短編 | ナノ


 お洒落をすると心が浮き立つ。普段は己の職務にひたすら忠実なアヤメでも、それくらいのことは経験として知っていた。
 おろし立ての可愛らしい衣服に身を包み、普段は宝石箱に大事にしまい込んでいるような装飾を身に纏い、それに合わせて顔立ちを華やかに整える。それだけでも気分が上向きになるのだ。加えてそんな着飾った姿を好きな男に見せるとなると、いやが上にも胸が高鳴るものである。
 残念ながら、アヤメの想い人はそういった女性らしい努力にいちいち反応をくれるマメな性格ではない。だが、それでもごく稀に琴線に触れれば、無言でじっと見つめてくることがある。注意深く観察する眼差しの、肌をなぞる感覚――ひそかな昂りをもたらしてくれるそれを得るために、彼女は時に悪戯にも似た感覚で自らを飾るのだ。
 彼の歓心を引くというのが主な目的ではあるが、彼女は彼女なりに着飾ることが好きだった。
 ――だが、それも自分に見合う格好でれば、の話である。
 じっと注がれるガノンドロフの視線に、アヤメは気まずくなって視線をそらす。常ならば体の奥に熱を灯してくれるはずのそれは、今の彼女にとっては拷問にも等しかった。

「……その、似合いませんよね」

 沈黙を破ってアヤメが重たい口を開く。ガノンドロフは「ふむ」と顎を軽く撫でると、眉間に刻まれた溝をわずかに深めた。

「似合わぬな」

 ……薄々どころではなく、そう言われるだろうなと思ってはいた。が、こうして直球で言い放たれると、さすがのアヤメも胸にぐさりと突き刺るものを感じざるを得ない。
 気が抜けたようなため息をついて胸元に触れれば、さらりとした薄絹が指に触れた。極上の肌触りであることは確かなのだが、綿や麻の服に慣れている身としてはいささか頼りない着心地である。腕や脚を覆う生地がふわりと肌から浮く作りになっているお陰で、余計に心もとない。
 優雅で、華美で――そして、それ以上に艶っぽい。ゲルド族の民族衣装の一種であるらしいそれは、織り込まれた金糸の刺繍の繊細な美しさや随所にあしらわれた豪奢な宝飾も相まって、どこか異国の姫君を思わせる。
 ……つまり身に纏うのがアヤメでは、どう足掻いても『服に着られている』という状態が避けられないというわけである。どれだけ美しい服でも、己の身の丈というものは存在する。それを遥かに越えていると分かっているものを着て、楽しい気分になどなれるはずもない。

「何をどう間違って、私にこれを着せようなんて思ったんですか」
「……紛れもなく気の迷いであろうな」
「でしょうね」

 長々としたため息を吐くガノンドロフに、アヤメも肩を竦める。とりあえず着せてみたはいいものの、まさかこれほどまでに似合わないとは、さすがの彼にも想定外だったらしい。
 ガノンドロフはだが、なおもじっとアヤメに視線を固定している。腑に落ちないとでも言いたげなその目つきから身を隠すものを探して、アヤメは思わず視線を左右に走らせた。あまり衣装映えしない体を彼の前にさらしているのが恥ずかしくてたまらない。
 と、ガノンドロフが不愉快も露に鼻を鳴らした。

「こちらに来い、アヤメ」
「えっ?」

 まさかの指示に、アヤメは反射的に眉根を下げて椅子に腰かける彼を見返した。ただこうして立っているだけでも恥ずかしいというのに、この男はなおもその眼差しでこちらを辱しめようというのか。
 しかし彼の命令に逆らって不機嫌になられては後々面倒だ。アヤメは布でできたやわらかな靴を極力汚さぬよう、静かな歩みでガノンドロフの側へと向かう。その間もひたとこちらを見据える眼差しが、むずむずとした居心地の悪さを膨れ上がらせてくる。

