「恋愛、とは何なんだ?」
「――…は」
突然の問いに間抜けな声が出た。この同僚の価値観が少し周囲とはずれていて、電波と呼ばれる類の輩であることは重々承知の上なのだが、こういう質問を真顔でされると狼狽えてしまう。
真顔になった彼は見惚れるほど綺麗な顔をしていて、青い双眸は淀みなくこちらを見据えるからかも知れない。
名無子に限っていえば、彼に憧憬を抱いているせいもある。
「どう思う、名無子」
璧に瑕といえば、こちらのこんな感情にも気付かずにこんな質問をしてくることか。
それも彼らしいといえば彼らしいのだが。
「不思議だと思わないか?恋愛なんて、相手を慕うという名目でただ相手を独占したいだけではないか」
「何、突然…」
「ふと思い当たったのだ。
恋愛感情など、独占欲、もっといえば性欲が長じたものではないかと」
「せ――……」
しょうけらの綺麗な唇が紡いだ言葉が妙に耳に残って、頬に熱が上る。意識し過ぎているのは分かっている、そのせいで自分が欲求不満のようにすら感じる。そう思わせる位何の気負いもなく、しょうけらはその言葉を口にした。
――これが、仮にも女子に言う言葉か、この無自覚似非神父!!
後ろめたさを振り払う為に、心の中で罵倒する。
しかしそれは裏を返せば、自分が恋愛対象として見られていないということのような気がした。同時に自分の彼に対する感情を否定されたような、無論彼はそれに気付いている筈もないのだが、そんな気さえして不覚にも悲しくなった。
好きな人とキスをしたり、またそれ以上を望むのはただの性欲だというのか。そんな身も蓋もない言い方をしなくても良いだろう。少なくとも名無子は、恋愛感情がそれだけのものだとは思っていない。それに彼のいう恋愛感情は、ほんの少し身に覚えがあって耳が痛い。
こうなったら、彼の持論を詳しく聞いてやろう、そして反論してやろうかと思う。
「相手を抱きたい、そんな感情を恋愛などという高尚な言葉で飾っただけだ」
「…ともかく、何でそんな極論に至ったの」
「………」
立て板に水というように話し続けていたくせに、しょうけらは突然黙り込んだ。
何の迷いも一片の後ろめたさも感じさせなかった彼は、初めて目を逸らして眉根を寄せた。居心地悪そうにする理由も見当がつかないので、やはり読めないひとだと思う。
「……私にそれを訊くのか」
「はあ、…だってそんなに熱弁する理由が判らないから」
「そんなものはどうでも良いだろう?」
「良くない!責任とって言いなさい!」
「私が名無子の何に責任をとるというのだ…身に覚えがないのだが」
確かにしょうけらには、彼の持論によって名無子がほんの少し傷心だなどということは知る由もない。
しかしこの際、そんなことはどうでも良い。八つ当たりに近いのは分かっているが、しょうけらが何故こんな見解なのか知らなくては、名無子はずっと報われないという気がした。
半ば睨みながら視線を逸らさずにいれば、根負けしたのかしょうけらが溜め息を吐いた。
「…私は神に懺悔しなくてはいけない」
「何でそうなるの」
「何故、だと?
私自身がそうだからだ」
「私自身――、って」
「…最初は、純粋な好意だった筈だ」
「え?」
「慕う相手の幸せの為なら自分に出来得ることを何でもしたいと思っていた。それで喜んでくれたなら、もし心が私に傾いてくれたなら幸せだと。
しかし最近はそうではない。今すぐに自分のものにしたい、そんな衝動に憑かれて好意というのがどんなものだったかすら忘れてしまった」
「しょうけら」
いきなり真剣な表情になり――先刻までも当人にとってみれば至って真剣だったのだろうが、名無子の受けとり方の問題のようだった――、口を挟む隙もなく話し始めたしょうけらは、果たして名無子に向けて話しているのだろうか。心なしか独白のようにも聞こえる。
それよりも、まるで苦しんでいるかのような、思い人でもいるかのようなこの口調はどういうことなのだろう。
「こんな感情を恋心というのか?純粋に慕うことも出来ず、まるで自分の性欲を満たす為に相手を欲するような、
そんな汚い感情を、恋心と呼ぶのか?
