「馬鹿だな、」


そう呟いた竜二は口の端に嘲りの色を浮かべた。軽蔑ともとれて腹が立ったが、そういう表情をした彼はいつにも増して楽しそうに見えて、諦めとも呆れともいえる溜め息が漏れる。


「あんたが、左とか言うから」

「だから馬鹿だ、って言うんだ。俺はちゃんと左と言っただろ」

「だから、何が嘘で何が本当なのか分かんないの!」


それはどうも、と人の悪い笑みを浮かべた竜二にとってそれは罵倒ではないらしい。嘘と水の式神で相手を翻弄する陰陽師なのだから、寧ろ誉め言葉なのかも知れない。
髪から滴る水を、それも只の水ではないそれを忌々しく絞る。恨めしく見上げても、手中で竹筒を弄ぶ竜二には反省の色もない。真夜中に、仮にも女子を濡れ鼠にしておいていい面の皮ではないか。

竜二の主張は、わざわざ左と予告したのだから左に飛び込んだ名無子が馬鹿だ、とこうだ。仕方がないのだ、彼が正しいことを言っている確証などないのだから。今までの経験上嘘だと判断して左に避ければ、今回に限って彼の言葉は本当だった。追い討ちのような彼の笑みが苛立ちを煽る。――全く、こんな時にばかり楽しそうにしやがって。

そこまで考えて、ぞくりと身が震えたのは水に濡れたせいだけでは無い、ふと嫌な予感がしたからである。


「まさか、私の中に言言なんて居ないよね」

「さあ、居ないんじゃないか」

「ちょっと、嘘吐かないでよ、切実に嫌なんだから!」


全く嘘と本当の境が分からない。言言という式神も彼の人柄を体現したかのように読めないもので、その効果も人の――本来式神なのだから、人間に対して使うのは道理に合わないと名無子は常々思う――体内に密かに侵入し、水という水を逆流させたり自在に操るという質の悪いものだった。
それが自分の体内に身を潜めているかと思うとぞっとする。名無子は未だ一度も喰らったことはないが、竜二の妹のゆら曰く言言が暴れる際の苦しみは筆舌に尽くせぬものらしく、兄への恨みも込めて彼女が語った恐怖は名無子の意識に深く根付いている。


「生憎、今日は嘘が赦される日なんだよ」

「……知らないの?赦されるのは悪意の無い嘘だけなんだから」

「これはご挨拶だな。俺の嘘に悪意なんか無いんだがな」

「嘘吐き……」


彼と知り合って、というより本家で修行するようになってから一体幾度嘘吐きと罵倒しただろうか。その言葉は効果がないどころか、更に増長させるだけだということに気付いたのはつい最近で、気付いても尚言わずにはいられない。

更に悪いことに、今日は嘘が容認される日なのだ。本来悪意の無い嘘だけが赦される筈なのが、この嘘吐きは意味を履き違えている気がしてならない。というより分かっていても態とそうしているに違いない。


「ほら、言言は此処だ」


竜二が竹筒の栓を捻れば、膨大な質量の透き通った水が獰猛な狼の形に揺らいで彼の周りを取り巻いた。それでやっと自分を濡らしているのが言言でないと分かり、心密かに安堵する。


「……なら良いけど」


今日も結局真夜中まで続いた修行は、修行といえば聞こえは良いが実際のところ竜二が名無子を翻弄しているだけだった。

陰陽師としての力量が名無子の上を行くのは十分に認めるが、ならばわざわざ名無子を修行相手に選ぶこともないのではないか。例えば常々その才能を認めている妹のゆらなど、彼女自身の修行にもなって良いだろうと思った。けれど以前そう言ったら、彼は例の如く片頬だけで笑い、直情型のゆらでは修行にならないと言った。確かに名無子は、この状態で主張しても説得力は皆無だが竜二の嘘には敏感だと思っている。その点だけなら、自分を修行相手に選ぶのも分かる気がする。


「じゃあ、そろそろ終わりにしない?」

「――ああ」


応える前に竜二は黒い外套の中から携帯を取り出した。ディスプレイの白い光が下方から彼の顔の輪郭を照らすと、また無性に腹が立ってくる。いくら防水機能がついていても式神に耐え切れるか分からないと、名無子は修行中に携帯を所持しない。しかし名無子の術など喰らわないと自負しているのか、竜二はどうやら修行中も携帯を身につけているらしい。まあ、今初めて見て気付いたのだが。

そもそも術云々ではなく、修行中に携帯を持っているのは心構え的に可笑しくはないのだろうか。携帯を持っていたのが名無子ならば酷く嫌味を言われただろう。


「携帯持って修行する位私との修行がちょろいなら、もっと別の人とすれば良いのに」


最大限に遺憾の意を込めて口を尖らせれば、竜二はぱたんと携帯を閉じた。自分との間に見下ろす程の身長差はないが、気分的には上から見下ろされているような感じがある。そして、その不敵な表情が何とも様になるのだから悔しい。


「ちょろくは無い。お前は嘘に対して妙に勘の鋭いところがあるからな、
只お前の術を喰らう気はしないが」

「…完全に舐めてんのね」

「――何で今のは嘘だと思わないんだ?」


興が醒めたように笑みを消した竜二の真意が分からない。は、と間抜けに聞き返せば、彼は僅かに目を細めた。


「お前は自分を貶す言葉は嘘と思わないんだな」


被虐趣味でもあるのか、と問う彼に向かって言言を放てたならどんなにか溜飲が下がるだろう。
そんな趣味などあって堪るか。悪いのは、妙に上から目線と毒舌の似合う竜二だ、と名無子は唸った。


