短編 | ナノ
張り詰めた弦が弾かれて、生まれた音が床にこぼれ落ちる。音の源に目を向ければ、閉じたカーテン越しに夜を見据えながらハープをもてあそぶ青年がそこにいた。息を飲むほど冷たく美しいその横顔に、アヤメは知らず呼吸をひそめる。――美人は三日で慣れるなど嘘っぱちだ。出会ってからもう随分と経つというのに、彼の神秘的な美貌は色褪せるどころかますます冴え渡っているように感じられる。
……あの日。魔物に襲われて逃げる最中に足をくじき、死を覚悟した刹那に現れた彼の姿をアヤメは思い返す。鋭い風のように魔物を斬り捨てた彼の、振り返った瞳の鮮やかさに目を奪われて、あの時はしばらく口も利けなかった。あれから彼は何一つ変わっていないはずなのに、何故こんなにも見ていて息苦しく感じるのだろう。
ぽろん、ぽろん、と音が生まれては消えていく。何かの曲の一部――というわけでもなさそうだ。軽く伏せられた瞳が思わしげにけぶっていることからして、ただ手慰みに楽器をいじっているだけであるらしい。
「もうすぐ、夜明けが訪れる」
布に覆い隠された彼の口から、ぽつりと言葉が落ちた。普段は音楽じみた響きを纏って聴く者を夢幻へと誘う中性的な声は、今は彼自身が彼方を夢見ているかのように茫洋としている。
――それにしても、まだ太陽が沈んだばかりなのに夜明けとは、また奇妙なことを言うものだ。彼の言葉が唐突なのはいつものことだが、今日は殊更おかしい。アヤメはじっと彼を見つめていたが、ぱちりと薪のはぜる音に火にかけていたミルクの存在を思い出し、包帯を巻いた片足を不格好に引きつつそちらへと向かった。
この足が治るまで。それが、闇に溶け消えようとする彼を引き留めるために捻り出した理由だった。シークと名乗った青年は、そんなアヤメの我が儘に文句を垂れつつも今日まで付き合ってくれている。
「女神に祝福された白き刃は深い闇を斬り払い、大地に暁の光をもたらすだろう」
ミルクを冷めにくい木のカップに注ぎながら、詩めいた彼の言葉に耳を傾ける。――なんだ、そういうことか。聞き覚えのあるその一節に、アヤメは拍子抜けしたような気分になってその口元に笑みを刷く。
「空から舞い降りた勇者の伝説だね。昔、母さんに死ぬほど聞かされたよ」
聞かされた、というよりは自らねだって聞きに行ったと言った方が正しいのだが。夢物語に夢を見た幼い頃の自分を小馬鹿にするように、彼女は小さく鼻を鳴らした。
遥か昔にハイラル王国の礎となったという、勇者と姫の物語。彼らは地の底より這い出した闇を滅し、光に満ち溢れる実り豊かな国を築き上げたという。歴史書にも同じように記されているらしいが、真偽は怪しい。もしもその勇者の言い伝えが本当だったとしたら、是非ともこの魔に支配された時代を終わらせてほしいものだ。
アヤメはカップの中身をこぼさぬよう――かつ不自然に見えぬようにシークの元へ歩み寄った。目の前のテーブルにそれを置くと、温かな湯気を纏った白い水面に真っ赤な眼差しが落ちる。
「人々は歓喜と共に夜明けを迎え、その光を胸に抱いて穏やかな夢を見る。もう二度と、君達が瞼の裏の闇に怯えながら眠る必要はなくなるんだ」
「……シーク?」
自分の知っている話と少し違う。――いや。まるで、これから起きることを予見しているかのような。彼の口振りに不穏なものを覚えたアヤメは、そろりとシークの顔を覗き込む。ほんの数拍の間沈黙した彼は、抱えていたハープをごとりと無造作にテーブルの上に置いた。
「その光と共に、僕は――」
声を伴わないその音に、アヤメはもう一度「シーク」と彼の名を呼んだ。わずかに遅れて、彼はその瞳を瞬かせた。次いで口元の布をずらせば形のよい唇が露になって、どきりとアヤメの心臓が跳ね上がる。一見すると女性的にも感じる流麗な仕草でカップに口をつけたその口元を、彼女は夢でも見るようなふわふわとした意識で見つめていた。その喉が上下する様は、ミルクと共に喉から出かかった言葉を共に飲み込んだようにも見えた。
上唇に残ったミルクを、わずかに覗いた舌が舐め取る。次いで、つと視線が滑ってアヤメを見やった。どこか茶化すような、だがまっすぐこちらを見据えるその眼差しの色に、アヤメはぐっと呼吸をつまらせる。
