白い月がぼんやりと杯に影を落とす。花弁のようにも見えるそれごと杯を煽って、小さく息を吐いた友人の朱唇が弧を描いた。


「美味しい」


名無子も李酒の口当たりの良さと友人の飲みっぷりにつられて杯を傾けてはいたが、果実酒とはいえ人間のものではないそれは並の酒よりも強い。流石に手は止まりつつあった。


「あら、名無子はもう限界?」


「だって、もう結構飲んだよ」


そうかもねえ、と普段より間延びしたような返事をした珠三郎は酔っているのかいないのか、微笑んで再び杯を煽った。杯に付いた紅を舐めとり、紅が無くとも十分に赤い唇が李酒に濡れて光る。

中性的な横顔を白く月が照らす。三百年たっても変わらない美しい膚には僅かに赤味がさして、やはり酔っているようにも見えた。
思わず見惚れていると、視線を感じたのか珠三郎は振り向く。一瞬の後、す、とその顔から笑みが消えて名無子は少なからず狼狽えた。

青の双眸が静かな光を湛えている。


「あら、…ちょっと、酔ってるんじゃない?」


珠三郎はそう言って、杯を持たない方の手で名無子の頬をなぞる。たじろいではは、と笑うことしか出来ない名無子の輪郭を辿った指は硬く長く、どこかしら細身の男の指に思える。
それをいえばすらりと伸びた背丈もあまり曲線を描かない体の線も、切れ長の目も見ようによっては男のようにも見える。

珠三郎に関してはそれが中性的な美貌として均衡がとれていたから、今まで気に留めなかったのだ。しかしこうして真顔になった珠三郎は一層性別が分かり難い。


「どうしたの珠ちゃん」

「ええ?何が?」

「なんか……いつもと違うような?酔ってるの?」

「ふうん……、そう見えるの」


くすくすと楽しげに笑い声を圧し殺して、指先が離れていった。気心の知れた友人である筈なのに、不意に感じる違和感に胸が騒ぐ。それが何故かは名無子にも分からなかったが、気後れのようなものを感じてさりげなく身を引いた。


「名無子、」

「うわ、何、何」


珠三郎は名無子の自分から遠い方の肩に手を回して、凭れるように体重を預けた。その姿は男にはない色香を漂わせ、当惑しながらもああやはり女なのだ、と先程感じたことを打ち消す。


「夜風が冷たいわ」

「え…、うん?そうだね」

「あたしちょっと寒いかも」

「え、ああそう、お酒飲んだからあんまり分かんないや」

「あら、何て顔してるのよ。飲み過ぎて具合でも悪いの?」

「ううん……そういう訳じゃ」


違和感を感じた。他の組員もそうだが、珠三郎は自分にべたべたと触れたり抱きついたりといった付き合い方はしたことがないのだ。酒に強い質の彼女が例え酔っていたとしてもそういう風にはしない、と今までの経験上分かっている。
彼女にそう思うのも可笑しなことだが、まるで誰かが珠三郎の皮を被って化けているかのような、そんなわざとらしさがあった。

名無子が意識し過ぎているのか、肩に回された手も李酒とは違う芳香も、確かに酔っていてぼんやりとしていた筈の頭を醒めさせる。それに伴って煩くなる心音、それが何に由来するものかは分からない。強いて言えば怖いような、ぞくりと背筋を走る何かであった。


「……えっと、ちょっとトイレに行って来るね」

「えーやっぱり具合悪いんじゃない」

「違うってば、ただのトイレ――」


珠三郎の仕草が、その言葉の一つひとつが身を擽るように感じる。まるで名無子の自分でも正体の分からない意識を読み取って、からかっているのかも知れないとすら思えた。
居心地の悪さを一旦何とかしようと苦し紛れの言い訳を考えて立ち上がろうとする。
くらり、立ち眩んで視界が暗転した。


「あ――」

「全く、危ないったら」

「……ありがとう」


平衡感覚を失って傾いた体は、床に叩きつけられる前にしっかりと受け止められた。
何事もないかのように手を回す珠三郎の肩に頭を預ける形のまま、名無子は珠三郎に感じる違和感の正体に気付く。

