ウィズロといっしょ! | ナノ

 自分の手すら見えない暗闇の中で、幼いニゲラはひとり泣きじゃくりながらうずくまっていた。地面に足をつけている感覚もなく、自分の声以外は何も聞こえない。手探りで進むこともままならず、彼女は大声で泣き叫びながら出して出してと喚くことしかできなかった。
 ――これは夢だ。ニゲラの中に辛うじて残された冷静な部分がそう告げる。
 彼女はこの先の展開を知っていた。こうして泣きながら待っていれば、もうすぐあの少年が闇を斬り払って助けてくれる。自分の手を引いて、あの時と同じように光の世界へと連れ出してくれる。……この夢は、いつもそうやって終わりを迎えるのだ。だからニゲラは安心して恐怖に震えていた。
 そこに、低く冷たい声が囁く。

「そう簡単に助けが来るとでも思ったか?」

 突然冷水を浴びせられたような心地になって、はっとニゲラは涙に濡れた顔を上げる。闇の中に視線をさ迷わせても、声の持ち主はどこにも見当たらない。そんな彼女の慌てようを滑稽に思ったのか、耳障りな哄笑が辺りに反響する。恐怖心をかき立てられたニゲラは息をか細く震わせると、不気味な笑い声からなんとか逃げようと力の入らない足でなんとか立ち上がった。――だが、何も見えない真っ暗闇の中、一体どこに逃げればいいのだろう。
 不意に首筋に何かが触れて、彼女はびくりと体を震わせた。冷たくかさかさとした細い棒切れのようなものを振り払おうと、ニゲラは反射的に手を跳ね上げる。だが、その腕は首筋をゆっくりと滑る何かをはね除ける前に、同じ冷たい棒切れに掴まれて動きを止めた。……そう、『掴まれた』のだ。
 ――これは指だ。それも、乾ききって干からびた死体の。それを理解したニゲラの背筋がぞっと総毛立つ。その感情の揺れを読み取ったらしく、暗闇に響き渡る笑声が一段と高まってニゲラの耳をつんざいた。
 空いているはずの腕は、恐怖のあまり凍りついてしまったらしく指先すら動かない。細く長い『何か』の指は焦らすようにゆっくりと彼女の首筋を這いながら、その細い首にぐるりと巻き付いていく。冷たい死体の手にゆるく気道を塞がれて、ニゲラは喘ぐように息を吐く。
 恐怖が限界に達した彼女が悲鳴を上げそうになった瞬間、唐突に辺りが静まり返った。嘲りに満ちた笑い声がなくなって、自分の浅い吐息だけが鮮明に暗闇に染み渡る。何も見えない。何も聞こえない。
 ――不意に、耳元に呼気を感じた。

「逃がしはせぬぞ」

 耳に直接吹き込まれた低い囁きに、ニゲラは唯一自由になる視線だけを動かしてそちらを見やる。何も見えないはずの闇の中で、視界いっぱいに広がる大きな赤い瞳と目が合った、ような気がした。




『――ニゲラ』

 低く不満げに呼び掛ける声が聞こえて、ニゲラはゆるりと目蓋を上げた。ぼんやりと霞がかった視界に、深く輝くルビーが映る。――どうやら夕食を終えて部屋に戻った後、机に突っ伏してうたたねをしてしまったようだ。

『ようやく目を覚ましたか』

 腕をついて体を起こすと、首筋の筋肉にずきりと引きつるような痛みが走った。ずっと同じ姿勢でいたせいで、どうやら固まってしまっていたらしい。ゆっくりと首をそらして凝りをほぐしていると、頭の中にウィズロの苛立ったようなぼやきが響いてきた。

