「山ン本様が君を所望している」


不意にそう呟いた彼の言葉が、意味を持って聞こえるまでには間があった。
余りに淡々と、まるで他人事のように言葉を紡ぐ柳田は、先刻から名無子の目を見ようとしない。


「所望、とは」

「言葉通りの意味哉」

「………何故?吉原に名高い太夫ですら囲うことの出来る人が、どうして私を」

「さあ」


素っ気なく返事をされ、名無子は哀しいだとか腹立たしいだとか、今自分にはどの感情が相応しいのかいよいよ判らなくなった。
二人とも黙りこくってしまえば、江戸の町の華やかな喧騒が空々しく聞こえる。柳田は僅かに息を吐いたように見えた。


「……私の女だからなの哉」


返すべき言葉が見つからない。それは理由としては理不尽で、不十分なものに思えた。
大体私の女などと、名無子はこの男からついぞ愛の言葉など聞いたこともなく、そもそも自分達の間には甘い馴れ初めなど無い。名無子は非力な妖怪である自分が奴良組傘下の江戸で組同士の抗争に巻き込まれずに生きるため柳田を頼り、柳田はただ見返りを求めただけだった。

それでも名無子はこの暮らしに満足していた。
互いの利害の為だけだった筈の関係にもいつの間にか情が移るものなのか、少なくとも名無子の柳田に対する感情は変わった。
柳田の方でどう思っているのかは分からないが、何度も通って来るのだから少なくとも嫌われてはいないのだと思う。


「どういうことですか」

「山ン本様は日々に飽いているから――」


案外、暇潰しのつもり哉。私に女がいるなんて意外だったんだろう。
何の感慨もなく柳田は呟く。
漸く現実味を帯びて、自分が山ン本に所望されているという状況の不味さを理解した。それと同時に、柳田の反応の冷淡さに胸が痛んだ。


「――そう、ですか」


そう答えるしか無かった。
心の何処かで、きっと柳田は自分の為に憤ってくれる、自分を救ってくれると当然のように期待していたと気付く。
自惚れだ、そもそも彼との間には利害関係しかないのだから。
自分でも驚く程に胸が痛い。


「…君はそれでいいの哉」

「え?」


柳田の声音が明らかに変わった。名無子から顔を背けるようにした、その口元が僅かに上がる。


「山ン本様に従う?少なくとも、今よりは良い暮らしにはなる」


吐き捨てたその言葉から、彼が既に冷静さを失いつつあることに気付く。
それよりも何故そんなことを問うのか。従いたく無い、と言えば助ける気でいるのだろうか。


「嫌です」

「……へえ」


やっと、こちらを見た。
やっぱり山ン本の元に連れていく気なのかも知れない、とその表情を見て思う。何故なら柳田にとって最も優先すべきものは山ン本だからだ。たかが褥を共にしただけの、妻でもない女になど未練はないのだと思う。
それでも、名無子は柳田のことが好きだった。恋情などを挟んだ関係ではない、と心に留めるようにはしていたが、行為自体は恋人同士がするそれと代わりがないので、いつの間にか彼に幻想を抱くようになってしまったのだろう。


「私は、あなたのことが好きだった」


どうせこの関係が今日限りなら、最後に言ってしまっても良いだろう、と思えば言葉は口を衝いて出てくる。


「でも、ちゃんと山ン本様の処には参るつもりですから、
あなたの受けた主命なら果たすつもりですから、だから、」


どうして嗚咽が込み上げてくるのか。今まで努めて執着を見せないように、ただそういうことの為の女に徹してきたというのに。
最後に鬱陶しい女だ、とは思われたくない。


「じゃあ、どうして行くと言うの哉、
――……何故、どうあっても行きたくない、と」


言わないの哉、と呟いた柳田の顔が泣き笑いのように歪む。


「もっと早くに好きだと言ってくれれば、
君のことを強いて考えないようにする必要も無かった」

「――、?」

「そしたら私は、山ン本様の命令だってこればかりは拒めただろうね、
君を渡したくない、と。

でも、もう遅い哉」


手を伸ばし、その端正な顔を歪めたまま、柳田は名無子の肩を掴む。痛いほどに掛かる力、それに比例して彼の肩が震える。

こんなちっぽけな安寧と引き換えに手にいれた関係は脆く、最初から名無子の心は自分の手には入っていない。名無子の求めるものを盾に無理矢理自分のものにして、好きだなどと図々しく言えた義理ではない。だから行為だけで満足したふりをして宥めた。体だけ、それで納得しているふりをした。
山ン本様に名無子を差し出すことを求められた時も、もうこれを機に自分の欲から名無子を解放しなくてはと思った。
名無子の求めているものは安らかな生活であり、自分ではないのだから、それなら山ン本様の下の方が名無子は幸せになれる。

