短編 | ナノ

 細く長い指が焦らすようにゆっくりと鍵盤に触れ、奥へと押し込む。瞬間的に力を込めているらしく、鳴らされた音は消え入ることなく綺麗に響いた。真っ直ぐに伸びるその音を追いかけて、右手の指がこれまたスローモーションで鍵盤を叩く。楽譜の指示するテンポをまるきり無視して弾いているにも関わらず、リズムの乱れは一切ない。それどころか、曲としての美しさが欠片も損なわれていないのだ。弾き手であるアマデウスの技巧の素晴らしさがうかがい知れる。

「酔いどれオヤジが地べたを這いずり回るくらいの速さで弾いてるんだ。この部分なら音も少ないから、君でもすぐ覚えられるだろうさ」

 アマデウスはペースを崩すことなく、横に立つアヤメを見上げる。その手元を穴が空きそうなほど真剣な眼差しで見つめていた彼女は、相手の試すような言葉を鼻で短く笑い飛ばした。

「ズブの素人を甘く見てもらっちゃ困りますね、アマデウスさん」
「あはは。得意気に言うことじゃないと思うな、そういうのは」

 きっかり四小節だけ演奏して手を持ち上げたアマデウスが、尻をずらして隣の折り畳み椅子に体を移す。アヤメは彼が先程まで座っていたピアノ椅子に浅く腰掛けた。服越しに感じた椅子の温もりに意識を取られそうになったが、鋼鉄の意志でその感覚を振り払う。

「半分は冗談です。余計なお喋りさえしなきゃ、しっかり覚えてみせますよ」

 緊張をまぎらわせようと細く息を吐いて、彼女は記憶をなぞるようにゆっくりと指を動かし始めた。アマデウスの奏でた美しい音色とは比べるまでもなく拙い音である。だが教育者であるはずのアマデウスは音の出来映えに頓着する様子を見せず、ただ楽しそうにアヤメのたどたどしい演奏を眺めている。
 ――アヤメはそもそも、楽譜を読むのが苦手である。初っ端でそう知ったアマデウスは、散々笑い転げた後で『目と耳で覚える』よう提案してきた。彼の弾いている手の動きと奏でる音を脳に刻み込めという、要はただの無茶ぶりである。
 だが、アマデウスに押し切られて物は試しと始めてみたそれは、思いのほかアヤメの性に合っていた。音の全体像が分かる。指の踊らせ方が分かる。たったそれだけのはずなのに、自分で一音一音確かめながら弾いていた時とは進み具合が段違いなのだ。看板を頼りにまっさらな雪道を歩き回るより、前方の足跡を追っていった方がずっと速い。そんな簡単なこと、もっと前に気づいておくべきだった。……気づいたところで、手本となるべき人物がどこにもいなかったのだからどうしようもないのだが。

「えっと……」
「ここはこう」

 指の位置を迷わせたアヤメの右隣でアマデウスの手が閃く。高く澄んだ音色に耳を澄ませながら、その長い指が押す鍵盤を記憶する。彼が腕を上げるのと入れ替わるように、アヤメは再びピアノに両手をかざした。できれば生徒が自力で答えを導き出すのが不可能だと判断するまで正解の提示を待ってほしいところなのだが、文句を言えるような立場ではないことは重々承知している。
 先程迷った箇所を乗り越えてなんとか弾き終えれば、彼は楽しそうに目を細めて頷いた。

「うんうん。相変わらずガッチガチで不細工な音色だけど、音階だけはバッチリだ。で、そこから先はこんな感じ」

 椅子から退いたアヤメの後に腰を落ち着けて、アマデウスは流れるように次の四小節を演奏しだした。その指先の繊細な動きに気を取られかけて、アヤメは一度だけぎゅっと強く目をつむって邪念を払う。……これさえなければ、指導にももっと集中できるというのに。




 最初に教わったフレーズの記憶が薄れてきた頃、単調なアラームが二人の間に割って入った。唐突な電子音に驚いたアヤメの手元で、鍵盤が盛大に音を外す。……最後の最後でヘマをした。彼女は落胆を隠しつつピアノ椅子から立ち上がり、天板に置いていた端末を操作して音を止める。

