変わった女だ、と常々思っていた。自分がその細道に誘った人間で、畏に呑まれなかった者はいない中、この女だけは自分を畏れることもましてや怖れることもなく、ただその場に佇んでいた。
そのくせ細道からは逃れることも出来ず、しかし鋏は刃が立たず、未だに顔と胴体はくっついたままである。
何故なのか、良くは解らないがとにかくその女は自分が今まで捕らえた人間とは一線を画していた。





彼の外套の下の女たちが今日もまた陰鬱な泣き声を上げている。彼が畏を得るために捕らえたらしく、その畏、とやらが彼を形作ると言っても強ち間違いではないらしいが、自分には良く解らない話だった。ただ、細く泣き呻くその声が今日は酷く耳について煩かった。
下手をすればその泣き声を上げていたのは自分だったかも知れない。彼の領域において、顔のある生きた人間は自分だけだった。
ここはいつも夕闇に包まれている、と社への石段を登りながら思う。連れてこられてからというもの空腹を感じることが無いので、時間の感覚もない。石段の向こうの薄暗い雑木林にふと目をやれば人間の脚がはみ出ている。黒いハイソックスに包まれたそれは恐らく自分とそう変わらない年頃の少女のもので、既に腐敗が始まっているのか濁った色の斑点が浮き出ていたが特に恐怖は感じなかった。ああ、また誰かを連れてきたんだな、そうぼんやりと思った。もう人間としての正常な感覚もこの異常な空間に麻痺してしまったらしい。

古びた社は怪談の舞台に相応しい雰囲気を持つが、名無子は彼の領域に囚われて以来ずっとここを使っていた。観音開きの本堂の扉は重く、しかも外鍵が付いていた。彼が人間を連れ込む時、名無子はここに閉じ込められる。だから、人間の顔を切り取る場面は一度も見たことがない。
埃臭い本堂に足を踏み入れると、突然血腥い風が吹き込んで体が床に叩き付けられた。一瞬何が起こったのか判らず呆然と倒れ込み、体に感じた衝撃に顔が歪む。一拍おいて顔を掠めて床を貫いた巨大な錆びた金属は血に濡れていて、衝撃で飛んだ飛沫が顔にかかって鉄の臭いをさせた。
金属は所謂巨大な鋏で、その刃の中で体を捻って持ち主を見上げれば、彼は口元にいつもの笑みを浮かべていた。


「…つくづく不思議でありマス、
何故お前は小生を怖れない?」


見れば鋭い筈の鋏は刃の部分が定規のように平らで、鋏としての役割を為していない。曰くこれは名無子に対してだけらしく、普段は鋭利な鋏だという。
爛れた皮膚を包帯で覆い、白眼の多い血走った眼と人間のものではない牙を持つ彼は本来であれば恐怖の対象である。まして禍々しい鋏を持っていれば尚更だった。


「……」

「小生を怖れないなら、連れてきた意味がない」

「じゃあ、家に帰してよ」


彼の返答は解っている。今こう言って帰してくれるようなら、とっくに名無子は細道から逃れられる筈だった。


「帰すわけねえだろ、
ここはとおりゃんせの細道でありマス」

「……」


ふう、と諦め気味に息を吐けばとおりゃんせはその巨大な金属塊を床から引き抜いた。


「変な女でありマス。小生が欲しいのはもっと恐怖に歪んだ、哀れな顔」

「うん」

「お前は口では帰りたいと言っても、全然必死でないでありマス」


それに関しては自分でもどうしようも出来ない。帰りたいというのは本心なのだが、他の少女達のように泣き叫ぶ程には心が動かないのだ。仮に名無子が泣き叫んでいたとすれば彼は嬉々として鋏を突き立てただろうから、図らずもその淡白な態度が自分を生かしているとも言える。


「お前がこのまま畏に呑まれないのなら始末されるかもなあ、もっとえげつない奴に」


そう言いながら、床に押し付けられていた名無子に手を延べる。自分で鋏を突き立てておきながら、律儀に助け起こしてくれるのか。しかしそう思ったのも束の間で、名無子は半ば持ち上げられながら腕を抜けるほど強く引かれた。


