短編 | ナノ


 アヤメが部屋を出てこない。たったそれだけのことが自身にとっていかに重大なことか、この日ガノンドロフは嫌と言うほど思い知った。明るい日の射し込む回廊を大股で闊歩しながら、彼は重苦しい懸念をそのため息に乗せる。

「……何事もないとよいのだが」

 ――執事をしていた頃の名残なのだろう。アヤメはガノンドロフと夫婦になってからも、夫よりずっと早くに起き出して家事をするのが習慣となっていた。まどろみの中でぱたぱたと忙しなく駆け回る彼女の足音を聞くことが――そして「おはようございます、魔王様」とこちらを覗き込むやわらかな笑みを見ることが、ガノンドロフの日々を彩るささやかな幸福であったのだ。
 ……だが、今朝に限ってそれがない。
 たまに寝過ごした朝くらいはゆっくりと休ませてやるのも悪くない。そんなことを悠長に考えていたガノンドロフも、日が高くなるにつれて徐々に落ち着きを失っていった。
 口に運ぶパンが心なしかぼそぼそと味気ない。気晴らしにと開いた本の内容が欠片も頭に入ってこない。喉の渇きを覚えてふと視線を持ち上げるも、紅茶を片手に微笑むアヤメが傍にいないことを思い出して、開きかけた口を虚しく閉ざす。
 一分一秒と時を重ねるごとに、胸に空いた針の穴ほどの虚無感が大きく広がっていく。傍らにアヤメがいない。愛しい妻の姿が見えない。……たったそれだけのことだというのに、ガノンドロフは「よもや」と悪い想像を働かせずにはいられなかった。

「よもや、アヤメに何ぞあったのではあるまいな」

 澄んだ空色と相反するように暗く募っていく不安と焦燥に、ガノンドロフはとうとう耐え切れなくなって立ち上がった。……それが、数分前の出来事である。




「……アヤメ」

 金の装飾で優美に縁取った木戸の前に立ち、彼は声をかけた。……中からの返事はない。

「アヤメ、おるか?」

 取手に手をかけ、念のためにもう一度呼びかける。扉の内側はしんと静まり返ったままだ。――こうなっては、入ってしまうほかあるまい。ガノンドロフは自身の魔力を通して複雑な鍵を解錠すると、意を決して扉を引いた。
 窓からの光は厚手のカーテンによって遮られ、アヤメの部屋はほのかな薄闇にまどろんでいた。まるで、ここにだけ朝が顔を出していないようだ。部屋に仕掛けられた浄化魔法がうまく働いているらしく、閉め切っているにも関わらず空気には僅かな淀みも感じられない。……繊細な術式に綻びがないということは、侵入者もまたいないということだ。その一点に、ガノンドロフはいくらか肩の力を抜いた。
 ……だが、肝心の妻は。アヤメの姿を探して、ガノンドロフの瞳が暗い部屋を注意深く見渡す。本棚の影にも、長椅子の上にも彼女はいない。となると、残るは――。
 寝室に続く奥の扉に、極力音を立てぬよう歩み寄る。扉のノブに指を絡めた彼は、それをそっと押し開いた。

「……アヤメ?」

 暗い室内。ほのかに感じる気配に引かれるように踏み入れば、奥に見える寝台のふくらみがかすかに身じろいだ。衣擦れの音に次いで、かすかな吐息がガノンドロフの耳に届く。

「魔王、様?」

 夢うつつに夫の気配を感じ取ったのだろう、緩慢な声が弱々しくガノンドロフを呼んだ。アヤメの安否を確認して今度こそ安堵した彼だったが、直後に彼女の異変に気づいて寝台の側に足を急がせた。
 腕をついて上体を起こそうとしているアヤメの肩を支えるように掴む。――やはり、熱い。

「ご、ごめんなさい、魔王様。私ったら、寝坊して――」
「よい。楽にしておれ」

 顔を上げたアヤメの頬はほんのりと赤く染まっていた。色づいたその頬も潤みを帯びた赤い瞳も、自身の犯した失敗への恥じらいだけが原因ではないだろう。彼は彼女のやわらかな前髪の下に手を差し入れ、その額に触れる。
 アヤメはガノンドロフの行動を不思議そうな眼差しで眺めていたが、触れるガノンドロフの手の温度が心地よいらしく、とろんと紅眼を細めた。……口づけをした直後と同じ顔をしている、と思ったことは口には出さないでおこう。