「今日はここまでですね。ご指導、ありがとうございました」
「礼には及ばないよ。ちゃーんと報酬もいただいてるしね。ま、雀の涙もいいとこだけど」

 その雀の涙で構わないと言ったのはどこのどなただ。アヤメは親指と人差し指で俗な輪っかを作るアマデウスに向かって小さく鼻を鳴らす。
 ――それにしても、もう少し進むペースを速められないものだろうか。アヤメは浅くため息をついて、譜面台に広げられた楽譜に目をやる。ようやく二ページ目に差し掛かったアヤメにとって、終止線までの道のりは果てしなく遠い。アマデウスに手を引かれながらそこまでたどり着いたとして、通しで演奏できるようになるにはまだまだ時間がかかるだろう。

「やっぱり予習復習はやっとかないと、ですよね」

 すると、折り畳み椅子を無造作にどけていたアマデウスが顔を上げる。

「でもさ、そんな時間も取れないんだろう? ただでさえここにはたまにしか来れないのに、マスターがレイシフトしてる最中なんかずっと管制室に缶詰めだし」
「そう、問題はそこなんですよ」

 アマデウスの指摘した通り、アヤメには時間がなかった。
 現在のカルデアは、残された職員が全力で動かないと回していけないほど切羽詰まっている。所長代理となったロマニ・アーキマンの指揮によってなんとかやっていけてはいるが、それでも人員の減った影響は軽視できないほど大きい。
 専門外の作業、常態化した徹夜、積み重なる疲労――。よしんば体が空いたとしてこの部屋に寄る気力など残されているはずもなく、せいぜい自室で死んだように仮眠を取るのが関の山である。
 だから、こうしてアマデウスのレッスンを受けられるのも週に一度、それも一時間が限度なのだ。それ以上体力を削ることは、集中力の欠如によるミスを――ひいては、人類最後の希望の消失すらをも引き起こし得る。カルデアの一員として、残された人類の一人として、それだけはなんとしてでも避けなければならなかった。
 だがアヤメとて、この現状に対して何も策を講じることなくただ漫然と過ごしていたわけではない。

「……なんだい、その不気味なニヤケ顔は」
「不気味とは失礼ですね。――ほらこれ、見てください」

 アヤメは楽譜を入れるために作った手提げ鞄から、折り畳まれた一枚の紙を引っ張り出した。それを広げれば、白と黒で彩られた規則的な模様が露になる。恐らく見覚えのありすぎるであろうそれに、アマデウスは「おお」と目を瞬かせる。

「ふふふ、驚いたでしょう。いかがですか、カルデアの技術の粋を結集して作り上げた最高傑作は」
「いや技術の粋しょぼすぎだろ!」

 アヤメの渾身の冗談が綺麗にツボに刺さったらしく、アマデウスが盛大に噴き出した。アヤメはにやりと口角を持ち上げ、ピアノの鍵盤に覆い被せるようにそれを敷く。寸分の狂いもなく、その紙の模様は下の鍵盤と重なった。
 ――そう、なんということはない。コピー用紙とカッターナイフとセロハンテープを駆使して作った、それは世界で最もチープな鍵盤の模造品であったのだ。
 体を折り曲げてひとしきり笑ったアマデウスは、ひーひー言いながらピアノにすがって上体を起こし、いくらか血色のよくなった白貌を彼女に向ける。

「いやあ、笑った笑った。君ってば、いかにも人畜無害な顔しといてソレだからなぁ。油断も隙もないったらありゃしないぜ」

 揶揄するようにつり上がった唇を横目に見やって、アヤメは肩を竦める。魔術などという道ならぬものに手を染めている時点で、人畜無害も何もあったものではない。
 アマデウスは立ち上がって腕を伸ばすと、指で軽やかに紙面を叩く。ぽそぽそと乾いた音しか鳴らないのは残念だが、そこにさえ目をつむれば鍵同士の隙間まで完璧に再現した珠玉の一品である。その努力の跡が彼にも伝わったのだろう。「変なトコにこだわるもんだ」などとぼやく口とは裏腹に、楽しげな色が瞳の中で躍っている。
 ――さて、最後の仕上げだ。アヤメは自身の通信端末を構え、ビデオ機能をオンにする。その微かな起動音を耳敏く聞き取ったらしい、こちらを振り返ったアマデウスの眉が画面の中で怪訝そうに持ち上がる。

