黒い澱に覆われたような夜空に珍しく月が出ている。
昼間の未だ冷め切らない熱気が生温い風をたてた。

布団の上に半身を起こしぼんやりとそれを眺める後ろ姿は夜着の上から見ても随分と痩せた。白金のちょうど月明かりの色の髪は艶や纏まりを失い、ただ無造作に腰の丈まで伸びる。風に揺れて乱れても、彼は顔にかかったそれを直そうともしない。


「――秋房」


緩慢な動作で振り向いたその頬は幾らか痩けたようにも見える。元々が細身なのと、女性的な顔の造作も相まって一層それが痛々しい。
異様なのは夜目にも白い包帯が頭の半分を覆っていること、それも新しく血が滲んで深紅の染みを作っている。

振り向いて視線が交錯したのも一瞬のこと、すぐに秋房は空に目をやった。相変わらずの容態に溜め息を吐きたいのを堪える。
今の秋房には溜め息さえもその心を切り裂く凶器なのだ。


「そろそろ、包帯変えないと」


ね、と改めて声をかければ秋房はやっと名無子に向き直った。
鉄の臭気が鼻腔を衝く。
俯き目を合わせようとしない秋房の、今や感情の動きの乏しい瞳と同じ色をした鮮血が、緩めた包帯の隙間から流れ出す。

傷口は人間のつけたものではないせいなのか、中々塞がらない。幸い骨までには至っていない、清潔にして薬を塗っていけば次第に治るだろう、というのが主治医の見解だった。しかし一向に彼の傷は回復しない。まるで自責の念が傷を治すのを許さないように、自ら更に傷を深くしているように感じる。

現に――と名無子は思う。

秋房が眺めているのは久々に昇った月などではない。京都の空を夜の闇とは別のもので黒く濁らせている、凝った怨念の立ち上る辺りを眺めているのだ。凝視している、といった方が正確かも知れない。虚ろな紅い瞳が、京都の空の現実をはっきりと映している。風景は楔となって秋房の胸を抉っているのだと思う。その傷の方が、或いは額の傷などよりも余程治らず秋房を苦しめている。


「っ…」

「ごめん、もう少しで終わるから」

「いや……違う、大丈夫だ」


未だ血を流す傷口に薬が滲みない訳がない。
名無子が薬を塗れば反射的に秋房は顔をしかめ、それもまた傷に響いたのだろう、息を呑んで下唇を噛む。
それでも気丈に大丈夫と言い張るのだから、名無子は秋房に気を遣わせているような気になる。


このひとは幼い頃からずっと、何時だって弱味を見せない。実家である八十家の父母にさえそうなのだから、本家の陰陽師達がそれに気付く筈もなかった。だから秋房の感情の発露というものを見てこなかった彼等にとって、花開院秋房という人間は完璧な人格者であり有力な当主候補である。

その名声と今回自分が引き起こした事態、それに挟まれて秋房の精神の秤は偏ってしまった。自責の念に囚われ完全に自分を崩壊させることすら、生まれ持った責任感が許さない。結果的に言葉数は少なくなり、怪我と心労とで疲弊しているせいもあるが自室に籠りきりになった。食事や傷の手当ての度に他人と接することにすら倦んでしまって、辛うじて名無子だけが彼の部屋に入ることが出来る。

否、名無子が他人を遠ざけたのだ。秋房がそんな身勝手を通す筈がない。しかし、秋房はそれを望んでいるように思えた。意識が回復して以来、事情の説明を求められその度に自分の犯したことを嫌でも刻み付けられ、憔悴していくのを名無子は見ていた。

誰が自分の大切な人の大事に、ただ指をくわえて見ているというのか。これは名無子のエゴではない筈だ。秋房を蝕む罪の意識、わざわざそれを突き付けてくる人々を遠ざけねばならない、そう思った。
そうでもしなくては秋房は無意識のうちにその命を磨り減らして行く。


