短編 | ナノ

(アズマ様リクエスト)

※長編『魔王に捧ぐ硝子の花』第一部のifエンド設定のため、ネタバレが含まれます。




 アヤメのしゃくり上げる静かな音だけが、真っ白い光で満たされた空間をわずかに震わせる。声を出さぬように抑えられた嗚咽は、遮蔽物のないこの世界では響くことなく染み渡るばかりだ。ガノンドロフは自分の胸ですすり泣く彼女の髪をゆるゆると梳きながら、物思いに耽るような眼差しで白い虚空と彼女の髪の分け目を交互に見やっていた。
 ――そうしている内に、アヤメの泣き声が徐々に小さくなっていった。彼女は一度ガノンドロフの胸甲についた手を強く握ると、大きくゆっくりと深呼吸をする。

「落ち着いたか」

 アヤメは小さく頷き、そっとガノンドロフの胸元から顔を遠ざける。

「……はい、なんとか」

 袖口で乱暴に涙を拭いた彼女は、濡れた瞳でガノンドロフを見上げて笑った。泣き腫らした目元や真っ赤になった顔は見られたものではないだろうが、これまでも散々弱った情けない姿を晒してきたのだ。今更である。

「ごめんなさい。胸、お借りしちゃって」
「全くだ」
「あはは……汚さなかっただけマシだと思ってください」

 相変わらず辛辣なガノンドロフに、アヤメは照れ臭そうに苦笑をにじませる。
 ――空間の裂け目に飲み込まれる直前に彼女が目にしたのは、悲痛な顔で手を伸ばすリンクと、今にも泣き出しそうな表情のゼルダだった。白い光の中に溶けゆく二人の姿を見た瞬間、様々な感情がアヤメの胸に一気に溢れ出した。
 痛み、悲しみ、後ろめたさ――身が引き裂かれるほどの思いの洪水に耐えきれなくなったアヤメは、トライフォースの暴走が収まって人の姿に戻ったガノンドロフを見るなり、その胸ぐらに掴みかかって泣き出したのだ。
 初めはそんなアヤメの唐突な行動に戸惑いを見せていたガノンドロフだったが、彼女はそんなことなどお構いなしにはらはらと涙を流し続ける。やがて彼は呆れたようにひとつため息をつくと、何も言わずに震える肩に手を置いた。そうして時折彼女の髪をもてあそびながら、泣き止むのを辛抱強く待っていてくれたのだ。その間彼は気の利いた言葉のひとつもかけてはくれなかったが、アヤメにはそれが逆にありがたかった。
 ガノンドロフはアヤメのやわらかな髪から手を離すと、熱を帯びた彼女のまなじりを無造作に親指で擦る。

「愚かな女だ。泣くほど辛いのならば、あちらに残ればよかったものを」
「馬鹿なこと言わないでください」

 苦い顔で吐き捨てられたガノンドロフの言葉を、アヤメは軽く笑い飛ばす。

「そりゃあもちろん、辛いですよ。散々泣いて一応は吹っ切れましたけど、あの子達のことを思うと……やっぱり、胸が苦しくてたまらないです」

 きっと、リンクやナビィは今頃途方に暮れているに違いない。ゼルダから子細を聞いて、どうして打ち明けてくれなかったんだと嘆き悲しんでいるかもしれない。ゼルダにしても、友人ごとガノンドロフを封印するという重荷を背負わせてしまった。もし、彼女がそれを忘れることができず、一生引きずっていくことになったとしたら――。
 もう会って彼らに謝ることもできないのだと思うと、罪悪感で息ができなくなりそうだ。

「――でも、後悔はしてません」

 それでも、アヤメはガノンドロフを選んだ。友を裏切り、悲しみと苦悩に身を引き裂かれると分かっていても、彼と共に生きる方を取ったのだ。
 だから、もう振り返らない。自分と自分を取り巻く人々がどうなろうと、彼女は決してこの選択が間違いだったとは思わないだろう。
 軽く目を見張ってアヤメの強気な笑みを見つめていたガノンドロフが、不意に喉の奥で笑った。