「……ふむ」

 至近距離足を止めた彼女を、ガノンドロフは上から下まで視線でなぞる。いっそ身を翻して逃げてしまいたくなるほどの羞恥心に、アヤメは顔を赤らめて自分の体を守るように抱き締める。
 似合わなかったと結論が出たのなら、それでもう充分ではないか。もう動くこともできない死体を蹴るなどという惨いことなどせず、こちらの精神的な衛生を考慮してさっさと着替えさせてほしい。
 ……それとも、自分の格好で『似合わない』以外にどこか気になる点でもあるのだろうか。

「その……ひょっとして、着方がどこか間違ってるとか――」
「いいや」

 ではなんだ。ただ彼はこちらの羞恥心を煽るためにこうして観察しているとでも言うのか。……この男ならやりかねない、というのが正直なところである。
 耐えきれなくなって抗議しようと口を開いたアヤメの腕を、不意にガノンドロフの手が掴んだ。驚いて後じさろうとしたアヤメを、だがガノンドロフは自分の太ももを軽く叩いてその上に跨がるように指示をする。

「――分かりましたよ」

 どうやらこちらを逃がすつもりはないらしい。がっしりと腕を掴む力の強さにそう悟ったアヤメは、渋々ではあったがその命に従うことにした。

「こ、これでいいですか?」

 アヤメは脚を開き、彼と向かい合う形で太ももの上に腰を下ろす。ひらひらと頼りない薄絹は遮蔽物としての役割をほとんど果たしてくれず、彼の身体のたくましさが脚の付け根に直接伝わってくる。生々しいその感覚に妙な予感を覚えて、アヤメの腿に力が込もる。ガノンドロフはそんな彼女の心の内を察したらしく低く笑うと、その細い顎を無造作に掴んで持ち上げる。

「何をされると思っている?」
「なに、って――」

 無理矢理に合わされた瞳の奥に意地の悪い輝きを見て、アヤメは上体を反らした体勢のままわずかに視線を泳がせる。ふとその瞳が近づいて、アヤメは反射的に目をつむった。……が、いつまで経っても何も起きない。
 よもや、またからかわれているのではなかろうか。そんな思いが胸に去来したと同時に、顎からガノンドロフの指がするりと外れた。

「そのまま動くな。オレの手で少しはマシにしてやろう」

 ――マシに? 訝りながら目を開いたアヤメの視界に、彼女の化粧道具を手にしたガノンドロフの悪辣な笑みが映った。




 言われるがままに薄く開いた唇を、濡れた細い筆がゆっくりとなぞっていく。その繊細なくすぐったさに耐えるために息を詰めれば、化粧筆筆を持つ指の動きがぴたりと止まった。直後に不機嫌な金の眼差しに射すくめられ、アヤメは体を強張らせる。

「動くな、と言ったはずだ」
「ん……」

 申し訳ございません。その言葉が口から出かけたが、厳命された以上唇を動かすわけにもいかない。謝罪の言葉を紡ぐ代わりに、彼女はただ身を石のように固まらせて彼の言葉に応えた。それで満足したのかガノンドロフは小さく鼻を鳴らすと、細い筆を持ち直してその先を紅に滑らせる。てらりと光るその筆先に奇妙な色気を感じて、アヤメは思わず自分に向かってくるそれから目を背けた。
 冷たく湿った筆先が再び唇に触れる。視線をそっと戻せば、いつになく真剣な眼差しでこちらを見つめるガノンドロフが目に入った。顔の距離が近いせいか、目が合っているわけでもないのに胸がそわそわと落ち着かない。気を紛れさせるために自分の太ももに手をつけば、さらりとこぼれるような薄絹の感触が指を滑った。……思えば、なかなかに扇情的な格好である。
 アヤメの肌に粉をはたき、その頬に薄く頬紅をのせ、そして瞼を鮮やかな色で飾る。ガノンドロフのその手つきは普段のアヤメへの粗雑な扱いからは考えられないほど丁寧で、真剣な目つきも相まってどこか絵画を描く芸術家を思わせた。
 アヤメは息をひそめて、先ほどから執拗なほどに口紅を塗り込んでいるガノンドロフにぼんやりと見入る。筆の触れる感覚がくすぐったい。彼のまっすぐな眼差しに当てられたのか、唇が彼に直接触れられているかのように熱を持つのが分かる。
 ――それにしても、近い。ガノンドロフの瞳が、鼻梁が、唇が、こんなにも近くにある。例えば、そう、今この瞬間その顔を掴んで引き寄せれば、きっと彼が咄嗟に躱すことはできないだろう。
 つ、とガノンドロフが視線を持ち上げる。ぼうと甘くけぶっていた思考が、静かな光を灯したその瞳に絡め取られる。無言の戒めに、アヤメは眼差しだけで頷きを返した。――分かっている。自分は彼の画布なのだ。画布が動いて、作品を台無しにするわけにはいかない。
 ――ゆっくりと唇の縁をなぞってから、ガノンドロフは浅く息をついて化粧筆を置いた。自分を縛りつけていた戒めが緩んだ感覚に、アヤメは恐る恐る口を開く。