『全く。私を傷物にしたばかりか、手入れをすると言っておきながらうたたねなんぞしおって……』

 不機嫌そうなその声音がどこか恐ろしく感じて、ニゲラはぎゅっと両手に力を込める。――大丈夫、あれはただの夢だ。ここは真っ暗闇なんかじゃない。ウィズロはまだ指輪のままだ。
 深呼吸をして心を落ち着けさせた彼女は、体勢を戻して机の脇に置かれたランタンに視線を移す。あらかじめ込められたラナの魔力で青白く光るそれをじっと見つめていると、夢の中から心にまとわりついてきた闇が払われていくようだった。彼女はそこでようやくここが現実であることを確認して、ほっと安堵のため息をつく。

『おい、聞いておるのかニゲラ』
「聞いてる聞いてる。もう、疲れてるんだからしょうがないでしょ。手入れなら今からやってあげるから」

 ニゲラは目を擦りながらため息をつく。目が覚めて一番に聞くのがウィズロのダミ声だというのは、覚悟はしていたがかなり苛立つものがある。これから毎日これを経験しなればならないのかと思うと、それだけで気が滅入りそうだ。
 それはそうとして、とニゲラはため息をつく。宝石に走った亀裂についてはウィズロの自業自得だ。彼が無神経にも風呂場であのような発言をしなければ――もっと言うと覗き行為などという不届きな真似をしなければ、ニゲラも怒りと羞恥心に任せて彼を石壁に叩きつけることはしなかった。……まあ、元を辿ればニゲラがしっかりウィズロの視界が塞がっているかどうか確認を取らなかったのも悪いのだが。彼女はほんのりとした罪悪感に苦笑する。
 一応悪いとは思っているのだ。相手が魔物であるとはいえ、歴史的価値を持つ貴重な宝石を傷つけてしまったのだから。ウィズロ相手に謝ると揚げ足を取られそうだから何も言わないが、せめて手入れくらいは誠意を込めて丁寧にしてやろう。ニゲラは荷物の中を漁って、宝飾品用の手入れに使うやわらかい布を取り出す。念のために荷物に入れておいて本当によかった。
 さて始めるかとウィズロに目をやった彼女は、ふと違和感を覚えて瞬きをする。

「あれ? 傷、消えてる」

 ニゲラは光に指輪を近づけて、よくよく彼を観察する。……やはり、ない。深い煌めきを放つルビーの表面はしっとりと滑らかで、風呂を出た時には確かにあったはずの亀裂は跡形もなく消え去っている。ウィズロは彼女の訝しげな視線を受けると、馬鹿にするように鼻を鳴らした。

『ふん。そこらの指輪と比べるな。あの程度の傷、私にかかれば修復することなど造作もないわ』
「へえ、すごい……」

 得意気に語るウィズロを、ニゲラは感心しながらじろじろと眺め回す。傷を自己修復できる宝石など、マジックアイテムでも聞いたことがない。さすがは意思を持つ指輪といったところだろうか。……これで憑いているのがウィズロでなく善良な精霊であれば、なおよかったのだが。

『まあ、そのための魔力源として、貴様の生命力をいくらかいただかねばならなかったがな』
「……私が眠くなったのって、それのせいなんじゃないの?」

 半眼でじろりとルビーを睨み付けるが、相手は全く堪えない様子でさもおかしげにヒッヒッヒ、と笑い声を上げている。その下卑た笑い声が癇に障って、ニゲラは眉を潜めると不愉快も露に口角を下げる。

「自分で自分を直せるなら、手入れなんて要らないよね」
『寝ぼけたことを。傷は直っても汚れは取れん。そんな単純なことも分からぬのか、クズめ』
「……いちいち腹が立つ言い方しないでよ」

 いっそ泥に手を突っ込んで徹底的に汚してやろうか。……いいや、やめておこう。それでは中身も外身も汚い指輪になるだけだ。そんなゴミ以下の指輪を始終着けているなんて、自分が耐えられない。
 やはり指輪たるもの、せめて見た目だけでも、見た目だけでも綺麗なものであるべきだ。それが古く価値のある骨董であるならばなおのこと。ニゲラは息を吐いて怒りを胸の内から追い出すと、布を右手に持つ。自分で装着したままの指輪を手入れするのは初めてだが、きっとなんとかなるだろう。