「後はアマデウスさんのお手本をこれに収めれば、『どこでも簡単自習キット君』の完成です」
「……ふうん。なるほど、そう来たか」

 満を持して己が企みを暴露すれば、アマデウスはにんまりと唇の端をつり上げた。笑みの形にすっと細められた瞳に、アヤメは背に冷たいものを覚える。――さすがに、今回は調子に乗りすぎただろうか。

「仕方がない、今回だけの特別公演だ。心して撮っておきたまえよ、アヤメ」

 やわらかく笑った彼が紙鍵盤を取り去り、手早く畳んで閉じたままの天板に置いた。その指先が天使の悪戯めいた軽さで最初の鍵盤に触れる。――意外にも乗り気であったらしい。彼の安請け合いっぷりに呆気に取られかけた彼女だったが、そのほっそりとした指にわずかに力がこもるのを見て取って、慌てて録画をスタートした。




 端的に感想を述べるならば――よかった。そう、よかったのだ。優しく軽やかで繊細で――例えるなら耳の肥えた数多の音楽家が天上の調べだと口を揃えて絶賛してもおかしくはない、それはそれは美しい音色だった。音楽に造詣の深くないアヤメでさえ、手を叩いて賛美の言葉を連ねたいほどである。
 ……ただひとつ。ただひとつだけ問題があるとすれば。

「がっつりアレンジ入れたでしょう、アマデウスさん」
「うーん、やっぱりバレたか」

 アマデウスは目を細め、人好きのする笑顔をこちらに向ける。悪気など欠片も感じられないその目つきに呆れて、アヤメは軽くため息をついた。

「あれだけド派手に変えておいて、むしろどうしてバレないと思ったんですか」
「だって君、最後まで大人しく聴いてただろ? だからイケると思って」
「そりゃあ、だって、まあ。……綺麗でしたから」

 アマデウスは唇の端を持ち上げてにまにまと嬉しそうに笑っている。何やら無性に悔しくなって、アヤメは動画データを保存した端末を胸元に抱いてそっぽを向く。無論、つんと唇をとがらせて不貞腐れたことを主張するのも忘れない。

「もう。せっかく弾いてくださったのに、これじゃ教材にできないじゃないですか」

 星のきらびやかに舞う装飾音だけならまだしも、まさか変調やら変拍子やらをひたすら詰め込んでくるとはさすがのアヤメも想定外だった。こちらの求めているのはあくまでも練習用の手本である。似たようなテーマの繰り返しにも関わらず全く聴衆を飽きさせない弾き口は感服しきりなのだが、楽譜通りに引いてくれなければ使い物にならない。
 次こそはちゃんとしたモノを撮らなければ。アヤメは端末をいじり、必要な容量がまだ残っているかどうかを確認する。……あと一曲分ならなんとかなりそうだ。

「別にわざわざ動画にしなくてもいいと思うんだけどなぁ」
「でも、それじゃ練習がろくに……」

 抗議しようと顔を上げたアヤメは、だがこちらをまっすぐに見るアマデウスの眼差しに言葉を詰まらせた。

「練習したけりゃ、いつでもここに来ればいい」

 笑みを含んだ声音は、眼差しと同じくあくまで軽やかだ。

「だってほら。お手本だろうが子守唄だろうが、ここなら望んだ時に望んだだけ聴かせてあげられるじゃないか。どうかな、ただの動画よりずっと役に立つと思うんだけど」

 その言葉の意図するところを一拍遅れて読み取ったアヤメは、変な形に歪みそうになった口元を思わず片手で隠した。指先に軽く触れた頬がやたらと熱い。眉を寄せて睨みつければ、相手はへらりと笑みを返してきた。その軽薄な口元を見ていると、無性に腹が立ってくる。
 ――ああ、なんということだ。してやられた。完全に上手を取られた。こちらの不規則なスケジュールに付き合わせるのは申し訳ないからと気を回したはずが、全て無駄だったというわけだ。

「その言葉、覚えましたよ。深夜だろうが早朝だろうが、遠慮なく付き合ってもらいますからね」
「……ヤバイな。早速逃げ出したくなってきたぞ」

 憎たらしい男め。早くも前言撤回する気配をちらつかせるアマデウスを横目に、アヤメはふんと鼻を鳴らす。――だが、こちらがちっとも気分を害していないことすら、面白がるように煌めくその瞳にはきっとお見通しなのだろう。





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