短編 | ナノ
弾くことはできるが得意ではない。楽譜は辛うじて読めても音を頭で組み立てられない。幼い頃にピアノに触れて挫折したアヤメの、それが限界だった。
「えっと。ここと、ここ。それから――」
楽譜に記載されている音符を読んで、鍵盤の上に指を置いて、ゆるゆると押し込む。消え入りそうなほど小さな和音が不揃いに響き、リズムの歪んだ八分音符がとつとつとその後を追う。音楽とは間違っても呼べないたどたどしい音ではあったが、アヤメはただ一人、ひたすら真摯に楽譜を追っていた。
カルデアにはピアノが一台ある。泊まり込みで長期間勤務する職員の気晴らしのため――あるいは音楽に関連するサーヴァントを召喚した時のために設置されたものである。教養のある職員やマスター候補生がしばしば利用していて、アヤメはよく観客として彼らの演奏に聞き入っていた。特にAチームのリーダーの腕前はカルデア中に知られていて、彼がピアノの前に腰を下ろすと毎度のごとく人だかりができていたものだ。
かつての賑わいを思い返して笑みを浮かべかけたアヤメの口元が、ふと苦悩に曇る。
――憩いの場として慕われていたこの部屋を訪れる者は、もういない。レフ・ライノールが引き起こしたあの爆発が、このピアノから弾き手をことごとく奪ってしまったのだ。
「つ、ぎ、は……?」
左手の指が浮き、次の音を探して鍵盤をなぞる。躊躇いがちに押し込めば、ピアノは不満げに不協和音を鳴らした。……まただ。音階を間違えるのはこれで何度目だろう。
「やっぱり、やめちゃおうかな」
ため息混じりに弱音を漏らしたアヤメは、だが自分がまだ楽譜の半分も達していないのを見て唇を引き結んだ。迷ったり転んだりと惨憺たるありさまではあるものの、音そのものは辛うじて辿ることができている。どんなに不格好でも、最後までやり通さなければ。――諦めるなど、できるはずもない。
音符の位置を指で確認し、もう一度音を鳴らす。今度こそ綺麗な和音であることを確かめて、アヤメは頬に淡い笑みをのぼらせる。
「うへぇ、きったない音だな! まるで糞詰まりの馬が必死こいてひり出してる時の鳴き声みたいだ!」
ピアノの音に混じって聞こえたとんでもなく下品な悪態に、アヤメはパッと鍵盤から手を離して振り返った。……誰もいない。否、足音が聞こえる。かつかつと大股で、誰かがこちらに向かって廊下を歩いてくる。まさかの事態に肩を強張らせたアヤメは、咄嗟に視線を走らせて身を隠す場所を探した。――ない。というより、近づいてくる足音の速度からして身を隠す暇がそもそも存在しない。詰みである。
焦るあまり、アヤメは無意識に舌打ちをする。万が一にでも人に気づかれぬよう極力静かにピアノに触れていたというのに、まさかそれを聞きつけるほど耳敏い人間がいたとは。
……いいや、人間ではない。
アヤメはその声を知っている。その下劣な言葉の鋭さを知っている。直に会ったことこそないが、モニター越しに何度もその姿を目にしていた。特異点と化したオルレアンで、カルデアのマスターと行動を共にしていた――。
静かなモーター音と共に扉が開く。
「……む」
その青年はアヤメと目を合わせると、意外なものでも見たかのように淡い色の瞳を瞬かせた。ゆるくウェーブのかかった金の髪に、どこか狐を思わせる白皙の細面。その身を飾る玉虫色の意匠はモニターで見たそれより簡素だったが、ずっと鮮やかにきらめいている。
人間に似た、人間以上のもの。アヤメは席を立って膝を曲げ、カルデアに降り立った英霊に敬意を表した。
「初めまして、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。この度はカルデアにお力添えいただき――」
「アマデウスでいいよ。堅苦しいのは慣れてるけど、好きじゃないんだ。それより!」