「じゃあ、始めるよ」

 彼女は声をかけると、まずは指輪の腕に布を滑らせた。あまり力を込めて擦ったりはせず、表面の水垢や皮脂汚れを少しずつ拭い取っていく。すると、ウィズロが感心したような吐息をつくのが頭の中に聞こえてきた。

『ほう、これは……なかなか上手いではないか』
「ふふん、いいでしょ。こう見えて得意分野なんだよ、こういうの」

 ニゲラは得意気に唇の端を持ち上げる。年月の経過によって細かい傷がついた金具や複雑で細かい意匠の隙間、硬いダイヤモンドからちょっとしたことで傷ついてしまう琥珀までなんでもござれ。そんな彼女の腕と知識のほどは、商品の見映えにこだわる父からも認められている。今では店に出ている装身具の手入れを全面的に任されているくらいだ。近頃は、店を訪れる客が自分の手入れした商品の美しさを賞賛するのを聞くのが、彼女の密かな楽しみだったりもする。

「でも、指輪に褒めてもらうなんて初めてかも。そっか、気持ちいいんだ。ふーん」
『ふん、調子に乗るな。誰が気持ちいいなどと言った』

 いつも通りの突き放すような言葉だが、その声にはいつもほどの険はない。ニゲラはにやにやと笑って指と金具の僅かな隙間にそっと布を差し込む。そのままゆっくりと外周をなぞり、赤い宝石を覗き込む。

「ウィズロ。ここをこうされると、どう?」
『ううむ、悪くはない……』
「力加減はどうかな、平気?」
『問題ない。続けろ』

 ウィズロの声からどんどん力が抜けていくのが伝わってくる。普段の傲慢な態度との落差が目を細めて喉を鳴らす猫を思い起こさせて、ニゲラは目を細めた。あしらわれた宝石を軽く拭えば、ウィズロが気の抜けた声で低く唸る。随分と気持ちが良さそうだ。
 ――なら、これはどうだろうか。彼女は布を一旦持ち直し、宝石と台座の境目を布越しに爪先でゆるゆると擦ってみる。するとウィズロは痛みを感じたのか小さく呻いた。

『ぐっ――そこはもう少し丁寧にやれ。私は繊細なのだぞ、もしそこに貴様の爪痕が残りでもしたらどうしてくれる』
「はいはい」

 多少の傷など自力で直せる癖に何を言っているのだ、この指輪は。ニゲラは肩をすくめてウィズロの文句を聞き流しながら、荷物の中から綿をゆるく固めた細い棒を取り出した。爪は無理でも、これのやわらかい刺激なら問題ないだろう。
 ――やがて見える範囲の汚れを一通り拭き取った彼女は、一息つくと布を手早く折り畳む。

「はい、おしまい」
『なんだ、もう終わりか』
「なあに、もっとしてほしい?」

 どこか不満げな呟きをこぼすウィズロに、ニゲラは悪戯っぽく目を細めて笑う。

「ウィズロが外れてくれれば、裏側も手入れしてあげられるんだけどなぁ」
『おお、そうかそうか! では早速――とでも言うと思ったか?』

 手入れされることによって輝きを増したルビーが、じろりとこちらを睨み上げる。あわよくば厄介払いしてやろうというこちらの意図はお見通しだったらしい。実に勘の鋭い指輪である。ニゲラは小さく舌打ちをすると布を荷物の中に突っ込んだ。

