ウィズロといっしょ! | ナノ


 ラネール渓谷の晴れ渡った青空の下で、ニゲラは気だるげに足を止めた。その手に握られた古ぼけた地図と周囲の光景を交互に見比べた彼女の口から、長々とため息がこぼれる。
 地図にはしっかりとした道や目印が記載されているのだが、先程から目に映るのは得体の知れない不気味な形の岩ばかり。コンパスを取り出して方角を確認するも、すでに現在地すら分からない始末だ。

「うーん、地図が古すぎたのかな」

 何度も折り畳まれて広げられた跡のあるその紙を慎重に広げて、目的地の名が記されている箇所を指でなぞる。遥か昔に使われていたという古代ハイリア文字は、もう掠れてしまって半分も読み取れない。
 経年劣化して毛羽立った紙、古くなったインクの褪せた色、薄れた古代文字の流麗さ。そこかしこから香る伝承のロマンに一目で魅せられて購入した地図なのだが、今はもうその古めかしさに憎しみしか感じられない。

「……いや、ちょっと待った。もしかして、初めっから偽物掴まされてた、なんてことは――」

 ニゲラは広げた古地図をじっと見下ろす。一度疑い出すと、途端にこの骨董品の真贋が怪しく思えてきた。近頃は父の店にもよく出来た贋作が流れてくるようだし、もしかしたら有り得なくもない。
 よくよく考えてみれば、酒場でたまたま気のあっただけの男に秘境の在処が記された地図を安く譲ってやろうと話を持ちかけられた時点で怪しむべきだったのかもしれない。考えれば考えるほど、ふつふつと怒りが込み上げてくる。

「あんのインチキ商人! もしでっち上げだったとしたら、そんなの歴史への冒涜じゃない!」

 今度会ったら絶対に許して帰すものか。鼻息荒くそう心に決めながら、彼女は地図を畳むと丁寧に鞄へとしまい込む。まだこれが偽物と決まったわけではない。完全に白黒がつくその日までは、それを破り捨てることなど彼女にできるはずもなかった。
 一通り憤ったニゲラは、大きくため息をついて肩を落とす。地図が信用ならないと分かったところで、状況が改善したわけではない。この分では、魔女の谷にたどり着くこともできず、人里へ戻ることも叶わず、干からびて死んでしまうかもしれないのだ。
 容赦なく照りつける太陽にうんざりしながら視線を落とした彼女の目を、不意に小さな光が鋭く刺した。微かに感じた眼球の痛みに、ニゲラの苛立ちが最高潮に達する。

「もう、何だってのよ……!」

 うまい具合に日光を反射してくれたそれに向かって、ニゲラは思いきり足を振り上げた。が、今まさに蹴り飛ばそうとしたものを視界に収めた彼女は、目を真ん丸に見開いてその脚を真っ直ぐに下ろす。

「なんだろこれ、指輪?」

 しゃがみこんで拾い上げたそれは、煌めく大粒のルビーのはまった美しい指輪だった。どうやら男性用であるらしく、リング部分は彼女の指と比べるとかなり大きめに作られている。

「わぁ、すごい……。アンティークっぽいけど、いつの時代のものだろ。父さんに聞けば分かるかなぁ」

 懐からやわらかい布を取り出して指輪を傷つけぬよう丁寧に汚れを拭い去ったニゲラは、宝石を日に透かしたりリングの内側をそっとなぞったりしながらじっくりと観察する。
 ――なんて美しい指輪なんだろう。ルビーの表面が陽光を受けて艶かしく光る度に、深い赤の奥に潜む闇が浮き彫りになる。何度も何度も角度を変えてそれを眺めていたニゲラの眼差しが、次第に夢見るようにけぶっていく。

「……ちょっとくらい着けてみたって、いいよね」

 吐息混じりのその言葉に制止の声を上げる者がこの場にいるはずもない。彼女は震える手でそっと金具を摘まむと、ゆっくりと指輪を左手の人差し指に通した。

「きれい――」

 指を伸ばして宝石を眺め、彼女はうっとりと目を細める。見れば見るほど美しい石だ。あえて言うなら、自分の指には少々大きすぎるのが難点だが――。

『ほう、闇の魔力の持ち主か。これは都合がいい……』

 不意に頭の中に響いた声に、ニゲラははっと目を見張った。同時に、人差し指の付け根に軽い痛みを感じる。はっと指輪に視線を落とせば、先程まで大きかったはずのそれが指にぴたりと吸い付いていた。

「な、何!?」

 ぞっと背筋を凍らせたニゲラは反射的にそれを外そうとするが、指輪は爪を立てて引っ張ってもびくとも動かない。彼女の慌てふためく様を嘲るように、邪悪な哄笑が脳をつんざく。