「やはり、熱があるな。さほど高くないとはいえ、今日は一日動かぬ方がよかろう」
「熱、ですか」

 ぼんやりと――心なしか申し訳なさそうにアヤメが繰り返す。恐らく、迷惑をかけてしまったことを心苦しく思っているのだろう。
 ――そこまで気負わずともよかろうに。ガノンドロフは唇の端に小さく笑みを乗せると、その頼りない肩をそっと押して彼女を寝台に戻した。

「何ぞ欲しいものはないか、アヤメ」

 体を掛け布で覆ってやりながら問えば、アヤメは枕に頭を預けたままゆるゆると首を横に振った。色素のない細い髪が、その動きにつられてくしゃりとやわらかく絡まる。

「いいえ。魔王様がこうして来てくださっただけで十分です」

 ガノンドロフは眉を寄せる。アヤメはこう言っているが、妻が臥せっているのに何もしないというのはどうにも落ち着かない。彼は乱れたアヤメの前髪を整えてやりつつ、言葉を重ねる。

「何も要らぬ、ということはなかろう。喉が渇いてはおらぬか? 甘いものはどうだ。……では、氷のうは?」

 アヤメは夫から問いを投げかけられる度に首を横に振る。遠慮という名の穏やかな拒絶である。ふむ、とガノンドロフはいったん言葉を切ってゆっくりと顎を撫でる。アヤメに何かをしてやりたいのは山々なのだが、彼女自身がそれを拒むのであれば意味がない。……どうしても必要になるものならば、彼女も受け入れるだろうか。

「ならば、せめて薬を――」

 取ってこよう、と立ち上がりかけたガノンドロフの手に、遠慮がちな細い指が触れる。強く掴んだわけでもないのに、その指先はたったそれだけでぴたりと彼の動きを止めた。
 何事かとアヤメを見下ろしたガノンドロフを、濡れた紅玉の瞳が引き留める。「あの」と小さく動いた唇が、その赤みを増した気がした。

「ここに……私の隣に、いてください」

 蚊の鳴くような弱々しい声が紡いだのは、あまりにもささやかな我が儘だった。
 自分で言っておいて恥ずかしくなったらしく、アヤメはただでさえ赤みを帯びた頬をさらに鮮やかに染めて、掛け布の中に顔を潜らせる。――それでもガノンドロフに触れた指だけは、まるで彼にすがりついているかのように決して離れようとはしなかった。
 布からはみ出したアヤメの頭をじっと見つめていたガノンドロフの口から、ふっと笑みの混じった吐息がこぼれる。

「仕様のない」

 その声に含まれたあたたかな色に気づいたのか、アヤメがそっと布の下から顔を出す。小動物のような愛らしい仕草に悪戯心をくすぐられたガノンドロフは、いまだアヤメの顔を半ば以上隠している布を引き下げ、ゆっくりと顔を寄せていく。
 ぼんやりと熱にけぶる思考でも、夫が何をしようとしているのか瞬時に悟ったらしい。アヤメは慌てた様子で腕を伸ばすと、ガノンドロフの額を向こうに押しやろうとした。

「だ、ダメです、風邪が伝染っちゃいます!」

 熱のせいではなく真っ赤になった彼女が口走った言葉に、ガノンドロフは喉の奥で低く笑う。恥じらいや時間帯、病人に対する無体……拒む理由はそれこそ山のようにあるだろう。だというのに、何よりも先に飛び出してきたのがよりにもよってこちらの身を案じる言葉だとは。
 ――なんともいじらしいものだ。彼は自分の額を押さえる妻の細い手首を、そっと掴んで引き剥がす。

「このガノンドロフともあろう者が、そう容易く病に倒れると思うか?」
「それは……」

 ひたとアヤメを見据えれば、妻はふと瞳を揺らした。その迷いにつけこむように、ガノンドロフは色づいた白桃を思わせるその頬に手を優しく這わせる。

「伝染せるものならば、いっそのこと伝染してしまえばよい。愛する妻に看病されるのも、たまには悪くない」

 アヤメの身を侵す熱が、じわりと手のひらに染み込む。……このまま触れ続けていれば、この熱を全て喰らい尽くしてしまえるだろうか。そんな思いつきをこの上なく甘美に感じる程度には、ガノンドロフも彼女の微熱にあてられているのかもしれなかった。

「もう。……一度だけですからね」
「分かっておる」

 ふにゃりと表情をやわらげたアヤメの唇をついばむように、軽く口づける。やわらかく吸い付くようなそれからそっと離れた直後、普段よりも熱い吐息がふっと名残惜しげにガノンドロフの唇に触れた。





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