「ところで君は、いつまで僕に世話を焼かせる気だい?」
呆れ混じりの揶揄に、アヤメは照れと気まずさを覚えてほんのりと頬を染めながら、包帯を巻いた足に体重をかけてまっすぐに立つ。――どうやらとっくのとうにバレていたらしい。それなのに、何も指摘しないで騙された振りをしてくれたのだ。
シークはふっとその目元にやわらかな苦笑を浮かべたかと思うと、ミルクを飲み干して立ち上がった。口元の布を再び引き上げた彼の眼差しは最早アヤメを見てはおらず、遠い夜明けをひたと見据えている。その紅眼の奥に静かな決意を見て取って、彼女は胸の奥に得体の知れない焦燥を感じた。
アヤメは手綱を引いて両足に力を込め、馬に指示を出した。三歩遅れて馬はその指示を飲み込み、ゆっくりと前進を止める。弾みをつけて馬から降りたアヤメがその鼻面を優しく撫でてやると、彼女は嬉しそうにその目を閉じた。
ロンロン牧場で借りたこの馬は気性が穏やかで、初心者であるアヤメのたどたどしい指示にも、つむじを曲げることなくよく従ってくれた。ほんの十日という短い旅であったが、彼女には本当に感謝をしている。
アヤメは大きく胸を膨らませて深呼吸した。深い緑と土の濃い香りが肺を満たす。顔を上げた彼女は、迎え入れるようにぽっかりと空いた巨木のうろを見据えた。
「あとは、この森だけだね」
シークが去ってからほどなくして、魔王が没したとの知らせがハイラル全土を駆け巡った。時を越えて現れた勇者が、七年間身を潜めて機を窺っていた王女と力を合わせて闇を打ち破ったらしい。何もかも、シークの言葉通りだった。ハイラルを覆っていた闇が消え、朝が訪れ、人々は歓喜の宴で希望の勇者を祝福した。
――そして、彼は消えたのだ。
カカリコ村にも、復興中の城下町にも、ゴロン族やゾーラ族の里にも、ゲルド地方にも――どこにもシークの姿を見たと言う者はいなかった。もしこの森にもいなければ、シークはこのハイラルから影も形もなくなってしまったということになる。
「大丈夫。――大丈夫、きっと見つかる」
アヤメは呪文のように唱えて、手のひらに感じる温もりから手を離す。馬はその黒い瞳で気遣わしげにアヤメを見つめ、鼻を鳴らした。
迷いの森に馬まで連れて入る訳にはいかない。彼女とはここでお別れだ。だが、心配は無用だろう。もし主が戻ってこなければ、自力で牧場まで帰ることができるくらいには彼女は賢い。そう教えてくれたマロンの得意気な表情を思い出して、アヤメはくすりと笑った。ほんの少しだけ、元気が出てきた気がする。
彼女は恐怖と不安に脈打つ胸を落ち着けるように胸に手を当てると、冷たい空気が漂ってくる巨木のうろへと震える一歩を踏み出した。
――森がアヤメを歓迎していないことは、肌に触れる空気の冷たさから如実に伝わってきた。頭上ではひそひそと木の葉が囁き合い、足元では木の根が悪意を持って進む足を絡め取ろうとし、草花は彼女を迷わせようとてんでバラバラの方向を指し示す。興味深げに近寄ってくる精霊達のほんのりと明るい輝きが、アヤメの不安を幾分かやわらげてくれていた。
「コキリ族の集落に、なんとかたどり着ければいいんだけど」
ぽつりと呟いた言葉に、静かな鳥の声が眠たげに答える。コキリ族は子供らしい外見に似つかわしく、無邪気な妖精であると聞く。子供故の無垢な残酷さは持ち合わせているかもしれないが、決して悪い存在ではないだろう。誠意を込めて助力を乞えば力を貸してくれるはずだ。――無論、無事に出会えればの話だが。
淡い光を纏った精霊達の数が徐々に少なくなっていることに、アヤメは気づいていた。それに伴って、こちらを遠巻きに観察していた森の闇がじわりじわりと忍び寄ってくる。……もしかしたら。不意に胸に沸き上がってきた暗い予感を追い払おうと、彼女はかぶりを振る。
「アヤメ」
――ふと、中性的な声が耳に聞こえた気がした。アヤメは弾かれたように顔を上げ、声の主を探す。精霊がひとつ、またひとつとアヤメの元を去っていく。暗闇に探し人が紛れて消えてしまう気がして、彼女は喉からせり上がってくる焦燥を飲み込んだ。