『今更外そうとしてももう遅いわ! その魔力と魂を捧げ、我が供物となるがいい!』

 声がそう告げた直後、ニゲラは全身の力が抜ける感覚に襲われてがくりと膝から崩れ落ちた。倒れ込んだ拍子に地面に擦れた頬が痛みを訴えるが、腕に力が入らなくて体を起こすことすら叶わない。自分の中に存在する魔力と『何か』が指輪へと急激に吸い上げられていくのを感じて、彼女は混乱と恐怖に呼吸を乱れさせる。何が起きているのかさっぱり理解ができない。唯一分かるのは、この指輪に魅了されたのが間違いだったということだ。
 ニゲラが衰弱するに従って、左手のルビーが徐々に深く紅く色味を増していくのが霞む視界に映る。……自分はこの荒野で誰にも知られることなく、訳も分からないまま孤独に死んでいくのだろうか。
 ――そんなのは、嫌だ。
 じりじりと胸の奥が痛み、目の裏側が熱くなる。こぼれた涙がぱたりと落ちて、乾いた大地に吸い込まれていく。頭の中に反響する高笑いがひどく耳障りだ。視界がどんどん暗くなっていくのがまるで二度と這い上がれない常闇に落ちていくようで、ニゲラを心の底から震え上がらせた。せめて目蓋だけは閉じてなるものかと必死に恐怖に抵抗していると、不意に凛とした少女の声が耳を打つ。

「大丈夫!?」

 直後に、一方的に指輪に吸い上げられていた魔力と生命力の流れがぴたりと止まった。『魔女の片割れか』という呟きと舌打ちのような音がほんの一瞬だけ脳内をよぎり、頭の中がクリアになる。
 安堵して力の抜けたニゲラの体を、何者かが助け起こす。闇に閉じかけていた視界がゆっくりと色を取り戻し、目の前にあるものに焦点を合わせ始める。

「よかった、間に合ったみたいだね」

 初めに視界が映したのは、ほっと安堵の表情を浮かべる少女の顔だった。空の色をそのまま移したかのような髪の色と、真っ直ぐに自分を見つめる紫がかった瞳が印象的で、ニゲラは先程まで自分が死にかけていたことも忘れてぼうっと少女に見入った。
 ふと、ニゲラはその名も知らぬ少女の腕が自分を抱き上げていることに気づく。――どうやら自分は、この少女に命を救われたらしい。

「あなたは――」
「わたしはラナ。さっき、とんでもない闇の波動を感じて飛んできたんだ。そこで君が倒れてるのを見つけて……」

 ラナと名乗った少女はふっと目元に影を落とすと、ニゲラの左手に視線を移す。つられてそちらに顔を向ければ、不気味なほどに濃い赤に染まった宝石が、黙りこくったままじっとこちらを見返している。

「ウィズロ……まさか、こんなところにいたなんて」

 少女の呟いた名前にどこか聞き覚えがあるような気がして、ニゲラはゆっくりと目を瞬かせた。




 ラナがこの渓谷に住まう魔女であると知ったのは、落ち着いた場所で事情を説明させてほしいと彼女の家に招待された時のことだった。
 空間に穴を空けて移動するという常人では考えられない離れ業を目の当たりにしたニゲラは、仰天すると共に気落ちした。怪しい古地図に大枚をはたいてまで求めた魔女の住み処に、よもやこうも呆気なく辿り着いてしまうとは。……いや、生きるか死ぬかの瀬戸際を経験したのだから、呆気なくというのは少々語弊はあるが。

「……そんな危なっかしいものだったんだ、これ」

 ――テーブルを挟んで肘をつきながらラナの話を聞き終えたニゲラは、左手の人差し指にはまった赤い宝石をじっと眺める。窓から差し込む日の光を滑らかに反射するそれは、ふっと気を抜けば再び魅入ってしまいそうなほどの魔性の魅力を帯びている。
 この指輪はかつてオルディン火山でゴロン族によって封印されていたもので、ほんの数ヵ月前に終結した争乱ではウィズロという魔道士として『黒の魔女軍』に付き従っていたらしい。強力かつ卑劣な策を用いる参謀で魔物の扱いにも長け、ハイラル軍をいたく苦しめたのだそうだ。
 戦乱を終えてようやく平和になった今、ラナはゴロン族に頼まれて、そのウィズロの本体であるこの指輪を再び封印するために探し求めていたのだという。

「ゴロン族のみんなによるとね、それは元々持ち主を惑わしてその魂を吸ってきた、呪いの指輪だったんだって」

 例えウィズロという存在でなくなろうと、そのような危険なものを放置していればいずれさらなる被害が出かねない。それを危惧したラナ達は、彼を最後に討ち倒した聖剣の神殿を中心に懸命に捜索活動を続けていたのだ。……まさかそれが、自分の本拠地であるラネール渓谷にあるとはつゆとも知らず。
 知らなかったとはいえ、とんでもないものに手を出してしまったものだ。ニゲラの口から疲れきった吐息がこぼれる。

