いろいろと無頓着なこの画師は、四季の流れにすら関心がないのか暖房機具を出してこない。
おかげで室内にいるというのにまるで庭にでも立っているかのような寒さである。


「炬燵とかないの」

「見ての通りだ。寒いならもっと厚着して来るんだな」

「信じらんない……よく平気で居られるね?」

「あー……」


生返事をして紙に向かい始めた鏡斎は、名無子がいくら寒いと訴えようが自分には関係無いと言いたげに筆を走らせる。無論名無子の憮然とした表情には気付く筈もない。

生憎と名無子はただ鏡斎の描いた絵を引き取りに来ただけで、長居する気も風邪をひく気もないのだ。
加えて空気は乾燥していて、唇が渇き腫れたように痛む。


「ねえ、お茶淹れて良い?乾燥して唇が痛くて」


ん、と筆を止めて鏡斎は此方を見やる。一旦何か描き出したら滅多に手を休めない彼にしては珍しい反応で、案外あまり集中していなかったのかも知れない。
ちらと名無子の唇に目をやって、その口に薄く笑みを象った。


「確かに腫れてんな、下唇」

「でしょ」

「……名無子、ちょっと此方来な」


何故、とは思ったが招かれるままに鏡斎の側に寄れば、肩を掴まれて更に引き寄せられる。
首を辿り後頭部に手を回され、防ぐ間もなく唇を塞がれた。
押し当てられた彼の唇は離れ、一瞬の間の後に再びやって来た。

下唇に鋭い痛みが走る。

歯をたてられて表面はぷつりと裂け、小さく赤い珠を作った。それはすぐに揺らいで赤い雫となり、顎に緋色の筋を滑らせる。
痛みの原因である鏡斎から半ば突き飛ばすように距離をとれば、彼はぺろりと自分の唇についた血を舐めとった。


「……すっごく、痛いんだけど」


名無子のじっとりとした視線と非難の言葉は鏡斎には届かなかったらしい。反省の色もなくにやりと口の端を吊り上げて、満足気にする。


「赤、似合うな」

「はあ!?人の唇喰い破っておいて何を」

「今度から紅ひいたらどうだ」

「ちょっと人の話聞いてんの」


血の滴る下唇を拭えばぴりぴりと痺れるような痛みに顔が歪む。

鏡斎はやはりそれには構わずに紙に向き直って、筆を動かし始めた。心なしかその横顔は先刻よりも幾分か生き生きとして見えた。一旦それに没頭し始めた鏡斎にこれ以上抗議する気力も失せて、溜め息をひとつ吐いて大人しく完成を待つ。


「なあ名無子」

「何」

「おかげで、良いもん描けそうだ」


筆を動かしながら鏡斎は唐突にそう言った。一瞬拍子抜けして言葉に詰まったが、普段よりも多い完成品として積まれた紙を見れば確かにその言葉に偽りはないらしい。

それはどうも、と呟いて膝を抱えて座れば、僅かに寒さが和らいだ気がした。