柳田はそう絞り出すように語った。名無子は何も言えず、ただ茫然とその話を頭の中で反芻し、その意味を知るにつれて体が冷えていくのを感じた。


「君のことが好きだったんだよ」


背中に回った手が名無子を引き寄せて、近くなった彼の顔の横で鈴がりん、と音をたてた。漸く今の状況と彼の言葉が結び付いて、名無子は口を開く。


「私は……あなたが私を好いている、などというのは、自分の都合の良い自惚れだと思っていました。
だから今、そんな風に言って貰えると」


自分は今、幸せな筈だった。柳田の腕の中で好きだと言われて、それは何度も夢見たことであるのに、どうして胸が痛むのだろうか。
少なくともその痛みは、先刻の柳田の冷淡さによるものとは違う。
そこまで考えて、ああ、先刻の冷淡さも芝居だったのか、と思う。


「覚悟が揺らぎます」

「名無子」


柳田の声に、今更ながら互いを名前で呼んだことの無いことに気付いた。
柳田は緩慢な動作で、名無子を木の床に組敷く。見上げた彼の表情は強張って、瞳は揺らいでいるように見えた。


「どうして、」


頭の片隅で、どうにかして山ン本を拒めないか考えていた。江戸を逃げ出すというのが一番良い方法に思えたが、既に存在を知られ、恐らくは彼の産み出した妖怪たちが逃がしてはくれないだろう。
思考が堂々巡りを繰り返し、既に打つ手がないとやっと悟る。

恐らくは柳田も、気付いていたのだろう。


「どうして、こうなってしまったの哉」


悔恨とも自嘲ともつかない表情で、柳田は薄く微笑んだ。
本当に、と応える名無子の声も自然弱くなる。
放爪、断髪、入れ墨、そんなことで彼といつまでも繋がっていられるとは思えないけれど、何かの形で証をたてたかった。
もし、もっと早くに思いの丈を伝えていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。今となっては、何も分からない。


「分かりません――もう、何も考えたくないんです」


今この瞬間、僅かでも柳田と恋人でいられる時間に、気鬱なことを考えていたくなかった。何れ夜が明けて、嫌でも現実を突き付けられるのだから、それまでは柳田のことだけを見ていたかった。それが所謂逃避でも、現実を忘れる位に幸せで頭を満たしたい。


「私もだよ」


柳田はそう言って、名無子の唇を塞ぐ。噛み付く、と形容しても間違いではない位に烈しく口内を蹂躙して、頭の芯が痺れるほどに長く、深く口付ける。
荒い呼吸に比例して火照る体が、思考を止める為に貪欲に柳田を求めた。


「名無子、……名無子――、すまない」





幾度も揺さぶられて、月が逾高くなる頃にはもうこれが何度目か分からなくなっていた。
柳田の肩越しに見上げた窓から覗く月は確実に空をゆっくりと滑って、朝が近付いていることを知らせた。
いくら溺れようとしても、柳田の自分を苛むようなその瞳が名無子を正気に留める。
往生際の悪い頭はやはり、未来を考えないようにしても逃げ道を探している。
そうやって見つけた結論は本末転倒で、名無子に笑みさえ浮かべさせた。

死にたい、とその結論を述べれば柳田は酷く哀しげに微笑んで、何か呟いたがそれと同時に突き上げられたものに苛まれ、その痛みと衝撃は慣らされた体の中で混ざり合って快楽に変わり、柳田の答が是なのか否なのか、それは判らなかった。だから与えられる快楽に酔おうと柳田にすがりついて一層深く繋がろうとすれば、彼は痛いほどに名無子を抱き締めた。そうやって望み通りに鋭い快楽がやって来て、視界が揺らぐ。


「名無子、」


柳田はもう一度名無子の出した結論に対して答えたようだったが、麻痺した理性がそれを聞かせてはくれなかった。霞む視界の中見上げた柳田の口元は笑みを象って歪んでいて、泣いているようにも見えた。


夜明けに自分を待っているのが山ン本屋敷なのか脇腹を貫く刃なのか、
仮に刃だとしてその血に濡れた刃の行き先が鞘なのか柳田の左胸なのか、はたまた別の何処かなのか、
それは名無子には判らない。



此の世の名残、夜も名残、
死に行く身をたとふれば、
あだしが原の道の霜、
一足づつに消えて行く、
夢の夢こそあはれなれ。