「シーク……シークだよね。そこにいるの?」
震える声をなんとか張り上げて名前を呼ぶ。次第に暗くなっていく視界に身震いしたアヤメは、すがるように側の木肌に手をつく。めくれかけた固い樹皮の手のひらに刺さる鈍い痛みが、目の前に見えるこの世界が幻覚ではないことを教えてくれている。
「アヤメ、こっちだ。僕はここにいる」
今度こそ、はっきりと聞こえた。奇妙に反響しているせいで方向こそ曖昧だが、彼は確かにそこにいる。そう確信を持った直後、シークの声が三度「アヤメ」とこちらを呼んだ。……先ほどより、わずかではあるが遠ざかっている気がする。
「待って!」
アヤメは矢も盾もたまらず暗闇の中へと駆け出した。勢いよく土を蹴る足音に驚いたのか、光が瞬く間に飛び散った。
藪や木の根に阻まれて思うように脚が動かない。鋭く弾かれた小枝に裂かれて頬が傷を作る。木のこぶに肩をぶつけ、息の止まるような痛みに唇を噛む。鼻先すら見えない闇の中、それでもアヤメはかすかな声を頼りにがむしゃらに進み続けた。こんな痛み、再び彼を見失ってしまうことに比べたら――。
「シーク、行かないで!」
このままではまた彼がいなくなってしまう。闇の彼方へと霞んでいく声に、アヤメは顔を歪めて手を伸ばした。目の裏が熱くなり、鼻と耳の奥がつんと痛くなる。彼の名を呼ぼうと口を開けば、狭まった喉から絞り出すような呻き声がこぼれた。
「おいで、こっちだ――」
シークの声にざわざわとした森の囁きが混じる。どこか子供の笑い声のようにも聞こえるそれはアヤメを穏やかに誘い、嘲笑うように遠くなっていった。
右も左も判別のつかない黒い空間に、自分の体がふわふわと漂っている。それをおぼろな意識で感じ取りながら、アヤメはゆるやかな息をついた。なんだか奇妙に心地いい。
ずっとこのままでいられたら、何も考えないでいられるだろうか。いっそ何もかもを忘れ去って、闇に溶けてしまうのもいいかもしれない。そんなぼんやりとした考えがふと浮かんで、アヤメの唇がゆるやかな弧を描いた。悪くない。長く続いた暗黒の時代も、喜びに歌い踊る人々の中で味わった虚無感も、何食わぬ顔でいなくなった彼のことも――。
「アヤメ。君はいつまで僕に世話を焼かせる気だい?」
はっとアヤメは瞼を開いた。夕暮れ時の空と明るい橙色に染まった草原が視界が飛び込んできて、その眩しさに反射的に目を細める。どうやらここはハイラル平原の一角で、自分は一本の木に背を預けて眠っていたらしい。
体を動かそうとして、直後に走った痛みに彼女は低く呻いた。体のあちらこちらに、何か切れ味の悪いもので裂いたような切り傷がある。加えてどこぞでひねったのだろうか、片足には包帯で添え木までされている。
それを目にしたと同時に、彼女は先ほどまで自分が森の中をさ迷っていたことを思い出した。――それがどうして、こんなところに。
「森は禁忌だから入ってはいけない。――そんなことすら知らなかった、だなんて言わせないよ。何せ、君自身がそう言ったんだ」
間近で聞こえたその静かな声に、アヤメは心臓が口から飛び出さんばかりに驚いた。勢いをつけて振り返れば、自分がもたれかかっていたのと同じ木に寄りかかるようにして、見覚えのある青い影の姿があった。影は腕を組み、その赤い瞳をそっと閉ざしている。
名を呼ぼうとして、息がうまく吸えないことに気がついた。じわりと視界に膜がかかって彼の輪郭が世界ににじむ。
「――シーク」
ようやく口にできたその言葉が、ほんのわずかに空気を震わせた。その声に反応したのか、ぼんやりとした影がこちらに顔を向ける気配がした。
「なんだい、情けない顔をして。それにしても、君も器用なものだね。前と同じ箇所を挫くなんて――」
「シーク!」
彼の皮肉めいた言葉を遮って、アヤメは彼に触れようとした。……が、彼女は自分の片足が固定されているのを失念していた。その状態でまともに立てる訳もなく、彼女は腰を浮かせる前に体勢を崩すとべしゃりと倒れてしまった。
「何をやってるんだい、君は」
