短編 | ナノ

(旅装ネタ)

 ドアを開いた先に佇んでいた伊達男に、アヤメは心臓の鼓動と言葉を同時に失った。
 顔全体に陰鬱な影を落としていた前髪がざっくりと大胆に分けられ、秀でた額が惜しげもなくさらされている。それだけでも雰囲気ががらりと変わるというのに、駄目押しとばかりにスクエア眼鏡まで装備しているのだ。ずるいにもほどがある。
 すらりとした長身を包むのは、普段と趣向を変えたショルダーストラップ付きのダブルスーツ。中に着込んだ赤いタートルネックや右肩にあしらわれた華やかな飾緒が、彼の堅苦しい印象を洗練された魅力へと昇華させていた。
 生真面目そうに寄せられた眉頭が、こちらを認識してわずかに開く。

「ああ。すまない、マスター。霊基の調整に思ったよりも時間がかかってしまったようだ」
「あ――い、いえ。時間まではまだだいぶありますし」

 声をかけられてようやく、アヤメは自分がサリエリを迎えに来たことを思い出す。集合場所に向かうついでにと顔を覗かせたのだが、まさか映画俳優もかくやといった色男ぶりを見せつけられるとは思わなかった。

「どうだろう。マスターの目から見て、旅行きに相応しい装いになっているか? これから向かう地の人々に奇異の目で見られはしないだろうか?」

 洒落た赤の革手袋に包まれた指で、彼は涼やかになった自分の襟足にさらりと触れた。秀麗な顔が傾くとその首元にもうひとつ鮮やかな赤が垂れて、アヤメの心臓がどきりと跳ねる。――血、ではない。サリエリが後ろ髪を細いリボンでゆるく結っていることに、彼女はそこで初めて気がついた。

「その……とても、素敵だから。大丈夫だと、思います」

 むしろ別の意味で目立つかもしれないが、それは言わぬが花だろう。どぎまぎしながらアヤメは言葉を紡ぐ。

「ふむ。ふぅむ。そうか、我がマスターはこれもお気に召したか」

 称賛と呼ぶにはほど遠いたどたどしい言葉でも、どうやらサリエリにとっては喜ばしいものだったらしい。何度も頷く彼の表情はどことなく満足げだ。
 これほどまでに素直に受け取ってくれると、なんだかこちらまで嬉しくなってしまう。つられて口元をゆるめたアヤメの視界がふと、簡易ベッドに備え付けられたサイドテーブルを捉える。その上に載ったバイオリンケースの中から、付箋で大量にブックマークされた観光雑誌がはみ出ていた。……表紙には『定番から穴場まで! 絶対に外せないスイーツ店特集!』と可愛らしいポップな文字が躍っている。

「ところで、ひとつ構わないだろうか」
「な、何でしょう!」

 反射的に肩が揺れ、ひやりとしたものが背を伝う。――私は何も見なかった。見なかったのだ。抱えてしまった後ろめたさがバレないように、アヤメは愛想笑いを頬に貼りつける。
 サリエリは身を屈め、アヤメと目線を合わせるように顔を近づけた。彼から何かを提案される際にお決まりとなっている体勢だが、いつもと雰囲気が異なるせいだろう、心臓が途端にせわしなく動き出す。タートルネックの胸元で揺れた金のドッグタグが、室内灯をちかりと反射してアヤメの目を眩ませた。

「出先で『マスター』と呼ぶのはいささか悪目立ちする。故に、名を呼ぶ許しを得たいのだが」
「え、あ……ああ、言われてみれば。それくらいでしたら、お安いご用です」
「では」

 サリエリは口元に拳を当てて一度、二度、と軽く咳をする。眼鏡のレンズ越しに、緋色の瞳がアヤメを見据えた。

「アヤメ」
「――はい」

 返事と共に口から飛び出しかけた鼓動を辛うじて飲み込んで、平静を心がける。……だが、何分この近さだ。顔が赤くなっているのは恐らくバレているだろう。緊張を帯びていたサリエリの目元がほんの微かにやわらぐのだって、この目ではっきりと見て取れるくらいなのだから。
 サリエリはアヤメの反応に気を良くしたのか、まるで覚えたての言葉で子供が遊ぶようにひとつの名を繰り返す。

「アヤメ、アヤメ、アヤメ――」
「ま、待って、ちょっと待ってください、心臓が」

 低く豊かな声音で囁く口を塞ごうと持ち上がった手首が、そのまま彼に捕らえられる。革手袋のこすれる静かな音がいやに鼓膜に響いた。
 サリエリは目をそらさない。

「もうしばし耐えてくれ。何分、舌に馴染みのない響きでな。――アヤメ」

 ひい、と彼女の喉奥から情けない悲鳴がこぼれた。





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