短編 | ナノ
(2015ポッキーの日)
「ガノンさん、今日はポッキーの日ですよ」
唐突なアヤメの言葉に、机に向かって何やら書き留めていたガノンドロフがおもむろに顔を上げた。彼は場違いな道化師でも見るような呆れた眼差しで笑顔のアヤメを見やる。
「ポッ……なんだと?」
「ポッキーの日です。ということで、ポッキーゲームしましょうよ」
彼女はにこにこと満面の笑みを浮かべながら、背後に隠していたものをガノンドロフの前に差し出した。左手にポップな意匠の施された箱を持ち、右手にチョコレートでコーティングされた細いスティックタイプのスナック菓子を一本つまんでアヤメは微笑む。この忙しい中、わざわざ城下町まで出向いて買い求めたのだ。嫌とは言わせない。
「なんだそれは」
「これの両端を二人でくわえてお互いにちょぼちょぼ食べていって、先に口を離した方が負けです」
「……最後まで食べきったらどうする」
「キスして終わります」
当然じゃないですか、とでも言いたげな顔つきのアヤメに、ガノンドロフは心底呆れたような眼差しを送った。
「くだらん遊びなら貴様一人でやっていろ。オレは今忙しい」
「一人じゃできないって分かってて言ってますよね、それ」
アヤメの文句などどこ吹く風で、ガノンドロフは知らぬ顔で机上の書類に視線を戻した。どうやらこちらを無視して仕事を再開するつもりらしい。させてなるものか、とアヤメは机を回り込み、甘えるように彼の太い二の腕に手を滑らせる。
「いいじゃないですか。ほら、一分もしないで終わりますから。ちょっとした息抜きだと思って、ね?」
正直なところ、アヤメは触れ合いに飢えていた。このところ、ガノンドロフもアヤメも疲れを取る暇がないほど働きづめなのだ。ちょっとくらい休憩がてらに遊んだとしても誰も文句を言わないだろう。
するとガノンドロフは唸るようなため息をつき、じろりと脇にいる彼女を睨んだ。
「そもそも、その記念日とやらは菓子屋が金儲けのために企画したものだろう。わざわざ乗ってやる義理がどこにある」
「そんなのどうだっていいんです。私はイベントにかこつけてガノンさんといちゃつきたいだけですから」
平然と言い放ったアヤメの言葉に、ガノンドロフは軽く目を見張った。そしてまじまじと彼女を見つめたかと思うと、不意に短く笑い声を漏らす。その金色の瞳には、面白がるような光が踊っていた。
「貴様という女は――」
呟かれたその言葉の続きを聞こうとアヤメは首をかしげる。と、ガノンドロフは軽く顎を上げ、挑発的な眼差しでこちらを見下ろした。
「よかろう、相手をしてやる。ただし、一度限りだ」
「ホントですか! ふふ、ありがとうございます」
アヤメは笑顔で礼を言うと、善は急げとばかりにポッキーのチョコレートがかかっている方をくわえた。もう片方の持ち手の部分をガノンドロフの方に差し出せば、彼も身を乗り出してそれを軽く口に含む。
――そこで、彼女はふと相手から目をそらす。
「……その、思ったより近いですね」
ポッキーはそれほど長くない。十五センチにも満たないそれの両端を双方がくわえるとなると、さらに二人の距離は縮まる。
瞳の揺れる微かな動きさえ見て取れる距離に、アヤメは今更ながらに恥ずかしさを覚えてうっすらと頬を染める。そんな彼女を小馬鹿にするようにガノンドロフは挑発的な笑みを見せた。
「ふん、自分から言い出しておいて怖じ気づいたか」
「ま、まさか」
アヤメはむっとして視線を戻し、目と鼻の先にある彼の顔をまっすぐに見据える。だが、目をそらしそうになるのを必死に堪えているのはお見通しなのだろう。間近にあるガノンドロフの瞳からは愉悦の色が見て取れた。
――口の中の熱でチョコレートがじわじわと甘く溶けていくのを感じる。このまま見つめ合っていても埒が明かない。アヤメは早々にゲームを始めることにした。
「じゃあ、行きますよ。よーい、どん」
開始と同時に食べ進めようと小さく唇を動かしたアヤメだったが、その直後、相手の予想外の動きに思わずゲームも忘れて硬直した。
ガノンドロフはアヤメの後頭部をその大きな手で掴んで傾けると、たった一口で彼女の眼前に迫り来たのだ。驚きのあまり息も止まった彼女の耳に、彼の口中でスナックが複雑に折れる鈍い音が届く。