へらりと人懐っこく笑ったアマデウスは、長衣の裾を蹴って部屋の中に一歩足を踏み入れる。――たった一歩。それだけで、無機質だった部屋の空気が一転して華やいだ気がした。
「いやぁ、ピアノがあって助かった。危うく役立たずの穀潰しになるところだったぜ」
無遠慮に部屋を突っ切ってきたアマデウスが、指の腹でピアノの腕木をそっと撫でる。――歴史上にその名を燦然と輝かせた音楽家の指が、先程まで自分が触っていたピアノに触れている。なんともむずかゆい気分になって、アヤメは体の前で指を組む。
「で、えーっと……アヤメっていうのか。さっきこれを弾いてたのは君かい?」
首から提げた名札を勝手に読んで自己紹介の機会を奪いつつ、アマデウスは顔を上げてアヤメに向き直る。涼やかに微笑む眼差しに一瞬怯みつつも、その問いを肯定しようと口を開きかけ――言葉を紡ぐ直前ではたと動きを止めた。
――思い出せ、アヤメ。この男がどんな人物なのか。そしてかのマリー・アントワネットでさえ『クズ』と評したこの男が、先程何を口走っていたのかを。
視線を持ち上げれば、面白がっているのが手に取るように分かる流し目とかち合った。よくよく見なくても、その口端はにんまりとつり上がっている。
「……糞詰まりの馬の悲鳴みたいな音で悪かったですね」
「なんだ、やっぱり聞こえてたのか!」
けらけらとアマデウスは明るく笑う。悪気の一切感じられない無邪気な笑い声のようだったが、アヤメはすぐにその印象を己の中で否定した。悪気がないのではない。皮肉を一切含まずドストレートにこちらを馬鹿にしているからそう感じるだけだ。……余計にタチが悪い気がしなくもない。
眉を寄せれば、ひとしきり笑ったアマデウスはそれに気づいてひらひらと両手を振る。
「あ、笑っちゃったのはさすがに悪かったか。ごめんごめん」
「……いえ、気にしてません。笑われるくらい下手なのは自覚してますので」
自分でも驚くほど無愛想な返事をしてしまった。……さすがに気を悪くさせてしまっただろうか。相手の顔色をそっと伺ったアヤメだったが、全く気にする様子もなく楽譜を覗き込もうとするアマデウスを目にしたその瞬間、ほのかな罪悪感は跡形もなく吹き飛んだ。
「ふ〜ん? ふんふん……」
彼はその顎に長い指を添えて、興味深げに譜面を目で追っている。その脳内ではきっと、楽譜に記された旋律が正確に再生されているのだろう。実際に一度耳にしなければ音を認識できない身からすると、まさに人外の所業そのものである。楽しそうな横顔にぼんやりと見入りながら感心していると、不意にアマデウスが声を上げた。
「ああ、やっぱりパッヘルベルのカノンだったのか! にしても、だいぶアレンジ入ってるなぁ」
譜面から瞳を逸らすことなく白い長手袋を引き抜いた彼は、あろうことか無造作にそれをアヤメへ放り投げた。唐突な行動にぎょっとしながらも、彼女は歪な放物線を描くそれを受け止める。強く握りしめてしまったため薄い生地にしわが寄ってしまったものの、咄嗟の行動にしては上出来である。
「あ、あの……?」
「笑ったお詫び。ついでに出血大サービスだ」
ピアノの鍵盤に両手の指を置いたアマデウスは、目を白黒させて立ち尽くすアヤメに愛想のよい笑みを向ける。
「ほら、この天才が直々にお手本を見せてやるんだぜ? 耳をかっぽじってようく聴いとけよ、アヤメ」
かのモーツァルトが、直々に。もし一度でも音楽の道を志したことがある者がそれを耳にしたならば、確実に卒倒するだろう事態である。アヤメは生唾を飲み込み、息を潜めて己の音を殺す。
――ほんの一瞬の静寂。眼差しを伏せた彼が手首をゆるりと浮かせて、やわらかくその指先を沈める。
最初の一音で、心臓の鼓動が奪われた。まっすぐに伸びる中音が幾重にも繰り返す短いフレーズと絡み合い、軽やかな春風となってふわりとアヤメを包み込む。