だとしたらあまりに申し訳ない」
「好きな娘が、いるの」
「…ああ」
そう、と呟くのがやっとだった。自分は今、大層無様な表情をしていることだろう。心をざっくりと斬られたような痛みがして、鼻の奥がつんとする。
こんなにも、しょうけらに好きな人がいることが辛くて痛いのだとは思わなかった。こんな形で、自分がしょうけらのことを思っていた以上に好きなのだとは知りたくなかった。
そして、彼の好きな人は幸せだとぼんやりと考えた。彼はそれほど、恋愛感情について突き詰めて考え悩む程真剣にその娘を慕っている。
そうやって悩むこと自体が純粋な恋心である、そう名無子は思う。けれどしょうけらに言いたくはない。彼の葛藤に答えを出して、背を押してやることなど出来そうにない。慕う相手の幸せの為なら自分に出来得ることを何でもしたいと思っていた、そうしょうけらは言ったが、名無子にはそれすら出来ない。しょうけらの幸せがその娘と結ばれることなら、それは確実に自分にとっての幸せではない。その娘に嫉妬し、名無子の気持ちに気付かないしょうけらを八つ当たりのように恨み、次第に当初の感情など判らなくなっていくのが容易に想像出来る。
彼の持論でいくならば、自分の方が彼の何倍汚い恋心を抱いていることだろう。
しょうけらの輪郭がぼやけて、視界が水に閉ざされる。この水が溢れたなら彼は困惑するだろうから、早く立ち去りたいと思った。こんな状態の自分に、しょうけらにとって救いとなるような言葉が見つかる筈もない。寧ろ酷い言葉を吐いてしまいそうだった。何事にも真剣に傾倒する彼を欺くような、そんなことをしても自己嫌悪に陥るだけで何の意味もない。
それすらも自分の見栄の為にそう理由付けたに過ぎない。
顔を見せないように彼に背を向ければ背後で驚いたようにした気がしたが、それに構わず立ち上がった。
「名無子?」
「ごめん、もう帰る」
かけられた声の響きに、発した声があまりに湿っぽいことに自分でも驚く。
こんなの、間接的に失恋して感情的に立ち去るという一番晒したくなかったみっともない姿ではないか。
もうしょうけらとは今までのような関係ではいられないんだろうな。ああ最悪、恋愛云々言い出した馬鹿はどこのどいつだっけ。
自分の情緒不安定なことの責任転嫁に他ならないことを考えて、そんな自分が酷く汚く思えた。
「待て」
不意に掴まれた腕に、思わず息が止まる。白い手袋越しの体温、掴む手の力強さに思わず振り返れば、しょうけらの瞳には余裕の色はなかった。ただ切迫した困惑が渦巻いている。
「何故、泣いているんだ」
こんな醜態を晒したのだからいい加減彼もこの感情に気付いたと思ったのだが、どうやらまだ解らないらしい。
その脱力感も手伝って、揺らぐ視界が膨れて頬を生温い水滴が伝う。鮮明になった視界の中、しょうけらが僅かに眉根を寄せ目を細めるのが映った。
「判らない…」
「……すまない、傷付けてしまったのか」
「違う、そうじゃない。私が勝手に、」
どうして今更、戸惑いも呆れもせず優しい声をかけてくれるのか。何故、詫びるのか。しょうけらに名無子に詫びる理由はない。名無子が勝手に立ち去ろうとして、彼を困らせているだけなのだ。
それともこれが涙というものの効果だろうか。別段慕う相手でなくとも、異性の涙というものは気を引けるのか。柄にもなく、図らずも泣くことでしょうけらの気持ちを向けさせている自分が気持ち悪く卑怯だと思った。
「…お願い、離して」
「嫌だ」
また水が溢れた視界はぼやけ、しょうけらの表情が揺らいでよく見えない。嫌だと撥ね付けた語調の鋭さだけが鼓膜を打った。けれど一見拒絶の言葉に聞こえるそれは、名無子を見棄てるという意志がないことを示している。
醜態を晒しているという羞恥と、彼の意識が自分に向いていることに対する嬉しさとが混濁して、頬を液体が次々に濡らす。しょうけらが苦し気に何かに苛まれているような表情をした。
