ウィズロといっしょ! | ナノ

 ――夢を見た。暗闇で泣いている自分の夢だ。金色の光と共に現れるはずの助けはなく、悪魔がより深い闇へと自分をを引きずり込んでいく。何も聞こえず、何も見えず、誰の手も届かない闇の奥へと。
 細く乾いた枝のような指がニゲラの手首を這い、ゆっくりと絡め取る。幼子のように泣きじゃくっていたニゲラは顔を上げて、涙を拭うことすらせずに自分の手を掴んだ悪魔を振り返った。
 赤く輝く大きな一つ眼が、じっとニゲラを見据えている。紫を基調とした薄汚れたローブから伸びる腕は、やはり枯れ果てた死体のものだ。じゃらじゃらと身に巻き付いた過剰な装飾は魔術的な力をより高めるものだろう。深い闇の色に燃える怨霊を無数に付き従えた彼の姿は、さながら死霊の王だった。
 悪魔はニゲラの体を無造作に引き寄せると、彼女を道連れにして闇の奥底へと落ちていく。次第に闇が濃く深くなっていくというのに、不思議と恐怖は感じなかった。彼女は手を伸ばしてすがるように彼のローブを掴み、闇の中でより一層輝いて見える大きな赤眼を覗き込む。
 ――命の灯火を風前に晒され、死の闇に飲まれようとしていたニゲラを救ったのは、幼い頃から待ち焦がれていた光を纏った勇者ではなかった。闇を固めたような悪魔が、自分の腕を死の淵から強引に引き戻したのだ。
 ニゲラはその皮肉めいた事柄に苦笑しつつ、素直に悪魔に身を委ねる。どんなに深い闇に落ちても、自分は決して一人ではない。夢でも現実でも、そこには彼がいてくれる。
 ウィズロが共にいてくれるのなら、真っ暗闇も怖くはない――かもしれない。そんなことを思いながら、彼女は穏やかな眠りに落ちるようにゆっくりと瞼を下ろした。




 ……いくらなんでも、それはないだろう。意識を浮上させたニゲラは、たったいま見たばかりの夢の内容にげんなりとため息をついた。何故好き好んで自らウィズロに身を預けて闇の底に落ちなければならないのだ。夢は自らの心を写す鏡だと巷でよく言われているが、今回だけは全力でそれを否定したい。これは絶対に違う。いくらなんでも、自分がそこまでウィズロにほだされているなんてことは、絶対にありえない。

「ニゲラ?」

 不意に聞こえた少女の声に、ニゲラはゆっくりと瞼を開く。目を突き刺す眩しい光に痛みを覚えて数度瞬きをすれば、ぼんやりとした視界に綺麗な空色が映り込む。無論、本物の空ではない。少女の長い髪だ。

「ラナ?」
「よかった、目が覚めたんだね。体は平気? 痛いところはない?」

 紫を帯びた瞳が心の底から心配そうに自分を覗き込んでいる。その向こうに見えるのは、もう二度と戻ることはないだろうと思っていた、魔女の谷で間借りしていた部屋だ。
 ニゲラは自分に何が起こったのかを思い出しながら、緩慢な動作で上体を起こして腹部をさする。焚き火が踏み消されてからはパニックに陥ってしまったらしく記憶が曖昧だが、ここを剣で貫かれたのはしっかりと覚えている。――倒れた自分を、ウィズロが守ってくれたことも。
 慎重に深く息を吸ってみる。……どこにも痛みはない。腹の内側の浅い部分がわずかに引きつったような感覚を訴えるが、それだけだ。

「大丈夫。全然痛くないよ」
「本当に? だって、傷塞いでからまだ一日とちょっとしか経ってないのに」

 ――丸一日も眠っていたのか。怪訝そうに首を傾げるラナの言葉に、ニゲラはわずかに眉を寄せて腕を動かしてみる。痛みはないものの、少し手に力を込めるとすぐに疲労が顔を出す。なるほど、どうやら彼女の言葉に嘘偽りはないようだ。いくらここ最近寝不足気味だったとはいえ、少々寝過ぎたかもしれない。
 だが、十分すぎるほど眠ったお陰で、重たかった頭はすっかり楽になった。ニゲラは頷くと、楽天的な笑みを浮かべる。

