玄関に掛けられた月暦の今週の真ん中の数字は赤い。その下には細かな字で祝日の名が記されていた。

ここに出入りする人――人と呼称するには些か語弊がある――は、その永い生を享受することもなく大概の人間よりも忙しなく働いているように思われる。当主のはっきりしていないこの組を実質纏めている彼ですら休日らしい休日を送らない。

その中で何もせず安穏と日々を送るのはさすがに気が引けたので、名無子はお茶汲みやら掃除などを言い遣って過ごしている。
例によって今日は玄関を掃いていたのだが、いつもより履き物が一つ多かった。
下駄の並ぶ中にはそぐわない、丈の僅かに長い革の靴である。
丈夫そうなそれもよく見ればかなり酷使されて古びているが、それを差し引いてもこの靴と持ち主は不釣り合いだった。


「いつもご苦労様」


不意に聞こえた声に振り返れば、その持ち主が立っていた。


「あ、柳田さん。こんにちは」


こんにちは、と返し靴を履くために屈んだ柳田の動きに合わせてりん、と鈴が鳴る。

柳田は噺を集めるため各地を飛び回り、時には野宿もする。交通手段のない山奥でも徒歩で分け入る。だからこんな靴が必要なのだろう。

しかしこの人の佇まいからは想像が出来ない。
唯一それらしいのはこの靴だけなのだが、柳田の細身の体躯や陽に灼けた様子もない白い膚はそういったことからは遠い人のような印象を受ける。


「柳田さん」

「何哉」

「噺を集めるのって、大変ではないですか?」


名無子の問いに柳田は不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに口の端を上げて答えた。


「そんなことはないよ。だって、ボクは耳なのだから」


それに、こうして噺を集めることが山ン本さんの復活に繋がるんだから、寧ろ早く出掛けたい位だよ。

そう言って柳田はその端正な顔で微笑んだ。
そういう復活に直接関わるような仕事には彼の一部だった者しか携わらないので、名無子にはさほど縁の無い話である。彼等が何を思い行動するのかなど、近いようで遠いもののように気にしたこともなかったので柳田のその考え方は新鮮だった。


「そうなんですか……」


さて、と呟いて立ち上がった柳田はやはり男にしては線が細い。


「そろそろボクは行くよ」

「噺を集めに、ですか」

「ああ」


それでも彼は三百年間ずっと、こうして働いて来たのだ。それは山ン本の耳の役目を担う彼にとって、人の何倍もの時を生きる彼にとっては当たり前なのかも知れないが、今更ながら名無子はその果てしなさをやっと思った。


「お気をつけて。――あの、」


ちらと月暦の赤い数字に目をやり、名無子は柳田に向き直った。


「いつもお疲れ様です」


ありがとう、と言う彼は名無子の真意には気付かないだろう。
人間が今日を祝日と定めるずっと前から、彼は一見不釣り合いな仕事を当たり前のようにこなして来たのだ。
それでも――、と名無子はまた月暦の小さな文字を見た。

労う、というのは僭越かも知れないが、それでも今日位は誰かが彼等のこなす仕事が如何に大変なのか、それを気に掛ける人がいても良いのではないかと思うのだ。