体が羽になって浮かび上がるような多幸感の中、アヤメの視線は鍵盤の上を優雅に踊る指に釘付けになっていた。密やかな喜びを奏で、優しい光を綴る――絶え間なく旋律を描くアマデウスの手は、それだけで神の奇蹟を体現しているようだった。
ふっ、と繊細な指先が鍵盤から離れる。永遠とも須臾とも感じられる余韻に浸りながら、アヤメはゆっくりと息を吸った。演奏中ずっと呼吸を抑えていたものだから、さすがに胸が苦しい。大きく膨らんだ肺に刺激されてか、心臓が息を吹き返したように脈打ち出す。
――こんなに優しい曲だったのか。じわりじわりと現実が戻ってくるのを足元に感じつつ、アヤメは頬を紅潮させてほうと吐息をつく。
「んん〜?」
はっと瞬けば、笑みを含んだアマデウスの眼差しと目が合った。彼の露骨な催促と自分の失礼さを少しだけ笑って、アヤメはパチパチと控えめに両手を鳴らす。たった一人の拍手では風情も何もあったものではないが、アマデウスはそれで満足したらしい。椅子から立ち上がった彼は、大袈裟なくらい丁寧にお辞儀をする。
「うんうん。聞き惚れられるのも悪くないけど、やっぱり拍手はいい」
「ごめんなさい。指の動きがあんまりにも綺麗だったので、ついぼんやりしちゃいまして――」
「指ィ?」
アマデウスの眉がつり上がる。整った狐顔がずいと詰め寄ってきて、アヤメは思わず上体をそらした。
「音! 音は!」
「た、大変、素敵でした」
「ふぅ〜ん?」
怪訝そうに顎を引いて、アマデウスは尚も疑わしげにアヤメを見つめる。ここで目をそらしては、嘘だと言っているも同然だろう。
こんな当たり障りのないはずの会話で、せっかく協力的になってくれているサーヴァントにおかしな誤解を与えたくはない。相手の視線の強さにたじろぎながらそれでも耐えていると、「ははぁ」と何かに合点がいったらしくアマデウスの口元に笑みが広がった。
「分かったぞ。さては君、『手首から力を抜け』って散々注意されてたクチだろう。だから僕の指ばっかり見てたんだな」
「ぐっ」
「あはは、道理であんな不細工な音しか出せてなかったわけだ!」
声を詰まらせたアヤメの前でアマデウスが無邪気に笑う。痛いところを突かれた上に馬鹿笑いまでされているというのに、羞恥心はともかく怒りは微塵もわいてこない。……あんな素晴らしい演奏を目の当たりにした直後なのだから、当然と言えば当然なのだろうが。
アヤメはわざとらしく肩を竦め、不貞腐れる演技をしながら預かった手袋を突き返す。
「どうせ下手くそですよ。この曲だって、子供の頃練習してて結局一度も最後まで弾けなかったんですから」
「うわっ、筋金入りかよ」
「自覚してるだけまだマシです。それに――」
言うか言うまいか少しだけ迷って言葉を切った彼女は、だが手袋をはめ直したアマデウスのじっと見つめてくる眼差しに押し負けて口を開く。
「下手くそだろうがなんだろうが、構わないんです。通しで弾くのが目的でしたので」
かつて弾けないまま挫折したこの曲を完走する。かつての自分には不可能だったことを成し遂げる。――つまるところ、人理修復に向けてのささやかな願掛けである。
非魔術的で非科学的な、ただの迷信。そんなものにすがるなんて、魔術師どころか現代人らしくもない。どうかしていると自覚していても、アヤメは鍵盤から手を離すことができなかった。
だってここで諦めてしまえば、きっと自分は人理修復の道でもその半ばで折れてしまう。
……無論、根拠はない。だが、そんな予感がしてならなかったのだ。
「……ふぅん。だったら、僕が見てあげようか」
「えっ?」
「だから、君のピアノ」
何を言われたのか理解するのに数秒かかって、アヤメは相手を見つめながら瞬きをする。内心のまるで読めない陽気な笑顔が実に胡散臭い。
「で――できるんですか? あなたが? 本当に?」
「失礼だな、君! こう見えて僕にだって弟子はいたんだぜ、一応」
「いえ、だからって」