「平気平気。言ったでしょ、体力には自信あるんだって」
「そ、そういう問題じゃないと思うんだけどな……」

 彼女は困ったように眉根を下げて苦笑する。自分でも暴論だとは思うのだが、事実なのだから仕方がない。
 ニゲラはそっと服の中に手を忍び込ませ、腹の皮を撫でる。わずかな凹凸を指先に感じるものの、傷はものの見事に塞がっている。恐らく傷跡は残るだろう。だが服の下には、他にもこれまで遺跡の罠にかかって負傷した時の跡がいくつも存在する。どうせ見せる者など誰もいやしないのだ、気にする必要はない。

「ラナが治してくれたんだよね。……その、ありがとう」

 顔を上げてラナの瞳をまっすぐに見ようとしたニゲラだったが、ふとためらうと苦笑しながらそっと目を伏せた。ウィズロが自由になるのに協力するために、ニゲラはラナに事情を告げることなく魔女の谷を抜け出したのだ。彼女を裏切ったも同然である。……そんな裏切り者が、どうして彼女の顔をまともに見られるというのか。

「そんな、大したことじゃないよ。ウィズロが知らせてくれなきゃ、どうなってたか……」

 ラナは照れ臭そうに頬を染めて首を横に振ると、一昨日の夜何が起こったのかを順を追って話してくれた。
 一人テーブルについて夕食を摂っていたラナは、不意にニゲラに預けていた緊急連絡用の魔法具が起動したことに気づいた。魔力の波長を合わせてどうしたのかと遠隔で問いかければ、なんと聞こえてきたのはウィズロの声。しかも、ニゲラを死なせたくなければ今すぐに来いという。
 脅迫めいた言葉に慌てて転移魔法を使って現場に向かえば、そこにあったのは血塗れで横たわる死にかけのニゲラと肉体を取り戻したウィズロの姿だった。

「その、ね。最初はウィズロがやったのかと思っちゃって……」

 ラナは苦笑しながらそう語った。出会い頭に魔導書でぶっ叩こうとした彼女の気持ちはよく分かる。立場が逆なら、ニゲラも同じことをしていたに違いない。だが必死の形相でそれを避けたウィズロは、ニゲラに素早く指輪を嵌めるとあっという間に実体化を解き、指輪の中に逃げ込んでしまったのだ。その際、彼はこう言い捨てたそうだ。

「貴様の魔力の半分も使えば十分だろう。せいぜい私のためにこの娘を生き長らえさせてみせるがいい」

 そうしてラナは取るものもとりあえずニゲラに応急処置を施し、家に連れ帰って看病していたというわけである。

「ねえ、ニゲラ。……結局ウィズロは、ニゲラを助けてくれたんだよね?」

 ラナは不安げにニゲラの顔を覗き込む。状況やウィズロの行動からそう判断したものの、やはりまだ半信半疑らしい。あの性格だ、無理もない。

「そう、だといいな」

 彼女の問いに、ニゲラは頷きはしなかった。何もかもが溶けて見えなくなってしまった闇に浮かぶ真っ赤な瞳と、紫色に燃え立つ魔力の混じった魂の色は、彼女の記憶に鮮明に焼き付いている。……ウィズロが自分のためにしか動かないことは知っている。確かに彼はニゲラの命を救いはしたが、それは彼自身の今後を考えてに違いない。
 ――だけど、とニゲラはシーツを握る。実体を取って戦えるほどの魔力が彼の中にあったのならば、魔物など相手にせずにラナの手の届かない場所まで逃げることもできたはずだ。
 だが彼はそれをしなかった。それが何を意味するかまでは分からないが、その事実は胸にひとしずくの温もりを落としてくれた。

