「圓潮さん」

「ん?」


青蛙亭の楽屋は広く、和菓子も常に用意されている。それは圓潮の噺家としての才故か、百物語組の一員としての役割の重さ故かは解らないが、とにかくここは居心地が良かった。
圓潮もそれを享受して饅頭を食べている。名無子は急須に湯を足して、ちらりと高価そうな菓子折に目をやる。


「生八つ橋、貰ってもいいですか?」

「ああ、いいよ」


にこり、人の良い笑みを浮かべて圓潮は湯呑みを手にとった。


「持って帰っても良いからね、
どうせ一人じゃあ食べきれない」

「ありがとうございます、では遠慮なく頂きますね」


流石噺家と言うべきか、圓潮の声は耳に心地好い。低すぎず高すぎず、落ち着いた男声は噺に――もとい怪談によってその声音を変える。


「食べたら、今日は帰っても良いよ」

「あれ、今日って夜の公演あったんですか?」

「新作が出来たからねえ。早く広めてしまわないと」


新作、とは川越の細道の怪談のことだろう。童謡と共に人間を細道に誘い、閉じ込めてしまうという。この手の怪談はすぐに面白半分に噂になるため、彼の仕事は幾分楽だろうと思った。
さて、と圓潮は立ち上がる。


「そろそろ行ってくるよ、お茶ありがとうね」

「あ、いえ。いつもご馳走さまです」


名無子が茶を淹れて、二人で差し入れを食べるというのは既に習慣だったが、圓潮は礼を欠かしたことがない。
良いひとだなあ、優しいし、下っ端の自分にも対等に接してくれるし、
そう後ろ姿を眺めながら、ぼんやりと思った。彼に抱く感情を恋慕と呼ぶには少しささやか過ぎると思いつつも、それに似た感情であることは間違いないと思う。
そう意識しているからか、最近気が付いたことがある。

私、圓潮さんに名前を呼ばれたことがない、かも。

考え過ぎか、しかし名前を呼ばれたことがないのは確かで、名無子は少し気鬱になった。
高望みかも知れないが、圓潮に自分の名前を呼んでほしい。名無子、と呼んでほしい。こうして楽屋にいる時点で名前を呼ぶことと同等の特別扱いである筈だが、名無子はそれに拘った。
そう考え始めた自分は既に自分が思う以上に圓潮を慕っているのかも知れない。

溜め息が一つ、流れた。




――溜め息が一つ、流れた。


「それは本当かい?」

「あ、ええ。自分は名前を呼んで貰えない、と」

「………ああ、全くあの娘は……」


圓潮は頭を抱えた。常に飄々として余裕のある彼には珍しく、眉間には皺が刻まれている。
鏡斎は筆を走らせながら、ちらりとその様子を見た。大袈裟な動作の割に、口元が緩んでいるように見えるのは自分の気のせいだろうか。


「…圓潮サン、本当は楽しんでません?」

「なんだいそれは。あの娘を焦らしてると、そういうことかい?」

「いや、圓潮サンだって名無子の気持ちに気付かない程鈍かないでしょう、
わざとやってんのかな、と」

「あのねえ。あたしは、そういう駆け引きめいたことはしようと思わないよ」


柳田じゃあるまいし、と呟いた彼は嘘を吐いている様子ではない。名無子に慕われている、という状況をまんざらでもなく思っているのは確かなようで、纏う雰囲気は穏やかだった。
人当たりの良いように見えて実は一番腹の底が探れない彼にしては珍しい。


「じゃア、なんで名前を呼んでやらないんです」

「う…ん、杞憂だとは思うけどねえ…、」


怖いんだよ。そう言って口元に象った笑みは些か堅い。怖いのはどちらだ、と鏡斎は僅かに背筋の冷える思いがする。


「ほら、あたしは"口"な訳だろう?
あの娘の名前を呼んだら、色々と念が入ってしまう。下手したら、怪談にでもなってしまうかも知れないからねえ。
そこまで行かなくても、あの娘を巧く操りそうになる」