「…雅次と、破戸は」

「もう意識は戻ったみたい。さすがにまだ横にはなってるけど…」

「そう、か……」


安堵に綻んだ顔も、すぐに力なく目を伏せてしまう。無意識のうちか意図してなのか、視線を窓の外に――弐條城の方角に向ける秋房が居たたまれず、同時に無性に腹立たしくもあり、名無子は立ち上がった。振り返った秋房は、驚いているのかと思えばその紅いろの瞳は相変わらず虚ろである。


どうしてこのひとは、何もかも独りで抱え込もうとするのだろう。


確かに陰陽師として、背負う期待や責任は名無子の比ではない。秋房にしてみれば、名無子には理解し得ない感情だと思っているのかも知れないが、彼が傍に置くことを選んだ人間は他でもない名無子なのだ。愚痴でも何でも良い、秋房の感情を吐露して欲しかった。話すことで僅かにでも心が軽くなったり、気の持ち様が変わることもあるだろう。
それでなくては、何の為に名無子がいるのか解らない。少なくとも名無子は、そういう形で秋房を支えたいと思う。


「秋房、」


何でも良いから、私に話して。
そう続けようとして、それでは秋房の首を絞めることに変わりないと気付く。それは事情を話せと強要することと何が違うというのだろう。
話してほしいというのはただの願望なのだ。頼られすがられ、心身共に疲弊している秋房を支えることに価値を見出だそうとしている。名無子は秋房の支えになるという名目で、彼にとっての存在意義を確立したいだけなのかも知れない。純粋な好意、そういう建前で自分を正当化し、その実秋房に必要不可欠な者になりたいだけ。
それは確かに秋房への好意から来る感情ではある。しかし何物をも生み出さず、秋房にも名無子の為にもならず、そんなものを容認しておいて良いのか。



反応がないのを良いことに、名無子は襖に手をかけた。秋房に何か言ってしまう前に、もう帰ろうと思った。今日は駄目だ、秋房の挙動の一つひとつに不安になり、考え過ぎて訳もなく苛々する。

自分だけが秋房を支えられると思っていたのに、この様は何なのだろう。自分はそれほど頼りない、信を置かれていないのだろうか。
情けない、と悪い方向に向かう思考を名無子は無理矢理押し止めた。疲れているだけだから、一晩距離を置けばまた元に戻る。そう自分に言い聞かせて襖を開けた。


「名無子」


背中に聞こえた声に驚いて一瞬動きが止まった。
久しく聞いていなかった何かしらの感情の籠った秋房の声、何か酷く急いてでもいるような響きに思わず振り返る。

無表情のまま僅かに目を見開いた秋房は、衣擦れの音をさせて立ち上がった。紅い瞳に魅入られたように動けない体に手が伸ばされて、思いもしなかった強さで両肩を掴まれる。痛みさえ感じる程だった。


「痛、……止め、」

「何処に行くんだ」


詰問の口調に背筋が冷えて、まさか秋房のせいで気分が悪いからだとは到底言える雰囲気ではない。第一、名無子が勝手に不機嫌になっているだけなのだ。何が恐ろしいか、口をつぐませるのか、それはその表情だった。肩を掴む力の強さや苛立ちの滲む口調とは裏腹に、あくまで彼は無表情なのである。

少しトイレにだとか風呂だとか、漸く見つけ出した間の抜けた言い訳を口にする前に、秋房は名無子を彼の布団の上に組み敷いた。叩きつけられた背中の痛みを訴える間もなく覆い被さってくる彼にはやはり何の表情もない。


「行くな」

「秋――」

「何処にも行くな。私の傍を離れるな」


抱き締める、というよりはまるで締め付けるかのような力、昂った感情に比例して高い体温のせいか、じっとり背中に汗が伝う。
突然のこの行動をどう解釈すればよいものか、驚き戸惑い、そしてほんの少し秋房に怯えて何の反応も出来ずにいれば、秋房は気怠そうに体を起こした。見上げたその顔には今まで見たこともないような表情が浮かび、それも酷く傷付いたような、名無子にしてみれば正視するのに堪えないような表情であった。


