短編 | ナノ


「唇の端っこを切っちゃったんです」

 唖(おし)にでもなったか。そう何の気なしに問われたアヤメは、傷のある箇所を指先で軽く叩いた。ガノンドロフは「ほう」と無関心な声を目の前の書類に落とす。この様子なら事の経緯は説明せずともよいだろう。彼女は安堵の色を目元に浮かべる。料理を面倒臭がって焼いた食材をこれでもかとパンに挟んだのが原因だなんて、口が裂けても言えない。

「これくらいなら舐めれば治るかなって、それで放ってたんですけど――」

 ぴりりと走る痛みを感じて、反射的に顔をしかめる。こうならないために極力無言でいたというのに、水の泡である。

「見せろ、アヤメ」

 最低限の指の動きと共に、ただ一言。アヤメは嫌な予感を覚えて眉を寄せる。……きっと碌なことを考えていない。だがそうと分かっていても、魂を絡め取るような静かな金瞳に見据えられては従わないわけにはいかなかった。
 気が乗らないまま緩慢な足取りで執務机を回り込めば、大きく固い手がアヤメの後頭部を掴む。咄嗟のことで反応が遅れた彼女の頭を引き寄せたガノンドロフは、その口の中に親指をぐいとねじ込むと、あろうことか力任せに引き下げた。
 先程のとは比にならない、文字通り裂けるような痛みが神経を焼く。声にならない呻きをこぼした彼女の口唇の端を、ぬるりと生温かいものがなぞり上げた。鋭い痛みを誘発する濡れた感触に、ぞわりと肌が粟立つ。

「舐めれば治るのだろう?」

 得意気に笑うかすかな息遣いに触れて、じんじんと肌の亀裂が熱を帯びる。――毎度のことだが、本当にいい性格をしている。アヤメは涙に視界をにじませ、なけなしの意地を張って相手の歪んだ目元を睨む。

「……軟膏の方が効きます」

 可愛いげのない女よ、とガノンドロフが鼻を鳴らした。





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