「……まあ分かるんですが、些か考えすぎ、って気もしますけどね。
要は名無子が大事、てことですか」

「まあ、そういうことなんだろうね」


鏡斎は息を吐く。こうして互いに互いのことを自分に相談したり愚痴ったりするのは、結局好意の裏返しだったという訳だ。圓潮も一体何を思ってそうするのかと思えば、要は自分の感情を制御していただけで、寧ろ名無子には好意的らしい。それが過ぎると感情が能力と結び付いてしまう、ということだろう。分からなくもなかった。それにしても、


(全く、二人共臆病なことだ)


鏡斎は苦笑して、鬱々とした名無子の様子を思い出した。あれもこの圓潮の言葉を知ったらどんなにか喜ぶだろう。


「圓潮サン。別に名無子なら操られたって嫌がりません、名前を呼んでやってください」

「嫌がんない、て」

「結果的に、てことです。名無子は圓潮サンが好きなんだからいいんですよ。多分」

「……へえ?あたしの自惚れじゃあなかったか」


圓潮はやっと口角を上げて、ふと息を吐いた。いつも貼り付いたような笑顔を浮かべる彼が、こんな風な表情を見せるのは珍しい。彼もまた、一人の懸想する男だということだろう。


「そうですよ。次に会ったら呼んでみたらどうです?」


全く、世話の焼ける二人だ。





圓潮が楽屋に入って来たので、姿勢を正して迎える。いつもよりも足取りが軽く思えるのは気のせいだろうか。


「圓潮さん、お疲れ様です」


それはいつも通りの口上で、しかし圓潮は明るく笑んだ。光を映さない闇色の瞳が名無子を見据えて、鼓動がやけにはっきりと聞こえる。


「名無子、」

「え?」


思わず間の抜けた声が漏れた。名無子、彼はその通る良い声でそう言わなかっただろうか。幻聴の類ではない、だって彼は、


「名無子?どうしたんだい、」


こんなにもはっきりと。


「いえあの、名前…」


ああ、と圓潮は呟いた。初めて名前を呼ばれたことに驚き、意外な程に嬉しく思う自分にまた驚く。顔が赤くなっているのではと思い、取り繕うために俯いた。


「えっと、何でもないです。お茶淹れますね」


立ち上がろうとすると、何故か体が動かない。金縛りにあったようにどうすることも出来ず、その名無子の様子を見て圓潮はやっぱりか、と呟く。何やら不穏な表情であった。


「圓潮さん、あの……」

「動けないかい?悪いね、そういうつもりじゃあなかった筈だけれど。
いや、そういうつもりだったなあ…」


圓潮は自己完結して自嘲気味に笑ったので、困惑して問う。


「それは、どういう…」

「何でもないよ。それより、あたしが名前を呼ばないせいで、気を悪くしたようだ。……済まなかったね」

「い、いえ!圓潮さんが謝ることではないんです!
…え?そんなこと誰から聞いたんですか」

「鏡斎だけれども」

「……」


訊くまでもなくそうだろう、名無子は鏡斎にこっそり打ち明けたのだから。それが失策であった。彼は口は堅い方だと思っていたのだが、まさか裏切られるとは思いもしなかった。
圓潮はにこにこ、というよりはにやにやと笑んでいる。羞恥と申し訳なさに顔に熱が上った。


「あの馬鹿…」

「まあ、彼の気遣いなんだ。そう責めないでやんなさい」

「圓潮さんが、そう言うなら…」


気遣い、という言葉が解せないが、渋々名無子は引き下がった。


「ところで名無子、前々から言おうと思ってはいたけれど、この際だから聞いてくれないかい」

「はい」

「あたしの側にいて欲しいんだ」


それは唐突な言葉だった。どういう意味合いですか、とは訊けず。圓潮が珍しくはにかんで微笑むのも、纏う雰囲気が妖怪らしからぬ穏やかなものであるのも、好きに解釈しても良いのだろうか。感情の読み取れない瞳を恨めしく思う。
ああ、そんな風に。そんな風に言われたら、身の程も知らず自惚れてしまうというのに。


「私も、」


そうさせたのはあなただ。名前だけではなく、更に欲張っても構わないだろうか。私も、あなたの側にいたいのだと。