短編 | ナノ


 イタリア語で『マエストロ』は『先生』または『指揮者』を指すのだという。かの名探偵殿が何かの拍子にぽつりと漏らしたその情報に、何故だかアヤメは強く興味を引かれた。ホームズの長々とした講話に耳を傾けている面々を横目に見つつ、マエストロ、と試しに口の中でその単語を繰り返してみる。……不意に、痩けた頬を歪ませて笑う一人の男が思い浮かんだ。
 胸の奥がそわそわと落ち着かない。お陰でホームズのありがたい話も全く耳に入って来なくなってしまった。アヤメは迷った挙げ句、眠気を言い訳に席を立つことにした。
 無機質な短い廊下を意識的にゆっくりと歩いて逸る鼓動を鎮めつつ、アヤメは一人の人物をその脳裏に思い描く。雪と氷に閉ざされたロシアで力を借り受け、その縁を伝って先日召喚に応じてくれたサーヴァントを。
 ――アントニオ・サリエリ。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと近しかった音楽家で、多くの弟子を持つ優秀な教師でもあったらしい。彼自身が、他人事のようにそう教えてくれた。
 出所さえ確かでないおぼろな知識を頼りに、彼の生前に思いを馳せる。サリエリはウィーンで宮廷楽長を務めていた人物だが、元はイタリア人であったはずだ。だとしたら、きっと『マエストロ』という単語にも聞き覚えがあることだろう。ひょっとしたらそう呼ばれていた過去もあったかもしれない。

「ふふ。先生、先生かぁ……」

 ピアノを弾く子供達の隣で指使いを教えている彼を想像して、アヤメはくすりと笑った。小洒落たスーツを完璧に着こなしている彼が教鞭をとる姿が、なんだか妙に様になっている。自分も一度そう呼んでみようか。そうしたら、彼はどんな顔をするのだろう。
 いまだ慣れぬマイルームの扉を開いた彼女は、だがそこに黒い染みのように存在する彼を目に入れた瞬間、浮き足立っていた心を急速にしぼませた。
 今回の彼は生前のサリエリとしての人格のほとんどを喪失し、大衆の囁いた『アマデウスを殺す死神』として現界している。そんな彼をマエストロと呼んでどうしようというのだ。いつもの苦々しい顔で『我はサリエリではない』と突き放されるだけだろうに。
 そもそも、彼は自身がサリエリと同一視されるのを好まない。便宜上サリエリと呼んではいるが、それすらもあまりいい顔をしないのだ。そうと理解して接しているはずなのに、ふとした瞬間に『サリエリ』の面影をその瞳に探してしまう。……マスターとして未熟な証拠である。
 そこはかとない後ろめたさを胸に感じつつ、彼女は中に待機させていたサリエリを上目遣いにそっと窺う。

「あの、サ――」

 声をかけようとして、アヤメは口をつぐんだ。
 サリエリ――もしくは無辜の死神――は、クッションのない硬い椅子に腰かけ、持て余した長い脚をゆるく交差させていた。銀鼠の髪の隙間から覗くスカーレットの瞳はモニターに向けられていたが、何を映すでもなく淡い光を照り返している。――扉を開けたこちらに気づいた様子はない。
 どうやら、彼には珍しくぼんやりとしているようだ。ひょっとしたら、混ざり合った自我の揺らぎに思考もままならないでいるのかもしれないが。
 ――今ならば、あるいは。アヤメは唾液を飲み込み、恐る恐る口を開く。

「……先生」

 マエストロ。空気を震わせる程度でしかない控えめな呼びかけに、だがサリエリはゆるりと首をめぐらしてこちらを見た。虚ろな夢からいま覚めたばかりといった風情で、その表情にいつもの険や苦悩は見当たらない。
 ぼうとけぶる瞳が陰りの中からアヤメを捉え、その口元がゆるやかに弧を描く。サリエリとしての自我が強かった獣国でさえ見たことのないその表情に、アヤメはぎゅうと心臓が締めつけられるのを感じた。

「私に何か用かな?」

 音楽的な響きを持つテノールが、穏やかに問いかける。予想以上の結果に、彼女は動揺して言葉を詰まらせた。混濁した彼の意識から少しだけ、ほんの欠片だけでも『サリエリ』を引き上げられるかもしれない。そんな淡い期待しか抱いていなかったというのに。まさか、まさか彼は、本当に。

「あなた、は――」

 本当に本当のサリエリなのか。そう口をついて出そうになった疑問を、アヤメはだがぐっと喉の奥に押し込む。
 きっと、恐らく、演技ではない。これでもアヤメは数多の特異点を駆け抜けて星の数ほどのサーヴァントと相対してきたマスターである。かの死神が安い演技で騙そうとしてきたのなら、すぐに見破る自信が彼女にはあった。
 そう、だから、そこにいるのは紛れもなくサリエリその人なのだ。

「どうした。……それとも、眠れないのか」

 ぎし、と椅子を軋ませてサリエリが立ち上がる。わずかにひそめられたその眉から、彼が本心からこちらを案じてくれていることが見て取れた。初撃で不意を突かれたせいか、まだ動揺が収まらない。アヤメはどぎまぎする自分を意識しながら、顔に上る熱を誤魔化そうと首を横に振る。

「い、いえ、なんでも。……なんでも、ないんです」

 ……そう、用事など何もない。
 例えばここにピアノがあれば、彼に教えを請うこともできただろう。生前好んでいたという甘い菓子があれば、彼を喜ばせることもできたかもしれない。だが間の悪いことに、そのどちらもここにはなかった。
 奇跡に等しい邂逅だというのに、彼にしてやれることは何もないのだ。歯がゆく思いながら、彼女は曖昧に笑う。