「もう、動いても?」
「ああ」

 短いその答えに、アヤメはようやく解放されたことを知って肩の力を抜いた。ずっと同じ姿勢でいたからか、それとも極度の緊張にさらされていたせいか、首の筋が強張っているのが分かる。
 ……それにしても、自分の顔はどうなっているのだろうか。鏡を求めて彼の膝の上から降りようとした彼女の肩を、だがガノンドロフは無造作に掴んで引き留めた。

「待て、まだ終わってはおらぬぞ」

 反射的に顔をしかめたアヤメだったが、直後に諦めたようにため息をついた。ここまで来たら、もう最後まで付き合ってやろうではないか。
 ガノンドロフは大人しくなったアヤメを前に満足げに口の端を持ち上げると、櫛を手に取って毛先の方から彼女の髪をすき始めた。
 するり、するりと髪がほどけていく感覚が伝わってくる。くすぐったさと心地よさの入り交じった、どこかむずむずとした曖昧な感覚に身を委ねていると、ガノンドロフの手がふと豪奢な髪飾りに触れたのが目に入った。――数瞬、その指先が迷う。
 ふむ、と唸ったガノンドロフの瞳がアヤメに向く。髪飾りを持たぬままアヤメの耳元に伸びた指が、その髪をさらりとすくい上げた。

「これでよい」

 ガノンドロフが隣の椅子にかかったべールを引っ掴むと、付属の金具や宝飾がぶつかり合って細い音を立てた。薄布を軽く払って形を整えた彼は、それを慎重にアヤメの頭上にかざす。
 まるで女王か、あるいは花嫁のようだ。アヤメは口元がゆるむのを感じながら、あえて恭しく頭を下げてそれを受けた。……まあ、脚を広げて彼の膝の上に腰かけているせいで、雰囲気は全く締まらないのだが。
 繊細な装飾の施されたベールを王冠のように戴いたアヤメは、ゆっくりと顔を上げて上目遣いにガノンドロフを見上げる。それを見下ろした彼がふんと鼻を鳴らし、皮肉に瞳を歪める。

「少しはマシになりました?」
「オレが目にするに耐えるほどにはな」

 彼なりのひねくれた褒め言葉に、アヤメはこそばゆさを覚えて、熱くなった頬に手を添えようとした。だが、完成した『作品』に手を触れるのはいささかためらわれる。中途半端に浮かせた手をさ迷わせた彼女は、結局それをガノンドロフの胸に置いた。ガノンドロフはそんなアヤメの瞬巡を見破ったらしく、低く愉快げに笑う。その聞き慣れた声すらもが、心なしか耳に熱い。
 似合うようになった。遠回しにではあるが、彼はそう言ってくれた。お陰さまで、服に着られている居心地の悪さも自分の不出来さへの申し訳なさも、もうすっかり感じない。
 ――だが、それならどうしてこんなにも体が火照るのだろう。普段着飾ったのを見せびらかすのと、何も変わらないはずだというのに。耐えきれなくなって立ち上がろうとしたアヤメの腕を、再度ガノンドロフの手が押し留める。

「どこへ行くつもりだ」

 ひたと見据える眼差しが肌を焼く。この瞳から逃れることなど不可能だとアヤメは知っている。それでもなお、ガノンドロフの胸元についた彼女の腕にはわずかな力が込められてその抵抗の意志を示していた。