いつも絶妙に着崩しているから判りにくいが、女にしては肩幅が広いのだ。そして着物越しの腕はしなやかな筋肉で硬く、何よりその胸は僅かな膨らみさえ無い。
確かに男にしては華奢な部類ではある。しかし、この体つきは女では有り得ない。
思わず二百年来の関係を揺るがす疑問は口を衝いて出て来ていた。


「珠ちゃん、今思ったんだけどさ」

「なあに」

「珠ちゃんは……その――ほんとに女の子?」


互いの表情は見えない。気を悪くしたか、と思って名無子はそれ以上何も言えない。沈黙が流れて、珠三郎の肩が小刻みに震えた。頭の横で圧し殺した笑い声が聞こえる。怒らせたかも――嫌な予感が冷や汗となって背中を流れた。


「っ、ふふ………名無子ったら」

「ごめん珠ちゃん!ほんとごめんなさい!そりゃ女の子だよね!冗談だから怒んないで!」

「ほんっと、鈍いんだね」

「……え?」


くすくすと抑えきれない笑い声が降ってきて、引き剥がすように肩を掴まれる。座り込んだまま向かい合った珠三郎は愉快で堪らないという風な様子で、口の端を吊り上げていた。

こんな様子の珠三郎は見たことがない。ぞくり、危機感にも似た悪寒が走る。


「やっと、捕まえた」


嬉しそうに笑んだ珠三郎はそれは艶やかで、しかし名無子にはもう彼女が女であるとは思えなかった。珠ちゃん、と呼びかけようとした名前は躊躇いに紛れ消える。


「いつまで"女友達"で居ようか迷ったけどね、それじゃ満足出来ないって悟ったわ。そんなんじゃない、あたしは女として名無子の側に居たい訳じゃないの。

でも名無子、気付くのが遅すぎるんだもの、焦れったくて」

「珠ちゃん、…どういうことなの?珠ちゃんは――男なの」

「そうだね…一概にどうとは言えないけど。女のあたしと男のボク、どちらも珠三郎だということは嘘じゃないもの」


男の声音と女の声音が入り混ざる。結局珠三郎の本質がどちらであるのかはよく判らないが、このひとは二百年もの間ずっと女として自分に接してきたのだということは理解出来た。


「…何故、今それを男として言うの」

「だから男として名無子の側に居たいって言ったでしょ」

「……珠ちゃん、それって」

「名無子のことが好きなのよ」


さらりと何の気負いもなく放たれる言葉。今まで当然ながら女としてしか見ていなかった友人のその告白は、女の声音のせいか冗談に聞こえる。しかし、冗談では有り得ない凄味のようなものを言葉の裏側に潜めていた。


「そんな…、だって、いつから…」

「いつ……さあ、二百年前の名無子が生まれた時から、って訳じゃないけど。
少なくとも昨日今日、数年、そんな最近の話ではないのは確かね」


だってあたし、ここ何十年迷ったんだもの。最初に女として名無子に出会ったんだから、今更男としてなんて諦めようかってね。でも、先刻も言ったけどそれじゃ駄目だったの。

そう言われてやっと彼女――彼の長年の葛藤を知った。今日様子がおかしかったのは酔いのせいではない、名無子に男である彼の存在を気付かせるためだったのだ。

初めて、珠三郎に対して感じたことのない感情を以て心臓が跳ねた。


「ねえ、これは戯れなんかじゃない。
ボクは、本気だよ」


蠱惑的な笑みを浮かべた一人の青年に、名無子は一時醒めた筈の酔いがまた戻ったように、頬に熱が集まるのを感じた。

彼の通り名は蠱惑の珠三郎、山ン本五郎左衛門の人を騙し欺く性を色濃く継いで生まれた妖。
しかしこれは名無子の心を弄び引き裂くための甘言ではない、そう名無子は直感的に理解した。
珠三郎の碧眼が、或いは二百年もの間に培った友人としての勘がそう告げるのかも知れない。


けれど、友人の関係を越える日は案外近いのではないか。
速まる鼓動に裏付けられた、他人事のような予感に体温が上がった気がした。