『鳴かない猫』

 どうもこの世界で呼吸をする者全てが同じ重さの心臓が動いているみたいだ。
 ならば、争いや凶悪な犯罪はなぜ起こるのだろうか。
 いや、やめよう。これ以上ここでたった一人の人間が考えていても仕方がないのだから。

 友人からオスの仔猫を預かった。
 どこかの小説家じゃないが、名前はまだないらしい。

 この仔猫は可哀想な事に、母親と暮らしていたのだ。
 何が可哀想かって?
 それは目に見えて分るだろう。人間の勝手な事情で母親から引き離されたのだ。

 この子は僕の所に来たと同時に『乳飲み仔』から『孤児』になったのだ。

 しかし、その仔猫は鳴かない。
 人間という異物の僕に全く恐れを持たずに近寄り、手をかざすと舐めたりした。

「……さみしくないのかい?」

 仔猫は返事をしなかった。
 僕は悲しくなってその場に横になり眠ることにした。
 すると、仔猫は僕に近寄って体を丸めて目を閉じた。潰れそうに小さな体は、隣にいると少し恐れもある。
 だけど、なんて愛しいのだろう。
 この子の母親は今頃、鳴いているだろう。こんなにも愛しいこの子を突然失くしたのだから。

 命がけで、僕が守ってあげないと。
 仔猫の体を撫でてる間に微かに残るミルクの匂いがしてうんと眠くなり目を閉じたらその後は朝まで起きることは無かった。

 朝、電話の音がして目を覚ました。

「もしもし…どうしたの、ヘラ」

 電話の相手はこの子の母親の飼い主だった。

『おはよう、照美。 仔猫はどう?』
「…別に、普通」
『そうか…母親は昨日、一晩中鳴いてたよ』

 電話の向こうではつい先日まで恋人だった男が微かに笑ってた。

「…返してあげたら? なんだか、居た堪れないよ」

 そう、呟いたとき彼が言った。

『いいんだ。 その子はちょっと連れて行けないから』

 ヘラは仕事でこの地から離れ、遠くに行くらしい。前にそう話していた。
 僕に寂しい思いはさせられないからと、別れを告げたのも彼だった。

「いつ帰って来るんだっけ?」
『それは、分らないな』
「気をつけてね」
『ああ』

 電話越しに身支度をする音がした。

「約束…忘れないでね」
『…うん。 じゃあもう行くよ』

 電話を切ろうとした時、初めて仔猫が一つ鳴き声を上げた。

「……? それじゃあ…また」

 静かに電話は切れた。

「寂しいの?」

 一人、仔猫に問いかけた。
 相変わらず返事をしないソイツから目を離し意味なく部屋を見渡した。
 そこで目に飛び込んだのは窓辺に置いた、枯れてしまったサボテンだった。

 一か月前まで雄々しく伸びてた棘は今はしなやかになってしまっていた。
 それは間違いなくこの手が、僕が、あやめてしなったんだ。

 そんなサボテンを見ていたら急に怖くなった。
 僕は、この小さな命を守れるのだろうか?

 神様なんてもの存在しない。
 いたとしても見えやしないなら、祈りもしない。
 例え僕がこの子を守れと神に願ってもどうせ気付かないふりをされるだけ。

 ならば、僕が生きている限り精一杯の愛情でこの子を守ろう。


 仔猫が来てから半年たった。
 仕事から帰ると餌を待って台所に座る。
 こんなに愛しいものなんだな、って少し意外だった。

 何にもしてくれなくたって、そばにいてくれるだけで嬉しかった。
 こんなにも僕が誰かを愛せるのは、きっとヘラがいたからだ、なんて思った。
 親に満足に愛してもらえなかった僕に一番最初に愛を教えてくれた人。

 彼とした約束はよく覚えてた。

『帰ったら、また一緒に暮らそう』

 何年先かは分らないと彼は言った。それを僕はいつまでも待ってると、伝えた。

 そんな風に彼の事を考えていつの間にか眠っていたのだろう。
 今は少し大きくなったこの子が来た朝の様に電話の音で目が覚めた。

「もしもし」
『亜風炉 照美様でしょうか?』

 電話の向こうからは聞きなれない声がした。

「そうですけど…」
『警察ですが』

 急な警察からの電話に驚いていると警察が続けた。

『平良 貞さんの事は知ってますか?』
「…はい」

 次に聞いた言葉を理解できずに僕はその場に座り込んだ。

 何もかもがあの日と変わらない朝だった。
 唯一違うのは僕の腕に傷が増えていたことぐらいで、この日も同じ様に何の変哲もない一日を、この子と送るんだと思ってた。





 葬式の朝、変わり果てた彼を一目見た後誰にも見られない場所で泣いた。

 後から聞いた話で、平良が仕事で失敗して職を失い新しい仕事を探していた事がわかった。
 しかし中々決まらず、僕に迷惑は掛けまいと遠くに出張と嘘を付いて別れを切り出した事も分った。
 平良の両手には猫の亡きがらもあったらしい。

 もちろん、もう約束は果たされそうにないや。

 一人で泣いていると思い込んでいた僕の顔を覗いたのは愛しい僕の家族。
 仔猫だった猫はお腹に新しい命を授かっていた。

「にゃあー」

 大きく泣いた猫が僕の足にすり寄った。
 そうだ。悲しいのは僕だけじゃない。この子だって母親を失ったんだと気付いた。

 抱き上げた猫の体温は暖かく僕を少し癒してくれた。



 すっかり墓石に埋まった恋人と母親の前で僕たちは泣かなかった。だって泣いたら、お互いを傷つけてしまうから。

 「ねえ平良…。 この子は本当はね…女の子だったんだよ。 知らなかったでしょう?」

 もう君には、聞こえて無いだろう。
 
 僕は宝物の僕の家族と共にそこを後にした。




(2013/8/20)





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