口元にガノンドロフの生ぬるい呼気が触れる。二人の間に残ったポッキーはほんの数ミリしかない。あとほんのわずかでもアヤメが動けば、それだけで唇が触れてしまうだろう距離だ。それを望んでゲームを提案したのはこちらだというのに、羞恥心のあまり呼吸すらままならない。いっそ、こんなところで寸止めせずに一気に唇を奪ってくれた方が気が楽だった。
ガノンドロフが目を細めると、吸い込まれるような闇色の瞳孔が音もなく拡大する。獲物に狙いを定めた獅子のようなその眼差しに、アヤメは射すくめられて完全に身動きを封じられた。耳元で自分の心臓がうるさく脈打つのが聞こえる。この近さなら、ひょっとしたら目の前でせせら笑っている男にも聞こえているのかもしれない――。
「どうした。来ぬのか、アヤメ?」
嗜虐的な色を含んだ彼の声が脳の中に響く。口を動かせない代わりに、魔術で声を直接脳内に届けているのだ。……どうやら、彼はこれ以上自分から動く気がないらしい。こちらが前に動くか、それとも後ろに退くか。選択肢はそれだけしか残されていない。
――もう限界だ。アヤメは恥ずかしさのあまりぎゅっと目をつぶって、ぱきりとポッキーを前歯で折った。
「オレの勝ちだな」
ガノンドロフは得意気に椅子の上でふんぞりかえり、口の中に残った菓子を咀嚼する。解放されたアヤメは安堵の吐息をつきつつ、恨めしげに彼を睨んだ。
「うう、悔しい……」
あらかじめ立てていた計画では、何事もなくゲームが進んで当たり前のようにキスをして終了するという予定だったのだが、さすがは魔王である。こちらの羞恥心を最大限まで煽る鬼のような展開に持っていくとは。
「で、負けた貴様には相応の罰を与えてやらねばならんわけだが――」
「ち、ちょっと待ってください。まさか罰ゲームするつもりですか?」
にやにやと笑うガノンドロフに慌てて詰め寄る。羞恥にまみれさせるだけでは飽きたらず、この上さらに責め立てようというのか。やはり鬼だ。
「古来から敗者は勝者に従うものだ。よもや、その覚悟もなしに挑んだとでも?」
「むぅ……」
そもそも勝敗をつけるつもりはなかったのだが、そう言っても聞き入れてはくれないだろう。黙り込んで不満げな眼差しを送る彼女を嘲笑ったガノンドロフは、机の上に積んである書類に手を伸ばすと、その内の数枚を引き出した。
「では罰として貴様に仕事だ。配備前のビーモスの試運転と調整をしてこい。力仕事には適当な魔物を使え」
なんだ仕事か、と一瞬安堵しかけたアヤメは、だが言い渡された内容にげんなりと肩を落とした。
「うわ、また地味に面倒な仕事を……。しまい込んでるビーモス、何十体いると思ってるんですか」
手渡されたリストをざっと眺めて、アヤメは軽くため息をつく。この量のビーモスを全て調整するとなると、本当に日が暮れるまでかかってしまう。
「ほう、オレの命令が聞けぬのか?」
ガノンドロフはしかめっ面で偉そうに顎を上げる。そのわざとらしい仕草に、アヤメは思わずくすりと笑った。
「やりますよ。もう、横暴な魔王様ですね」
アヤメは棚から小皿を取り出すと、机に置きっぱなしにしていたポッキーの箱から数本抜き取って並べた。甘さ控えめの菓子であるから、あまりそういったものを好まないガノンドロフでも食べられるだろう。彼女は先程煎れたコーヒーが冷めていないのを確認すると、軽く手を振ってからガノンドロフに背を向けた。
歩きながら箱の中身を確認すると、予想以上に量が残っている。残りは自分で処理しようかと思っていたが、一人ではとてもではないが食べきれそうもない。せっかくだから、これから力仕事を手伝ってくれる魔物達にでも分けてあげよう。そう決めたところで、彼女は扉の取っ手に手をかけつつ振り返った。
「来年は絶対にリベンジしますからね。次は私が翻弄してやります」
「ふん、期待せずに待っていよう。だが差し当たっては――」
一度言葉を切ったガノンドロフは、にやりと唇を歪める。
「今宵は覚悟しておけ。オレをその気にさせた罪は重いぞ」
飢えた獣のようにぎらつく金色の眼差しに、その言葉の意味するところを察したアヤメは顔が一瞬にして熱くなるのを感じた。ほてった顔を片手で押さえながらあちらこちらに視線をさ迷わせた彼女は、喉を鳴らして笑うガノンドロフから逃げるように扉から飛び出した。
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