「った!」

「始末、されても良いでありマスか?」

「…いや、だ」


そうでありマシょう、と呟いた声はどこか穏やかに低い。腕を掴まれたまま、背中に手を回され彼に引き寄せられる形で立たされる。


「お前を始末するのは小生でありマス」

「……」


憮然として睨めば、彼はその視線を受け止めてにやりと口角を上げた。
視線を下に落として逸らせば、外套の間に白い顔を見付けて肌が粟立った。そこにいるのは彼が切り取った少女達だということは解っていたが、彼女達は一様に名無子を怨めしげに見上げていた。
ひ、と喉の奥でひきつった声が漏れる。


「小生のことは畏れないくせに、小生の女達は畏ろしいでありマスか」

「あ……」


その怨みを含んだ視線のせいか、顔だけになったせいなのか少女達は人間であったとは到底思えなかった。彼は興味深げに名無子と外套の中を見比べる。


(何故この娘は生かされているの?)

(私たちと何が違うの)

(早く、あなたも殺されてしまえば良いのに)


少女達は口々に呪詛のような言葉を紡ぐ。自分が既に死んでいて、この細道から逃れようもないこと、眼前に同じ年頃の名無子が生きていること、それらが相まって深い絶望を生んでいる。生への執着と名無子への嫉妬は簡単には断ち切れないようだった。


「違うのに、私のせいじゃない…」


力なく呟いた声は少女達に届いたのか定かではない。名無子が身を引けば外套が翻され少女達の顔は遠ざかる。


「どうせなら小生を怖れろ」


眼前の出来事に構わず彼が口を開く。その無頓着な態度に図らずも救われた気分になって、密かに息を吐いた。
この男こそが全ての元凶であるのに、救われた気分というのも妙ではあったが事実だった。
無頓着、に見えた彼は改めて見上げると僅かに不機嫌そうに眉根を寄せているように見える。余程自分が畏れられないのが不愉快なのか、しかし彼の感情を知る術を名無子は持たない。
表情を歪めたまま突き放すように名無子の肩を解放して、立て付けの悪い扉が閉められた。がたん、と盛大な音を立てて錠が下ろされる。
その行為を訝む間もなく、薄暗い本堂にも幽かにあの唄が聞こえたので名無子は安堵した。

また外套の下の顔が増えるだけなのだ。
既にそんなことでは心は動かなくなっている。





――随分と、遅い。

しかも先刻から聞こえるこの剣戟の音は何だろう。それに被さる男の怒声は、彼のものではないそれは、何だろう。
少女の悲鳴と彼の哄笑しか聞こえる筈もないこの細道に、異常な事態が起こっているのは明白だった。
胸騒ぎと形容するには余りにもはっきりと嫌な予感がした。不安を通り越して最早恐怖に苛まれ、名無子は半ば体当りをするように何とか外に出ようとする。重い錠は開く筈もなく、徒に打ち付けた体だけが悲鳴を上げる。
この恐怖は自分の身に関わる恐怖ではなかった。恐らく彼と争っているのはそうしている以上自分にとって敵という立場ではないと考えるのが妥当であり、それならば名無子はここに蹲り救出を待つだけで良い。
しかし名無子が救出されることは彼の敗北を、即ち彼の死を意味している。それが何故か酷く恐ろしくて堪らない。
頭がぐるぐると混乱して、訳が分からない。どうして彼の身を案じているのか、それより彼は無事なのだろうか、早くいつものように帰って来てこの扉を開けて欲しい、そうしたら今日ばかりは彼に抱き付くだろう。
多重人格のように脈絡もなく理性的であり混乱してもいる考えを巡らす。体を打ち付ける痛みは既に考えの中にはなく、しかし痛みに報いるように扉に僅かに隙間が出来て夕陽が薄明るく本堂を照らした。
そうして出来た隙間から息を詰めて外を覗けば、何か黒い布の塊が蹲っている。そこから投げ出された長い脚、何かに濡れて鈍く光る軍靴、転がったあれはきっと軍帽で、ただ広がる赤黒い水溜まりだけが異常だった。あとは全て嫌というほど見慣れたものである。