「……その。強いて言うと、あなたの声が聞きたくて」
「そうか。声を、か」

 サリエリは肩を揺らしてゆったりと笑う。なんて優しく笑うのだろうか。闇からにじみ出るような普段の笑みとの落差のせいだろう、つい見とれそうになって、アヤメは気恥ずかしさに目をそらした。心臓に悪い。

「そうだな……なら、今日は特別に子守唄を歌ってあげよう」

 両腕を広げたサリエリが歩み寄り、アヤメの背に手を置いた。礼装越しに彼の指の長さが鮮明に伝わってきて、なんだかふわふわと地に足が着かない心地だ。軽くなって浮いた足が、背を押されて勝手に前へと進む。

「あの、さ――サリエリさん」
「さあ、眠りなさい」

 黒の革手袋に包まれた彼の手は、その声音と同じくらいに優しくアヤメを簡易ベッドへと誘う。成人男性である彼に横になっている状態を見られるのはいささか気が引けたが、かと言って抵抗するには罪悪感が勝る。促されるままに枕へと頭を預けたアヤメは、気もそぞろに彼の紅い瞳を見上げる。ふっと小さく笑われて、彼女は慌ててそっぽを向いた。ついでに火照った顔を冷たいシーツに隠し、体を小さく縮こまらせる。……こんなことをしていると、まるでぐずる子供のようだ。
 薄手の布に肌の熱が移っていく。その熱を宥めるように、革手袋を外さないままの手がアヤメの頭部に触れた。す、と息を吸う気配が聞こえる。一拍置いて、美しい男声歌が空気を震わせた。

"Ninna nanna ninna oh …"

 ――聞き慣れないはずなのにどこか懐かしさを感じる異国の子守唄が、マイルームに染み入り消えていく。低く、静かで、それでいて豊かな、夜の訪れをひそやかに讃えるような歌声だ。彼の生徒や子供達も、このやわらかな歌声に包まれて眠ったことがあるのだろうか。
 語学に堪能でない彼女には、繰り返されるフレーズの意味は分からない。せめて旋律だけでも記憶に留めておけたらいいのだが、どうにも上手くいかない。眠気を堪えて必死に目を開けていようとしているのに、頭を撫でる手の優しさに意識が徐々に解けていく。
 恐らく目覚める頃には、この歌を忘れてしまっているのだろう。そうしてもう二度と聴くこともないのだ。それでも、こうして子守唄で寝かしつけてくれたサリエリがここにいたことだけは、きっと。
 最後に深く息を吸ったアヤメは、ゆっくりとそれを吐き出しながら瞼を下ろした。




 ふつり、と唐突に歌が途切れた。節電のために真っ暗になった室内に沈黙が被さり、闇の中でスカーレットの瞳が戸惑うように揺れる。

「私は――我は、誰だ?」

 囁くように、彼は自問する。

「私はサリエリ……ではない。サリエリは死んだのだ。では、死神なのか? ――そうだ、そのはずだ。我は怪物、神に愛されし者を殺す、殺さねばならぬ――」

 焦点を失っていた声が徐々に深い憎悪に染まっていき、抑えきれぬ怒りに震える。
 そも、この激情は誰のものなのだろうか。ふと、そんな疑問が唐突に彼の中に生まれた。――考えるまでもない。この憎悪は人々がそうあれかしと望んだもの。その望みが罪なきサリエリを侵食し、怪物に仕立て上げたのだ。故に、この憎しみを持つ存在はサリエリでは断じてない。
 ……では、サリエリではないはずの自分は? サリエリ無くして存在できず、己がものでない憎悪を核とし、死神の伝説を寄る辺にして生きる自分は、果たして――。

「我は死だ。死をもたらす者、死に寄り添う者、あるいは死そのもの……」

 とぎれとぎれに彼は呟く。だが、魂の奥底に潜む何かが泡のように浮かび上がって、確立したはずの自己を否定する。その度に、不安定な水面のように自我が揺らいでしまう。脳をかき混ぜられるような不快感と苛立ちに、じりじりと指に力が込もっていく。
 ――さらり、と。手袋越しに何かが指の間をすべって、彼はふと我を取り戻した。
 手元に目を向ける。顔を背けて眠る少女の規則正しい寝息が、乱れた心をゆっくりと鎮めていく。指に絡んだ髪の感触はいささかわずらわしくはあったが、軋みかけた自我を繋ぎ止めているようで存外に心地よい。
 マスターの魔力と同調したのか、それとも眠る彼女の安らかな息遣いに影響を受けたのか。揺らいでいた感覚も目まぐるしく色を変える魔力もすっかり安定して、彼は肺を満たすように深く息を吸う。その脳裏に、ふとよぎるものがあった。
 自分はサリエリではない。そう彼女に伝えた時のことだ。彼女は肯定も否定もせず、ただひとつ『そう』とだけ頷いた。あまりにもあっさり主張を受け入れられたことに当時は拍子抜けしたものだが、今なら確信を持って言える。
 例えどんな存在であったとしても、彼女は己のサーヴァントとしてこれを受け入れる。それだけは何があろうと変わらないのだ。

「そうか。そうであったか。何者であっても構わないというのであれば、今だけは――」

 不器用に彼女の髪を撫でて彼は笑った。苦悩と皮肉の混じった笑みであったが、確かにそれは穏やかなものだった。
 ――今だけは『サリエリ』でいるのも悪くない。





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