「だって、本気で貶してるじゃん」

「は、まさかずっと本気の罵倒だと思っていたのか?」

「うん」


また馬鹿にしたように鼻を鳴らした竜二を憮然として睨む。別に罵倒と思いたかった訳ではない、そうとしか思えなかっただけだ。
修行として騙すならまだ目を瞑ることが出来るが、それとは関係のないところで撹乱させるのは止めて欲しい、と切に思う。


「大体、修行と関係無いのに嘘吐かないでよ!もはやそれって人間性の問題だと思うの」

「はは、そう本気で怒るな、傷付くだろ」

「また白々しい……」


呆れの溜め息が溢れた。
竜二にとって嘘を吐くことなど、呼吸に等しいのだ、そうに違いない。名無子が竜二を言い負かすことなど不可能で、そのための言葉など全て徒労なのだ。

端から喧嘩をしているつもりは無かったが、名無子は急に興が醒めるのを感じた。そういえばもう真夜中で明日は登校日なのだ、早く風呂に入って寝たい。その方がここで駄弁るよりも余程建設的だと思う。


「もう何でもいいけど、そろそろ風呂入って来て良い?」

「ああ、もう遅いしな」

「じゃあ、お疲れ様。お休み」


半ば吐き捨てて踵を反したのは、我ながら少し幼稚が過ぎるような態度だったかも知れない。しかし、竜二がこの程度で気を悪くするとは思えないので何でも良いかと思った。仮にそうではなくても、散々気を悪くさせられたのは自分の方なので名無子だけが責められる謂れはない。
彼に向けた背中を、不意に低い声が呼び止めた。


「待てよ、一つだけ訊くが」

「何、もう」

「どうしてお前を騙すか分かるか?」

「逆に分かっているとでも思うの?」


ハッ、そうやって竜二は先刻よりも盛大に鼻で笑う。何なのだ一体、早くしてくれないか。それとも、恐らく嗜虐趣味の気がある竜二は名無子の反応が気に食わないのだろうか。


「なら教えてやるよ、お前のことが好きだからだよ」

「……」


端から嘘と分かっているので狼狽えたりときめいたり、赤面する筈もない。一瞬呆れて絶句したのは悔しかったが、いつもの人の悪い笑みを浮かべて言い放った竜二が間抜けで可笑しかった。騙すつもりならせめて真顔になれ、もっと上手に嘘を吐け――初めて、彼に対して優越を感じた。

理由も可笑しかった。好意故に嘘を吐いて翻弄する、それは好きな娘を虐める幼い少年と何が違うというのだろう。案外彼の恋愛観は幼いのかも知れない。
そうなれば口許の嘲笑を隠すことは困難で、名無子は先刻の竜二に匹敵するくらい意地悪く鼻で笑った。


「はいはいありがとう。私も竜二が好きだよ、そういう嘘吐きなところなんかだあいすき」


彼と同じく四月一日という日付に便乗して、名無子は大嘘を吐いた。その嫌味でしかない、誰が聞いても明らかな嘘に、竜二は愉快そうに笑い声を洩らす。別に竜二を負かした訳ではなかったが、初めてまともに反撃した気がして名無子は安らかな満足を覚えた。


「手酷いな、エイプリルフールは反対の意味の言葉を言う習慣じゃないだろう?」

「あんまり変わらないと思うけど」


じゃ、お休み。そう言って背を向けた。お休み、と言う竜二の声は未だ愉快そうな響きを残していて、それはそれで心に僅かな疑念が生まれたが今度こそ気にはしない。竜二の真意など、考えて的中したことはないのだから。
既に名無子の意識は温かな風呂へと向いていた。




部屋に帰れば、水の式神による故障を危惧して置いてきた携帯が着信を示す光を放っている。開いた待受に現れたのは未読メールを表すアイコンだった。友人からのアドレス変更のそれを読み、待受画面に戻せばついでのように目に入った数字は四月二日、それも一時近くを指している。
日付が変わっていたことと睡眠時間を鑑みれば溜め息が漏れ、そしてあることに気付いた。


(なら教えてやるよ、お前のことが好きだからだよ)


先刻の竜二の嘘。あれを言う前に彼は、携帯を開いて――恐らくは時間を確認したのだ。そしてあの嘘を吐いたのは、今の時間を見れば確実に日付が変わってからで、エイプリルフールの嘘ではない。まさか竜二は、日付が変わったことを見越して嘘を吐いたのだろうか。


――あれは、本当に嘘だったのだろうか。


一瞬固まった思考だが、名無子の意思に反して解釈を紡ぎ出す。四月一日の嘘と見せかけて実は本心であったならば、そういえば名無子が嫌味を込めて告げた好きという言葉は日付を越えてからのものだ。愉快そうに笑ったのは滑稽さからか、それとも嘘と知りつつも名無子の口から好きと聞けて喜んだのか――

初めて心拍数が上がったのを感じたが、更に独り歩きを始めた思考がそれを平常に引き戻す。


(いやいや、無いわ、有り得ない)


一瞬でも先刻の考察を思った自分が恥ずかしい。竜二の性格を考えればそんなことが有り得ないのは明白なのだ。
一旦自意識過剰なことを自覚してしまえば、羞恥に呻きそうになる。名無子の心中など竜二が知る筈もないのだが、自己嫌悪でまた心拍数が上がった。


(まさか、竜二はそこまで考えて…)


名無子を自己嫌悪に陥らせる、そんな回りくどく地味なことの為に竜二が嘘を吐いたとは思えないが、最初の考察に比べれば幾分か現実的だと思った。一番自然な考え方は只のからかいだろうが、するとわざわざ日付を確認したという謎が残る。

――考えるのに飽いて、というよりは答えの見付からないことを悟って名無子は溜め息を吐いた。何れにしても自分は担がれたのだ。
やはり、彼の嘘は読めない。