「そっか」

 ラナはほっと表情をゆるめると、ニゲラの左手に視線を落とす。

「ホント、信じられないよね。まさかウィズロが――」

 ラナの瞳の動きにつられて指輪を見下ろしたニゲラは、ふと口をつぐんだ。ウィズロは少し汚れてしまってはいたものの、相変わらず妖しいまでに深い煌めきをニゲラの手に添えている。今までと何も変わらない。……ただひとつ、彼が宿っているのが人差し指でないことを除いては。

「お、お腹空いてない、ニゲラ? わたし、何か胃に優しいもの作ってくるよ」

 黙り込んでしまったニゲラの内にふつふつとひとつの感情が沸き上がってくる。それに気圧されたのだろう。ラナは引きつったような笑みを顔に貼りつけて距離を取ると、そっと扉から出て行こうとした。ノブの回る音に、はっとニゲラは顔を上げる。まだ、彼女に伝えなければならないことが残っている。

「ラナ!」

 呼び止めれば、彼女は空色の長い髪を翻して振り返った。まっすぐにこちらを見つめてくる瞳に、ニゲラは一瞬たじろいて息を止める。彼女はシーツを握る力を強めると、意を決して口を開いた。

「ごめんね、私……」

 ――ニゲラが倒れていたのは、探索すると言っていた遺跡とは正反対の、ハイラル城下町へと続く森の中だった。何故ニゲラが嘘をついたのか、何故ラナを騙してまで城下町に行こうとしていたのか。……きっとラナは気づいているだろう。
 だが彼女は事情を説明しようとしたニゲラに向かって、曇りのない笑みを向けた。

「今度からはちゃんと相談すること! 分かった?」

 人差し指を立てて片目をつぶってみせたラナに、ニゲラはふっと息をこぼして目を細める。この少女はどうしてこうも、人の心を溶かすのが上手いのだろう。ニゲラは泣きたそうになるのを懸命に堪えてなんとか笑みを浮かべると、ゆっくりと頷いた。




 ラナが部屋から立ち去ると、しんとした沈黙がその場に降りる。ニゲラは深く息を吸って乱れた心を整えると、窓の外に視線を向けた。薄い青空が厳かに遺跡を包んで、その眠りを静かに守っているようにも見える。今度は方便に利用するのではなく、本気であそこを探索してみたいものだ。

「ウィズロ」
『なんだ』

 窓に目を向けたままぽつりと独り言のように呟けば、ウィズロがちらりとこちらに意識を向けてくるのが分かった。

「……その。助けてくれて、ありがとね」
『全くだ、これまでの努力を綺麗さっぱり無駄にしおってからに。またイチから魔力を溜めねばならぬではないか。そもそも闇の魔力を扱うくせに闇が怖いとは何事だ。馬鹿馬鹿しいにもほどがあるぞ貴様』
「あはは……」

 ここぞとばかりにぶつくさと文句を垂れるウィズロに、ニゲラは苦笑をこぼすと同時にひっそりと安堵した。――よかった、いつものウィズロだ。ニゲラが襲撃を受ける前と同じ、自分の都合しか考えない、とんでもなく横柄で、腹が立つほど口の悪いウィズロだ。これで態度ががらりと優しく変わっていたら、どう接すればいいか分からなくなるところであった。
 ――そう、今までと何も変わらない。だからこそ、安心して思いをぶつけられる。

「ところでさ、ウィズロ。ひとつだけ言わせてほいんだけど」
『なんだ、悔しいか。ならば言い返してみるがいい。もっとも、己の魔力を活かした魔法も満足に扱えぬクズがなんと言ったところで、痛くも痒くもないのだがな』
「……いや、そっちじゃなくてね」

 どうしてそんなにも彼の声が弾んでいるのか気になるところではあったが、問題はそこではない。
 そもそも闇の魔法は扱いが難しいのだ。闇に属する魔法はいわゆる大魔法と呼ばれるものが多く、燃費も使い勝手も悪い。その上、外法と呼ばれるえげつない術を使う印象が強いため、闇の魔力を持っているというだけで白い目で見る者もいる。だからニゲラは普段、自分の中で魔力の属性を変換してから表出するという面倒な手順を踏んで魔法を使っているのだ。――それはさておき。
 ニゲラは窓から目を離すと左手のウィズロを見下ろす。そして一呼吸置くと、まな尻をつり上げて怒鳴りつけた。

