私が初めてこの眼に映したのは、筆を手にする男の人の姿でした。
褐色の肌と逞しい腕、私の頬に伸ばされた固い指先には墨の匂いが染み付いていました。
そしてその指が触れた時、私は自分を生み出した者が目の前のこの人であると知ったのです。


私を見つめるその双眸には昂った感情が見え隠れし、しかし思わず肌が粟立つような冷徹さがありました。まるで私の容貌、雰囲気、それら全てを何者かと比較し厳しく評価しているような、そんな眼差しです。
気圧され視線を外すことも出来ないまま視界の隅に映り込んだ紙に、何故そのような目で見られているのかの答がありました。

それは丸められていたり或いは引き裂かれていて判別はし難いのですが、その一枚一枚に描かれているのは紛れもなく少女でした。それも服装や雰囲気が違いさえすれ、全て同じ少女です。

たった今描き上げられたらしい墨跡も新しい紙が一枚あります。唯一それだけが丸められも裂かれもせずに綺麗なまま残っていて、どうやらそれは私のようなのです。


きっとこの人は幾度も私と同じ容貌の少女を生み出し、その出来をこうして見定め、納得のいかない少女は消してしまったのでしょう。――いいえ、"私"と同じ容貌の少女、と言うのは誤りです。私もまた最初の少女に似せてつくられているのですから。


彼は僅かに眉間に皺を寄せ、睨むようにして私を見ていましたが、やがて纏う張り詰めた気配を緩め、私の頬から手を離しました。

その表情は前髪に隠れ全ては見えません。しかし何処か腑に落ちないような、納得のいかないような、そんな表情でした。

ちくり、と胸が痛みました。きっと私もまた、今までつくられた少女のように消されるのです。彼の求める少女ではないから消される、それは生まれ落ちたその時から何となく解っていました。だから彼の眼を見て、自分の運命は大体予想がついたのです。


では何故、胸が痛むのでしょうか。生憎と生まれ落ちたばかりのこの身、自分の感情に名前をつけられる程自分を理解してはいない。ただ何となく事象の流れを追うだけです。


彼が私の本体とも言うべき絵に手を伸ばしました。ああ、やはり消されてしまうのだ。未練などある筈もないのに、不思議と後ろ髪を引かれるような気分です。いきものは――私に関してはその表現は違う気もしますが――、本質的に生に執着するものなのかも知れません。

如何にも軽く、ひらと摘ままれた絵が翻り、私は思わず息を飲みました。墨の濃淡、筆跡だけが少女を形作っている筈なのに、そこに描かれたものはまるで生きているかのような生気を、妖気を纏っているのです。


これが私か、と思う程それは美しかったのです。


顔の造作や体の線の問題ではなく、絵全体としての実物のような質感や筆遣いが美しいのです。

しかしこれは彼の最高傑作ではない。紙礫と化してしまった私の姉とも言うべき少女たちのように、恐らくはこれも無造作に打ち棄てられてしまうのです。今や私自身の存在というよりも、この絵が消されてしまうのが惜しく思われました。


すると彼は摘まんだその絵を脇に退けて、新たに墨を擦り始めました。
どうやら、まだその絵を留めておいてくれるようでした。安堵の溜め息、きっとその安堵も束の間のことなのでしょうが、出来ることなら彼の満足する絵が生まれるまでを見届けたい、と強く思いました。


私は彼の描く絵に魅せられていました。


墨の香りも高くなり、新しく向かい合った紙は鮮やかな白です。ここからあの絵が生み出される。その過程を今、目の当たりに出来る。狂気にも似た感情が彼の硝子玉のような瞳に見え隠れし、つられて私の心臓も煩く音を速め出しました。

筆をとったと思えば次には宙に軌跡を描き線が生み出されていきます。爛々と昂った感情をそのまま紙にぶつけるように、一片の迷いもない筆先は少女の姿を形作りました。筆を走らすその姿は生き生きと力強く、しかし少しでも空気を乱せばすぐに台無しになってしまうような危うさがありました。わざわざ息を詰めずとも張り詰めた糸のような場が自然と私を律します。