「―――あ、」


叫ぶべき名前も知らないまま、倒れた彼から目を逸らすことが出来ない。頭の何処かが急に冴えて、隙間から錠としての板を撥ね飛ばす。意外にもあっさりと壊れた錠、いかれた蝶番のせいで一人でに開く扉、それらのためにはっきりとその蹲る人影が見えた。
足がすくむ。駆け寄りたい、その人影は確かに彼だった。がくがくと膝が笑い、崩れ落ちそうになるのを叱咤して、無理矢理足を踏み出し、転びそうになりながらも何とか辿り着いた彼の元はやはり血の海だった。
無造作に散った長い黒髪に足をとられるように傍らに跪く。膝がぬるりとした生温い液体に触れた。大きく上下する肩、荒い呼吸、未だ流れ続ける血。それらが彼の生を物語っているが、それもいつまでなのだろう。
名無子に気付いたのか、呻きを漏らしながら彼が上体を捻って視界に名無子を探した。爛れた皮膚もそれを覆う包帯も血を吸って深紅に染まっている。


「……どうして、」


血走った眼と荒い呼吸、それでも上がっている口角に思わず詰め寄る。馬鹿なのか、何故笑うのだろう。
名無子の問いには何も応えず、彼はただゆっくりとした動作で手を伸ばした。制服の袖口を掴み、自分に引き寄せようとする動作に名無子は従う。制服が血を吸うのも構わない。彼の腕の中に収まれば自分が彼に覆い被さっているようにも錯覚した。


「……我ながら、間抜けな話でありマス、」


本当、と相槌はせめて強気にと思ったが、声が震えていた。本当に間抜けだ、どうしてこんなことに。


「…なんで、こんなになってるの?
いつもは帰って来る、のに!どうして!!」

「小生の為に怒って、いるでありマス、か?
…お前には嫌われて、いると思ってた、でありマスが」


歪んだ笑みを浮かべて、それでも何処か安堵したように彼が微笑う。嫌われている、そんな彼の言葉が空々しく響いた。


「少し、遅かった、…」


そう呟いて彼は名無子の首に手を回す。鉄の臭気に濡れて液体が伝う。
引き寄せられるまま、名無子の唇が塞がれた。彼の唇は吐血したためか血の味がした。差し入れられた舌、それを伝って流れ込んで来る血の塊。噎せながら飲み下せば、一層掴まれた肩に力が篭る。
互いが空気を求めてゆっくりと唇を離す。


「今更、でありマスが、小生は貴女、のこと、が、」


徐々に断続的になる言葉に耳を傾けても、咽の鳴る音と呼気に掻き消されたそれは名無子の耳には届かない。

小生が消えても……、語られ続けて欲しいねえ、
とおりゃんせの、怪…

辛うじて聞き取れた言葉と共に、体を拘束していた腕が力なく地に投げ出された。
名無子は呆然と眼前の男を――男であった亡骸を眺める。その手を握るうちに、靄がかかったような頭が急に答えを導きだして、連動して塩辛い液体が頬を伝った。
口付けられた口内の血の味が確信に導く。

――私は、彼のことが好きだったんだ。

外套の下の少女達を疎ましく思ったのは、「小生の女」と称される彼女らに嫉妬していたから。彼を怖れなかったのは、恐怖よりも思慕が勝っていたから。細道から逃れられなかったのは彼が自分を捕らえていたのではなく、自分が出ていこうとしなかったから。
遅かった、と言った言葉がやっと実感を持って響く。気付くのが遅過ぎた、後悔は痛い程の静寂と共に胸を貫いて、彼の前では一度も見せたことのない涙が溢れて頬を滑り落ちた。
嗚咽しか聞こえない中、急にあの旋律が流れてきて名無子は一瞬ありもしない期待を抱く。しかしそれは只の機械音で、気が付けば拐われて以来の交差点に座り込んでいた。制服を染めていた血は跡形もなく、あの細道であったことがまるで白昼夢だったかのような錯覚に陥る。唯一、残った血の味だけが白昼夢でなかったことを物語っていたので、名無子は彼の最期に呟いた言葉を思い出し、暮れていく空に目をやった。
私が彼を忘れなかったら、彼はいつか帰ってくるのだろうか。

待っていても、良いのだろうか。





――本当に変わった女だ。
小生の為に泣く、のか、小生は畏ではなく、貴女が欲しかったのだから、本望だ。
それでも、出来るならばまだ貴女の側に在りたかった。

それが叶わないならせめて、貴女への妄執を断ち切って欲しい。

それならばこの身は救われるのだろうか。