「――鏡、見ようと思いまして」

 ガノンドロフの顔を真正面から見るのが妙に気恥ずかしくて、彼女は瞳を軽く伏せる。ガノンドロフはそのわずかな逃避すら許すことなく、その顎をすくい上げて強制的に眼差しを交わらせた。

「貴様が見る必要はない。オレがこの目で見ている――それで充分であろう」

 吐息混じりの囁きを口の中に封じ込めるように、ガノンドロフは己が丹念に塗った彼女の唇に自らのそれを重ね合わせた。
 唇が溶けてしまいそうだ。あえて深く割り入ることなく上辺だけを貪る口づけは、頭の芯が痺れてしまいそうなほどの悦楽と同時に、アヤメにもどかしさを覚えさせた。
 ……足りない。こんな、じくじくと脳を蝕むような甘さでは満足できるはずがない。
 もっと、もっと深くまで――。アヤメはガノンドロフの頭部に手を添えて、劇薬にも等しい彼の舌を求めようとする。だが彼は無情にも、それを嘲笑うかのように互いの唇を引き剥がした。
 彼女の喉の奥から切ない呻き声が漏れる。自分の唇をぐいと拭ったガノンドロフの手の甲を、移った紅の鮮やかな線が汚す。そうして情けなく眉根を下げたアヤメを見下ろし、瞳を歪ませてせせら笑った。

「よい顔だ」

 ――何が『よい顔』なものか。弄ばれた末に満たされることなく打ち捨てられた女の顔を好むなど、趣味が悪いにもほどがある。口紅を半ば以上剥がされた不格好な唇を指でそっと隠しながら、せめてもの反抗にと眉を寄せて睨みつける。

「なんてことするんですか、せっかく綺麗にしたのに」
「オレが造り上げたものをオレが乱すのだ。問題はあるまい」

 実に無茶苦茶かつ横暴な理論である。ふんと鼻を鳴らすガノンドロフに呆れてため息をついたアヤメは、自分で塗り直そうと机に置かれたままの口紅に手を伸ばす。それを見咎めたガノンドロフがアヤメの手を素早く絡め取る。……今日の彼は、こちらの行動をことごとく妨害したい気分であるようだ。
 ガノンドロフはアヤメの手を捕らえたまま、その腰に腕を回して引き寄せた。腰のくびれに触れる指先に艶めいたものを感じて、彼女は顔を赤らめる。

「男が女に服を贈る贈る理由は分かるか、アヤメ?」

 ほんのわずかの間、アヤメは視線を泳がせた。問いに対する答えが分からなかったのではない。むしろ知識としてそれを知っていたからこそ、自分の身にこれから何が起こるかを察してしまったのだ。
 ガノンドロフの眼差しが彼女の返答を無言で促す。未だ残る恥じらいを振り切ってアヤメは唾を飲み込み、ほのかに灯った期待の熱に瞳を揺らめかせる。

「脱がせるため、でしたっけ」

 ガノンドロフは喉の奥で低く笑った。彼が前のめりに上体を倒してその顔がぐっと近づけると、その眼差しに燃える情念の炎がはっきりと見て取れた。

「では、男が女に化粧を施す理由はどうだ」

 会話の流れからその答えにある程度の推測をつけたアヤメだったが、確証と呼べるものはない。彼女はゆるりと首を横に振る。

「いいえ。――教えてくださいます?」

 今のアヤメにできる精一杯の誘い文句に、ガノンドロフの瞳の奥が妖しい色を帯びる。

「ならば、身をもって味わわせてやるとしよう」

 捕らえられた手がするりと自由になった。逃げようとしないアヤメの腰の輪郭を指がなぞり、薄絹の縁に掛かる。
 ――たまには、こうやって徹底的に彼の好みに自分を誂えるのもよいものだ。彼の眼差しが肌に触れるくすぐったさに身をよじった彼女は、その口元にかすかな笑みを浮かべ、自分が跨がるガノンドロフの脚にそっと手を置いた。





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