「なんだって、よりにもよって薬指に嵌まってんのよ、このバカ!」

 ――ニゲラの左手の薬指には、朝空の光を受けて燦然と輝くルビーがさも当然のように鎮座していた。
 彼女の剣幕を面白がっているのか、ウィズロは喉を引きつらせてヒッヒと笑う。

『ほう、これはこれは。命の恩人に向かって馬鹿とは酷い言い草だな』
「いいから大人しく外れなさい! あっ、この、固っ……」

 ニゲラは薬指の付け根にあるウィズロを引っ張ると痛みに眉を寄せる。抜けない。それどころか、なんとしてでも引き抜いてやろうと力を入れれば入れるほど、指が締めつけられている気がする。気がする、ではない。実際に締めつけてきているのだ。その証拠に、薬指の血色が次第に悪くなってきた。

「もう! ほら、人差し指に付け替えるだけだから!」
『ならぬぞ。そう言っておいて、外した瞬間にラナに引き渡すつもりだろう』
「そんなことしないってば! い、いたたた……ちょっとウィズロ、痛い! ちぎれる!」
『そう思うのならば手を離せ』

 引き抜こうとするニゲラとしがみつくウィズロの間で、ギリギリと小規模な攻防が繰り広げられる。
 これ以上続けると、指が壊死してしまいそうだ。ニゲラは悔しげに口元を歪めると、指輪から手を離した。途端に指を締め上げていた指輪の腕がゆるみ、薬指に血が通い出す。ニゲラはじんじんと脈打つように痛む指に手を添えながら、ウィズロを憎らしげに睨んだ。

『ただ憑く指が変わっただけだというに、何故そこまで躍起になる』

 呆れ果てたようにため息をつくウィズロに、ニゲラは言葉を詰まらせる。

「だ、だって、ウィズロ……」

 左手の薬指に嵌める指輪は永遠の愛の象徴だ。そのため、ハイラルでは一般的に夫婦が身に付けるものとされている。……だから、おかしいのだ。この指は断じて、魔物と化した呪いの指輪を嵌めるためにあるのではない。指輪を見下ろすニゲラの顔がみるみる紅潮していく。言葉にできない叫びが彼女の中に渦巻いた。
 ――これではまるで、ウィズロと愛を誓い合った仲だと言っているようではないか!

『フン、大した問題はなかろう。貴様、あの時「骨董と結婚する」と言っておったではないか』

 軽く鼻を鳴らすウィズロに言い返そうとしたニゲラの口が、はたと動きを止める。あの夜の、魔物の襲撃を受ける直前の記憶が甦る。
 確かに言った。骨董と結婚するとニゲラは確かに豪語していた。……思えばウィズロは、こう見えてれっきとした骨董品ではなかったか。

「あ、あれは、そういうつもりで言ったんじゃ――」
『誰とも契りを結ぶ気がないのなら、この指を私が専有していても構うまい』

 してやったり、と歪む赤い瞳が脳裏に浮かぶ。その瞳が瞬きをすると、今度は目があったはずの裂け目に歯並びの悪い口が現れて人を煽るような笑い声を発する。ただの自分の妄想なのか、それとも本当にウィズロに笑われているのか。下品な哄笑は、その判別がつかないほど鮮明に頭の中に反響した。
 ニゲラはわなわなと拳を震わせると、恥ずかしさのあまりうっすらと涙の膜が張った瞳で射殺さんばかりにウィズロを睨みつける。

「絶対、封印してやるんだから……!」
『ゲヒャヒャ、できるものならばやってみせるがいい!』

 悔しげなニゲラの眼差しに、ウィズロは心底楽しげな笑い声を響かせていた。




 

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