不意に掴まれた腕を引き寄せられて、彼の腕が身体に回される。驚きに跳ねた身体を押さえ付け捉えるようにその腕に力が籠った。
「…そういうことは、好きな人以外にはしない方が良いと思う」
「ならば、何の問題もない」
「な、んで」
「私が好きなのは名無子だから」
絞り出すような囁きが耳を擽り、予期せぬ事態に一瞬唖然とした。
恋愛感情は性欲の延長、自分もその例外ではないと先刻しょうけらは言わなかっただろうか。それが申し訳ないと項垂れ、苦し気に好きな人がいると呟いた彼の行為は、全て名無子に向けられたものだったというのか。
全ての会話が、自分がとった態度の全てが鮮明に蘇って顔が熱くなる。実は報われていたのだと嬉しく思ったが、あまりの衝撃にいまいち現実味が湧いてこない。
「え……、嘘、」
「本当だ」
返答からは一時も惜しいというような焦燥が感じられる。銀の髪が名無子の肩にかかり、そのまま前に流れる。耳朶の辺り、首筋に顔を埋めるようにしてしょうけらは溜め息を吐いた。温かな吐息を諸に膚に受けて、ぞくりと奇妙な感情が背筋を上る。
「こんな話をしておいて何だが…、名無子がどう思うのか知りたかったのだ」
「恋心は、その……性欲だとかいう話に?」
「ああ。もしも名無子が私の気持ちを受け取ってくれたとして、いずれ私はそういう感情を抱かずにはいられない――
…最初から今日は告白する気でいた。けれど名無子が泣くから」
「そう、だったの…」
名無子は安堵も喜びも驚きも通り越して、体から力が抜けていくのを感じた。遅れて、猛烈な恥ずかしさに頬に熱が上るのを感じた。
今まで自分は彼の何を見ていたのだろう。私の感情に気付いてくれないと彼の鈍さを恨んだが、そんなことを思える筋合いではないではないか。お互いがお互いに相手の心は自分にはないと思い込み、勝手に沈んでいただけだったのだ。
「だって、てっきり好きな人がいるのかと思って…」
「だからそれが名無子だ、案外鈍いのだな…」
「…鈍いとか、しょうけらにだけは言われたくないわ」
彼に鈍いと詰られるのは甘んじて受け止めるが、彼の感情も分かり難過ぎる。そして恋心の仄めかし方の方向が可笑しくはないか。普通、好きな人相手に恋心の定義を否定的に熱弁するだろうか、いやしないだろう。
けれど、彼が"普通"という範疇に収まらないのは承知していた筈だ。そのズレた所も含めて、自分はしょうけらという人を好きになったのだ。
(それに、あんなに真剣に悩んでくれた)
「私に言われたくない?何が」
「だって十分鈍いもの、今まで全然気付かなかったなんてさ」
「名無子、それは」
「私もしょうけらが好き、ずっと前から」
彼の腕の中に収まる形になっているので、その表情は見えない。不意にその腕が緩められ、くるりと向かい合わせになった彼の青い双眸が僅かに見開かれている。
「それは、本当、なのか?」
「こんなこと冗談で言わないよ」
「――ならば私達は、互いに随分と遠回りをしていたのだな…」
「うん、…ほんとにね」
「けれど良いのか名無子、私はお前を傷付けるかも知れない。
大切に思うだけでなく、もっと……その、先刻言ったようなことを色々したい、と思うから」
「それは、好きな人とならそうしたいっていうのは普通なんだと思う、
少なくとも私はそうだから」
それにそういう形で好意を再確認する、っていう意味合いもあると思うけど。
そう呟いてから急に気恥ずかしくなって下を向けば、しょうけらは名無子の頬に触れて上を向かせた。安堵したように微笑んだその端正な顔は思ったよりも近く、心臓が跳ねる。
「良かった、名無子…」
好きだ。そう呟いて背中に回した腕に力を込めたしょうけらの胸板は広く逞しく、その言葉と密着した体の両方に心臓が煩く騒ぎ出す。
実は頬に触れられた時に、次は唇が触れ合うことを期待したことは一旦黙っておこうと思った。
このひとは案外純粋で、恋心は所詮何のと宣いながらもロマンチストなことを名無子は知っている。