「……名無子」


名前だけ呟いてふらりと立ち上がった秋房は憔悴しきっていた。自分は一体何を見てきたのだろうと思う程、目に見えて窶れている。
その瞳は恐らくは今までで一番名無子を必要としているように見えた。確かに彼に必要とされることを望んだ筈なのに、その視線は受け止めたくなかった。こんな秋房は見たくない、こんなに悲壮な彼の視線を名無子は知らない。


「な、に?」


辛うじて問う声は掠れている。けれどこのまま沈黙が続くよりは幾分良かった。頼られたいと思いながら、結局は彼の感情の発露すら平常心では受け止められない。自分も花開院家の人々と何ら変わらないのだ。心の奥底では、秋房は揺るぎなく如何なる時でも自分を律することの出来る人だと思っていた。今まで秋房と接する上で、今回のような異常な事態は起こり得なかったせいだろうか。


「…すまない」

「どうして謝るの」

「こういう状態の私は、さぞ重荷だろう」


自嘲の微笑みすら浮かべて、秋房はそう言った。
当人にそう思われる程、名無子は疲れているように見えたのだろうか。
真っ先に浮かんだ否定の言葉を言う前に彼はまた口を開く。


「すまない」

「私は――」


重荷などと思ってはいない、そう続けようとすれば遮られた。言い淀むことが如何に逆効果かは分かっているのに、久しく感情を顕にしなかった秋房の変化に言葉が続かない。そんな胸中を読み取ったかのように彼は自嘲気味に口角を上げて、布団の上にへたりこんだままの名無子を見下ろす。


「例え名無子が重荷と思っていようと、私の傍を離れるのは許さない」

「――」


すまない、と詫びた言葉とそれはすぐには結び付かずにぼんやりと頭の中で反芻された。ただ見上げた秋房の紅の瞳は、水の膜が張ったように揺らいでいる。寄った眉根が不機嫌そうにも何かを堪えているようにも見えた。


「傲慢とも迷惑とも思われても、私は名無子を手離さない」

「秋房、」

「名無子だけ、名無子しか居ないんだ。
私には名無子しか居ない」

「どうしたの、何でそんなに」


泣きそうなの。そう言うのと滴が秋房の頬を伝うのは同時だった。不思議と驚かなかったのは、何処かで予想していたからかも知れない。
気付けば立ち上がって秋房の背に手を回していた。こんな風に、京都に変事が起こって自分達もおかしくなってしまう前は、名無子が不安に苛まれていたり疲れていたりした時には秋房はよくこうしてくれた。抱き締めた腕、あやすように背を軽く叩いてくれた手の優しさに随分気が楽になったことを覚えている。

それすら大昔のことのように思えた。今秋房の背に回した腕は体格差も手伝って頼りなく思え、かつて秋房が与えてくれたような安心感とは程遠いだろう。それでも背中を撫でるうちに、徐々に心が鎮まっていった。耳元で聞こえた嗚咽にやっと、彼はずっとこれを求めていたのではないかと思い当たる。先刻力まかせに名無子を抱き締めたのも、そう考えれば合点がいった。


「私、ずっと秋房の傍にいるから」


個人的な事情や感情を散々後回しにして生きてきたこのひとの、震える肩と体温に自然と言葉が溢れた。頼ってくれないと拗ね、撥ねつけそうになった自分は何と身勝手だったろう。そう思うことすら、言動の一つひとつに心の持ち様が変わることの証明に他ならず、浅ましい。けれど今大切なのは名無子の感情ではない。秋房の傍にいることが彼の救いなら、名無子はそうしたかった。
ずっと、秋房に必要とされたかったのだ。


「……ありがとう」


嗚咽に混じって漸く聞き取れたその声に、自分こそこのひとが傍に居てくれないと駄目なのだと悟る。


「違うの、…私が傍に居たいの」


それは依存にも似た感情だった。けれど依存でも構わない、秋房がほんの少しでも幸せに向かえるなら、自責の念から解放されるなら。そうしてやっと、秋房にとって自分は必要なのだと頷くことが出来る。