「大丈夫、ニゲラ? やっぱり横になった方が……」
「あ、平気平気。こう見えて体力には自信がある方なの」

 ニゲラはへらへらと笑って手を左右に振る。ラナに救出された直後は指一本動かせないほど衰弱していた彼女だったが、今ではこうして椅子に腰かけるのも問題ない程度には回復している。魔力はまだすっからかんだが、この調子なら明日になれば全快しているだろう。

「それにしても、厄介なのに引っ掛かっちゃったなぁ。これ、ラナの魔力でなんとか外せない?」
「うーん……難しいなぁ。間違って指ごと消し飛ばしちゃいそう」
「……指ごと?」

 ニゲラの手を取って軽く指輪を引っ張りながら、ラナが恐ろしいことを口走る。あれほどの魔力を持っている魔女なのだ、ついうっかり力加減を誤って――などという事態も考えられなくはない。「一回くらい試してみてもいいんじゃないかな」などと言いながら笑顔を見せるラナの手から、ニゲラはそっと手を引き抜く。

「いいや、遠慮しとく」

 できることなら歴史的価値のあるアンティークとして例のインチキ商人に高額で売り付けてやろうと思ったのだが、外せないのならば今回は潔く諦めよう。さすがに指を一本失うのは痛い。

「……ところでさ、ラナ。話は変わるんだけど」

 ニゲラはうんざりした表情で指輪を眺める。

『ええい、とんだ計算違いだ。まさか貴様の魔力がこれほど貧弱だとは思わなんだぞ。これでは貴様の魂ごと奪い尽くしたとしても、白の魔女から逃げることすらままならぬではないか。せっかくの復活の機会を台無しにしおってからに――』

 延々と続く小言がさすがに鬱陶しくなってきて、ニゲラは閉口して宝石を軽く指で弾いた。『ギャッ』と小さな悲鳴を上げて静かになったウィズロに、彼女はあからさまなため息をつく。

「この指輪、さっきからずーっとグチグチ言ってるんだけど……やっぱり聞こえない?」
「えっ?」

 ラナはきょとんと目を瞬かせる。その表情から察するに、どうやら本当に聞こえていなかったらしい。ハイラル軍への罵倒やら黒の魔女による自分の扱い方への愚痴やらでさんざん茶々を入れていにも関わらず、ラナがなんの反応もしないのはさすがにおかしいと思っていた。うっすらと感じていた違和感にようやく確証が持てて、ニゲラは肩の力を抜いて笑う。……ウィズロの茶化しを徹底的に無視して話を続けるラナ、という図式もなかなかシュールで面白かったのだが。

『……貴様、調子に乗るなよ。私がその気になれば、その命を一瞬で消し去ることもできるのだからな』
「ふふん、できるもんならやってみなさいよ」

 痛みから復活したらしく、ウィズロが低く呻くような声で脅しをかけてきた。ニゲラは余裕たっぷりの笑みでそれを笑い飛ばしながら、逆に挑発をしてみせる。
 彼自身の言葉が確かならば、ニゲラの魂を奪ったとしても彼が指輪から『ウィズロ』に戻ることは不可能だ。そんな状況でニゲラを殺してしまえば、躊躇う必要がなくなったラナによって再封印されてしまうことは目に見えている。
 つまり、ウィズロは文字通り手も足も出ないということだ。そんな八方塞がりの状態で凄まれても、恐怖も何も感じようはずがない。

『今に見ておれ、クズめ。私が復活した暁には、死よりも惨い目に遭わせてやる』
「はいはい」

 ぶつぶつと物騒な恨み言を呟くウィズロにニゲラは適当な相づちを返す。
 指輪を見つめて独り言を呟いているニゲラを不思議そうな眼差しで眺めていたラナは、ニゲラが顔を上げると困ったように笑いながら頬をかいた。

「ごめんね、やっぱりわたしには聞こえないみたい。ねえニゲラ、ウィズロはどんなこと言ってるの?」
「うーん、そうだね……」

 どう伝えたものだろうか、とニゲラは指輪を見下ろした。すると真っ赤な指輪が光を艶かしく照り返して、彼女をじろりと睨み返す。

『ふん。確かに私は貴様らに手出しはできぬが、それは貴様らとて同じこと。この機に貴様の僅かな魔力を奪い続けて力を蓄え、復活の糧としてくれるわ!』
「……悪いこと、かな」

 ゲヒャヒャ、と美しい指輪に不釣り合いな邪悪な高笑いが頭の中に響いてくる。あまりの落差に、ニゲラは堪えきれずに噴き出してしまった。




 

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