アヤメの態度が気に入らないらしく、アマデウスは子供のように唇を尖らせている。そんな風に拗ねられても困るものは困る。
天才は物を教えるのに向いていない、というのが通説である。技術も理論も感覚的に理解してしまう彼らは、それを言語化して伝える術を持っていないことが多い。自分達が当たり前のように知覚している世界を、どうやって余人に理解させればよいか分からないのだそうだ。
そんな自分にも弟子はいたとアマデウスは豪語しているが、どうせその弟子も彼に負けず劣らずの天才肌だったに決まっている。音楽知識が一般教養レベルで止まっているアヤメが教えを受けたとして、その言葉のほんの一割すら理解できないのは目にも明らかだ。それが分からないアマデウスではないだろうに。
「いいだろ、アヤメ? 君の調子じゃいつまで経ってもまともに弾けそうにないし、その間ずっとこれを独占されちゃあ僕だって困るんだ。――それに、考えてみたまえ。君にとってもそう悪い条件じゃないはずだ」
「そ、そう言われても」
「だってほら、思う存分ピアノを弾いてる僕の指が見られるんだぜ」
にまにまと笑ってアマデウスはピアノの鍵盤に触れる。その指先がことさらいやらしく感じて、アヤメは顔をしかめる。
「ひょっとして、私を指フェチか何かだと思ってませんか」
「うん? だって違わないだろう?」
「……違いませんけど」
「そら見たことか! ――で?」
話をそらす試みはあえなく失敗に終わった。しかも、自ら恥を暴露するという大失態を添えて。余計なことをしなければ良かったと後悔するものの、時すでに遅しである。
それにしても、何を企んでいるのやら。どうやらアマデウスはどうしてもアヤメを生徒として迎えたいらしいが、それで彼自身は何を得られるというのか。――互いの損得が釣り合わない契約ほど危険なものはない。仮にも魔術の世界に身を置く者として、その程度の常識はアヤメにも備わっていた。
……けれど。アヤメはちらりとアマデウスの指先に目をやる。彼のピアノの音色が――その長く美しい指先が天上の旋律を奏でるさまが間近で堪能できるという誘惑は、その疑念を押し退けるまでに強烈だった。
「……ああもう、分かりましたよ」
「よし来た! あ、月謝はこれくらいで頼むよ」
「ち、ちょっと待って、月謝なんてそんな話ひとことも――!」
なんということだ。よりにもよって暗示でもなんでもないただの口車に乗せられて、とんだ押し売り商法に引っ掛かってしまった。慌てて先の言葉を撤回しようとするアヤメをよそに、アマデウスはどこからともなく指揮棒を取り出して優雅に空中を滑らせる。
「――あら?」
どんな法外な金額を提示されるかと身構えていたアヤメだったが、宙に白く浮かんだ数字の羅列に思わず目を疑った。……想像していたより遥かに安価だ。通貨記号も桁数も見間違いではない。
アマデウスは指揮棒の先端でくるくると円を描く。
「どうかな。僕を教師役に雇うにしては良心的な値段だと思うけれど」
「え――ええ、確かに。でも本当にいいんですか? さすがにこれじゃあ悪い気が……」
この額では、それなりのワインを月に一本買うのがせいぜいだ。いくらなんでもかのモーツァルトをこんな安月給で雇うなど、世界中から非難されても文句を言えない。
「いいや、これでいいんだ。その代わりさ、アヤメ――」
アマデウスは唇の前に人差し指を立てて声を潜めると、ねだるように片目をつむってみせた。
「もしマリアがカルデアに来ても、僕が下ネタを言ったことは内緒にしててくれないかい?」
――なんだ、存外可愛らしいところもあるではないか。どうやら無遠慮でわがままで音楽しか頭にない彼も、初恋の相手に対しては誠実でありたいらしい。アヤメは込み上げてくる笑いを懸命に堪えながら、彼のささやかなお願いを対価として受け入れた。
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