッドに二人並んで寝ころんでる。
「それでは始めます」
俺の可愛いあのこ。
お前を求め過ぎたから。
俺をお前に全部あげる。
お前は俺に全てを捧げればいい。
あのこを傷つけたのは、結局自分だった。
一人が怖かった。
思い出す。一人。
…あのこの体液を交換しました。
(2012.10.06)
忘却様に参加させて頂きました。