「あーあ、残念。引っ掛かってくれると思ったのに」
『誰が貴様程度の稚拙な企みなぞにしてやられるものか。この私に騙し合いで勝とうなど千年早いわ!』

 ゲヒャヒャ、と人を食ったような上機嫌な笑い声が頭の中に響き渡り、ニゲラは小さく息を飲む。普段はそこはかとなく腹が立つだけにしか感じられないその声が、ふと夢の中で聞いた哄笑と重なったのだ。――嫌なものを思い出してしまった。
 自分の姿さえ溶けるような真っ暗闇、首筋を這う乾いた手の感触、背筋を凍らせる低い囁き――彼女は苦痛に耐えるように眉を寄せると机に肘をつき、片耳を手の平で覆う。そんなことをしても気休めにすらならないことは分かっていた。脳内に直接響いてくる彼の声を、これほど恨めしく思ったことはない。

「ウィズロ」

 これ以上彼の笑い声を聞いていると、気がおかしくなってしまいそうだ。ニゲラは徐々に自分の表情が険しくなっていくのを感じながら、固く強張った声音で赤い宝石に呼び掛ける。

『どうした、腹でも立ったか? 悔しければ得意の屁理屈で――』
「ウィズロ」

 嘲りに歪んだ彼の声を遮るように、わずかに語調を強めてもう一度名前を呼ぶ。ウィズロは口を閉ざし、胡乱げな眼差しでじっとこちらを見上げてくる。――あの夢に見たものと同じ、赤い瞳のような宝石の奥から。
 もしも、とニゲラは考える。もしも先程見た夢が、自分の未来なのだとしたら。復活したウィズロによって、暗闇に閉じ込められた自分の末路なのだとしたら。悪い想像ばかりが広がって、ニゲラは自分の額をウィズロの憑いた左手で覆う。今の情けない顔を、彼に見られたくはなかった。

「ウィズロは私のこと、殺すの?」

 不意に、そんな質問が口をついて出た。今はこうして気軽に言葉を交わせる間柄ではあるものの、ウィズロはただの指輪では決してない。何十何百の命を己の糧として奪い取り、黒の魔女軍の参謀として世界を支配しようと暗躍した、れっきとした魔物なのだ。小娘の命ひとつを奪うことなど、呼吸をするのと同じくらい自然に行えるはずだ。
 ――『死よりも惨い目に遭わせてやる』。憎々しげに放たれた恨み言が、ニゲラの脳裏に再現される。

『ふぅむ。そのつもりであったが……貴様がその気ならば、私専属の手入れ師として飼ってやってもよいぞ』
「なにそれ、気色の悪い冗談言わないで」

 干からびた死体の手の握る鎖が自分の首に繋がれている光景を想像して、ニゲラは思いきり顔をしかめる。雇うならともかく飼うだなんて、とことん趣味の悪い指輪だ。

『なんだ、せっかくこの私が生き延びる道を提案してやったというに。私を畏れ敬い、恭しく跪いている限りは可愛がってやってもよいのだぞ』

 わざとらしい猫撫で声に、喉元をなぞり上げられるような悪寒がぞわぞわと走る。勘弁してほしい。いくらなんでも、指輪に飼われる人間など笑い話にもならない。そんな風に人間の尊厳を捨てなければ生き延びられないというなら、いっそのこと自害した方がましだ。
 ヒヒヒ、と不気味な笑い声が頭の中に落ちてくる。

『それとも、夕刻の取引を受ける気にでもなったか?』

 ウィズロに口があれば、三日月型に唇の端をつり上げてにたにたと笑っているに違いない。ニゲラは深呼吸をすると意識的に口の端を持ち上げ、額から左手を引き剥がしてウィズロを見下ろした。
 ――彼を父の元へ連れていき、さらなる強力な魔力の持ち主に売り渡す。彼の出したその条件を飲めば、暗闇から逃れられるかもしれない。そんなことをちらりでも考えてしまった自分を叱咤するかのように、ニゲラは短く笑う。

「それこそ、冗談だよ」

 上手く笑みを作れているかどうかの自信はない。自分自身で磨き上げたルビーの奥に潜む闇を、ニゲラはただじっと覗き込む。しばらくそうして見つめていると、やがてウィズロはつまらなさそうに鼻を鳴らした。




 

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