――彼が息を吐きました。絵から確かに立ち上る妖気が徐々に黒く影を結びます。そして白と黒、境がはっきりしてきました。

生まれ落ちたその少女は、制服を着ているせいか私よりも幼く見えます。しかし、纏う妖艶さといったらどうでしょう。肌の白や無造作に濡れて光る唇の紅いろ、吸い込まれるような夜の湖のような大きな瞳。全て穢れなく無垢な筈であるのに、寧ろ穢れないせいか艶やかな色香があるのです。思わず私は息を呑みました。

彼は私にしたようにその頬に手を伸ばしました。その時と違うのは、未だ瞳に醒めやらぬ感情を留めていることでしょうか。無垢な少女の柔らかな頬に触れて、彼は口の端を上げました。彼のその横顔だけで、満足したのだ、と分かりました。彼が描きたかったものは只単に彼の思い描く少女に似た妖ではなく、少女と呼ばれる年頃の言い表せぬ色香、纏う雰囲気だったのかも知れません。


ならばそれは私がどうなるのか、決定的になったということです。"姉"達は、彼の求める形には生まれなかった、だから消された。何故私が未だ生かされているのかは解りませんが、こうして傑作とも呼べる少女が生まれた今、私の存在に価値はないのです。せめて題材が違ったなら、比較はされず別の者として在れたのかも知れない。しかし同じ娘を模した私達は、同時に在ることは出来ないのです。"私"は一人しか存在出来ないのです。


彼は一度脇に退けた私の絵を手に取りました。
その瞳には何の未練も、感慨も映してはいません。そう、この絵に拘っているのは私だけ。この世でこれの存在を知る二人の妖のうち、これを惜しみ留めていて欲しいと思っているのは私だけなのだ、彼は自らの生み出した失敗作に興味は持たない。
そんなことなど分かってはいるのです。


それに私は、彼が納得のいく少女を生み出すのを見届けたいと思っていました。それがこうして叶った今、これ以上何を望むと言うのでしょう。


力の籠る指先、呆気ない程に薄く頼りない紙に、小さな亀裂が入りました。判らない、解らない、私は何故悲しいのでしょう。この美しい絵が失われるのが悲しいのでしょうか、それとも浅ましい生への執着が死を拒むのでしょうか。はたまた、傑作として生まれてきた少女への嫉妬でしょうか。それとも彼への執着なのでしょうか。分かりません、私はまだ一刻も生きていないのに、正に今消えようとしているのに、与えられた生にしがみついて、まだ生きたいと心の中で叫んでいる。その叫びを言葉には出来ないくせに、懇願して繋ぎ止めるように絵を見つめる。音を立てて裂かれるそれを見つめることの、なんと無意味なことでしょうか。


びり、と最後に盛大に音を立て、私の姿が裂かれました。一拍後に視界が白く眩み始めます。とうとう消える、けれども意外にもゆっくりと静かに消えることが出来るようです。

最後にまた彼の姿を見たいと思いました。霞む前に漸く焦点を定めれば、彼もまたこちらを凝視していました。私が生まれた時には失敗作と見なし、そうして数多の少女を消していった筈の彼が、何故か興味深げに私を見つめているのです。今まで幾らでもこの光景は目にしたことでしょう。なのにどうして、今更笑むのでしょうか。


訳は判りませんが、私は満ち足りる思いでした。彼の唇は薄く笑みを象っていて、そこに本来なら私に向けられる筈もなかった満足の片鱗を見てとれたからです。

私は恐らく姉たちの中で一番幸せです。怪談となる妹の誕生を見届け、最後に少なくとも彼の関心をひくことが出来た。
後は"私"であることをこの優れた妹に譲りたいと思います。姉や私が果たせなかった妖としての役目を、妹が全う出来ますように。そうして初めて私は、"彼の為に"生み出されたと納得することが出来るのです。


視界を染めた真白は、私たちを生み出す前の紙の色と同じでした。