「貴様は真性の愚か者だな」
「ふふ、天下の魔王様に惚れるくらいですからね」
「どういう意味だ」
「言葉通りの意味ですよ」

 眉を寄せるガノンドロフに、アヤメはくすくすと笑い声を上げる。ひとしきり笑い終えた彼女は、ふっと息をついて虚空に目を向けた。細められたその瞳が、憂いに小さく揺れる。
 ……後悔はしないと言ったが、やはり残してきた彼らのことは気がかりだ。泣いていないか、打ちひしがれてはいないか、これからちゃんと前を向いて歩いていけるのか――。そんなことに思いを巡らせていると、突然がしっと顎を乱暴に掴まれた。痛いと感じる間もなく強引に顔の向きを変えられ、金の瞳が間近に迫る。

「オレを見ろ、アヤメ」

 先程とは別の意味で息ができなくなったアヤメに、ガノンドロフはさらに顔を寄せる。その瞳の奥に燃える怒りにも似た色に、彼女の頭が真っ白になる。

「その瞳も、心も、貴様の髪の毛一筋に至るまでオレのものだ。二度と見ることも叶わぬ奴らのことで貴様が心を煩わせるなど、許すものか」

 ガノンドロフの強い言葉と眼差しが、アヤメの体を縛り付ける。いつかと同じ――いや、それ以上に幾重にも、がんじがらめに。

「貴様はただ、オレだけを見ていればいい」

 吐き捨てるようにそう告げて、ガノンドロフはアヤメの顎から手を離した。ふっと呼吸が楽になったその瞬間、彼の言葉の意味を理解して彼女は顔中に血が集まってくるのを感じた。込み上げてくる照れをごまかそうと、アヤメは茶化すように笑う。

「なんですか、それ。さっき私を突き飛ばそうとした人の言葉とはとても思えませんね」
「ふん」

 ガノンドロフは顔をしかめて不機嫌そうに目をそらす。
 今まさに封印されようとしていたその時、魔獣となっていた彼は何を思ったか、傍に寄り添うアヤメを振り払おうと腕を振り上げた。その行動に気づいたアヤメが咄嗟に距離を詰めて抱きついていなければ、彼女の体はたやすく吹き飛ばされていただろう。……もし間に合わなかったらと思うと、心の底からぞっとする。
 薙ぎ払われかかったその瞬間に見たものを、アヤメは確かに覚えている。凶暴な獣の狂気に混じって、彼の瞳には微かに意思の光が戻っていたのだ。
 理性を取り戻したにも関わらず、ガノンドロフは何故そんな行動に出たのだろうか。今の彼の言動を見れば、その答えは自ずと見えてくる。
 ――自分だけを見ていろ。執着心と独占欲も露な彼の言葉に、アヤメは潤んだ目を細める。

「言われなくても、私にはもうガノンドロフさんしかいないんです。だから――」

 一度言葉を切って、相手の顔をまっすぐに見上げる。

「だから……最期まで、ずっと傍にいさせてください」

 アヤメは知っている。魔王ガノンドロフは、長い時を経て再びハイラルの地に舞い戻るだろう。闇に侵食されたハイラルがやがて神々に滅ぼされることも、さらに遠い未来で彼が一人の小さな勇者に打ち倒されることも、彼女は知っていた。海の底に沈んだハイラルと共に、時代に取り残された魔王はその長く孤独な生に幕を下ろすのだ。
 全てを知ってなお、アヤメは彼に寄り添って生きていこうと決意した。それが、彼以外の者全てに背を向けた彼女に唯一残された選択肢だった。
 ガノンドロフはアヤメの笑みを見下ろして、鼻で軽く笑った。

「オレの制止をものともせず、このような場所にまで着いてくるのだ。覚悟の有無は問うまでもないな」
「ふふ、当然です。そう言うガノンドロフさんだって、もう私を手離すつもりはないんじゃないですか?」

 悪戯っぽく言ってみれば、ガノンドロフはふっと笑みをこぼしてアヤメの頬にそっと触れた。

「そうだな」

 微かな苦みの混じったその表情に彼の本心を見て、アヤメはくすりと笑う。頬に添えられた彼の手に指で触れた彼女は、溢れるような幸福感が胸に空いた穴を満たすのを感じた。
 ――今この時、アヤメは正真正銘ガノンドロフのものとなった。もう二度と、互いが離れることはないだろう。だから彼女は彼の金の瞳を見上げ、迷うことなく誓いの言葉を述べる。

「愛しています、ガノンドロフさん。例え世界が滅んでも、私はあなたの隣にいます」
「……今更だ」

 小さく笑みを交えたその声音に、アヤメは心地よさげに微笑んでそっと目を閉じた。




 ――目蓋を開いたアヤメの瞳に映ったのは、徐々に黒く染まりゆく空と、暗くのたうつ海だった。重たげに繰り返す潮騒の音が世界を満たしているのを感じながら、彼女はふっと息をついて遥か彼方の水平線を眺める。

「ここにいたか、アヤメ」
「――あら、ガノンドロフさん」

 背後から聞こえてきた声に振り返ると、ゆったりとした袖を海風になびかせながらガノンドロフが歩み寄ってきていた。彼はアヤメが薄着でバルコニーに立っているのを見て露骨に顔をしかめる。

「そこで何をしている」

 その問いに、彼女はくすくすと笑って答えた。

「ちょっとカモメを操ってました」
「……カモメをか」

 ガノンドロフは渋い顔をして、そこらを飛んでいるカモメを見上げる。先程までアヤメが操っていた一羽は、今はその群れの中に交じってもうすっかり見分けがつかない。
 カモメを操るのに使ったヒョイの実は、先日偵察に行った島で会った、やたら胡散臭い行商人から手に入れたものである。遠い過去となった『風のタクト』の記憶の中でも一際印象的なアイテムだったので、見かけた瞬間つい衝動的に購入してしまったのだ。
 魔獣島に戻ってから冷静になってちょっぴり後悔したものの、そのまま腐らせるよりはと試しに使ってみた訳である。
 今思うと、なかなかいい買い物だった。ジークロックの背に乗ってダイナミックに飛ぶのも悪くないが、カモメの視点を借りてのんびりと空を散歩するのも楽しい。それに、普段歩いていては見られないような魔獣島の様々な場所を、細部までじっくりと堪能できるのだ。

「ふふ、ガノンドロフさんが読書してる姿もバッチリ見えてましたよ」
「あの時感じた妙な視線は貴様か」

 彼は呆れたように眉を寄せてため息をつく。

「そのような回りくどい真似をせずとも、部屋に来ればいつでも見せてやるというに」
「だって、私が部屋に行ったらいつも本読むのやめちゃうじゃないですか」
「貴様が構ってほしそうにするのが悪い」

 意地悪く笑ってみせたガノンドロフを、アヤメは不貞腐れたように軽く睨みつける。

「もう、ああ言えばこう言うんですから」
「ふん」

 ガノンドロフが鼻で笑ったその時、耳をつんざくような鳥の鳴き声が遠く聞こえてきた。二人が広い夕闇空に視線を向けると、仮面をつけた巨大な魔鳥――ジークロックが大海原の彼方から戻ってくる姿が目に映る。
 鱗が連なったような長い尾羽を揺らしながら、ジークロックは魔獣島の一画にある己の巣にゆっくりと舞い降りた。その様子を眺めつつ、アヤメは愛しげに目を細める。

「ジークロック、大きくなりましたね。最初はあんな小さな雛だったのに」
「ああ。……そろそろ、動き出すべきかもしれんな」

 ガノンドロフの静かな言葉に、アヤメはゆっくりと頷く。
 ――また、物語が動き始める。彼女の脳裏に、もうすっかり色褪せてしまった大昔の記憶がおぼろげに甦る。かつてハイラルではない世界にいた頃に知った、これから起こるはずの未来の出来事。長い時を経てストーリーの記憶は穴空きだらけになってしまったが、その結末だけは今でも鮮明に覚えている。
 アヤメはガノンドロフの目をまっすぐに見上げて、やわらかく笑いかける。

「どんな結末になろうと、私はあなたの隣にいますからね」
「ふん、分かりきったことを言うでない」

 ガノンドロフは自信に満ちた眼差しでアヤメを見下ろすと、流れるような仕草で彼女の薄い肩を抱き寄せた。

「中に戻るぞ、アヤメ。夜の海風は冷える」
「……はい」

 自分に触れる確かな温もりに、彼女は頬を淡く染めて小さく吐息をつく。残された時を惜しむようにそっと体を寄せれば、低く穏やかな笑い声が頭上から降ってきた。
 ――例え世界が滅んでも、最期まで。ふたりきりの世界で交わした誓いを果たす時は、もうすぐそこまで迫っていた。





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