呆れたような声音が上から降ってきて、アヤメの前にひとつの手が差し出された。瞬きをすると視界が鮮明になって、その指に巻かれた包帯のよれが目に入る。
――今度は幻覚じゃないよね。恐る恐る自分の手をその上に重ねれば、思いの外強い力でその手を捕らえられた。包帯越しに伝わってくる固い手まめの感触に驚いて思わず逃げようと手を引きかけたところを、逃がすものかとばかりにぐいと引っ張り上げられる。華奢な外見からは想像もできないほどの力である。
しゃんと立たされたアヤメは、恨めしげにシークを睨みつける。
「……痛い」
「そりゃあそうだ、怪我をしているんだからね」
アヤメの訴えを軽く受け流しながら、彼は肩を竦める。首がわずかに傾いて、頭部を隠す包帯からこぼれている金髪がさらりと揺れた。顔が半分隠れていても、相変わらず憎たらしいほどに美人である。
……肩に、シークの手が触れている。片足を庇うように宙に浮かせながらそれに寄りかかると、彼の腕にぐっと力が入るのが伝わってきた。幻覚にしては、あまりにも鮮明な感覚だった。
「本物、だよね」
確かめるように呟きながら、アヤメはその手に触れる。じわりと指先ににじむ体温は、確かに実在する生き物のそれだ。
「消えたんじゃなかったんだ」
「見当違いなことを言う。光が存在する限り、影が消えることはない」
――なんだ。それじゃあ結局、自分は一人で空回ってただけじゃないか。泣きたいのか笑いたいのか分からなくなって、彼女は中途半端な思いを肺の中の空気と共に押し出した。
「はは、馬鹿みたい。私――私ったら、てっきり……」
てっきり、シークは世界の夜明けと共に闇の彼方へ葬り去られてしまったものだと思っていた。だからこそ、生きては戻れないという迷いの森を最後に訪れたのだ。
腹の底から絞り出したかのような長いため息が、シークの口から落ちてきた。
「本当に君は馬鹿だ。大馬鹿者だ」
「な、なんですって?」
アヤメは思わず眉をつり上げる。確かに自分で自身を馬鹿だとは言った。それは認めよう。が、同じことを他人に言われると無性に腹が立つ。出かけていた涙も引っ込んでしまった。
シークは軽く顎を上げて、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。口元を覆い隠す布の下で、その唇が皮肉に持ち上がるのが見えた気がした。仮に手が塞がっていなかったなら、彼はきっと腕でも組んでいただろう。
「そりゃあそうさ。せっかく夜明けの光が訪れたんだ。光の裏に隠れて見えなくなった影など忘れてしまえばいいものを、それを探してこんなところに足を踏み入れるなんて」
「うっ……」
こちらを責め立てるような赤い眼差しに、アヤメは気圧されて顎を引いた。彼が助けてくれなければ森に惑わされた末に命を落としていたであろうことは明らかだ。……実際、彼が見つからなければ死ぬつもりだったのだからぐうの音も出ない。
「全く肝が冷えた。お陰さまで、こうして影の中から出てこないといけなくなった」
その口振りだと、まるでアヤメが自分を探しているのを承知でずっと見ていたようにも聞こえる。……もしそうだとしたら、もっと早くに出てきてくれればよかったものを。そんな不満を覚えたアヤメだったが、その口にはゆるやかな笑みが浮かんでいた。
――だって。
「シーク」
「なんだい?」
「やっと見つけた」
見据えた紅眼が、してやられた、とやわらかな苦笑に細められる。
――だってこうして、影の中に潜んでいた彼をまた捕まえることができたのだから。
「でも、どうせまたいなくなっちゃうつもりなんだよね」
「さて。そうしたいのは山々だけど、どうせまたアヤメは無茶を言って引き留めるつもりなんだろう?」
「かもね。せっかくだから、今度は闇の魔王にでもなっちゃおうかな」
そうしたらあなたを、また光の裏から引きずり出すことができるでしょう? 冗談めかして悪戯っぽく笑うアヤメをじっと見下ろしていたシークは、不意に耐え切れないといった様子で笑い出した。ひとしきり笑った彼は、顔の下半分を覆っている布を無造作に下げてその口元を露にする。
「本当に君は、世話の焼ける子だ」
困った風を装いつつ、どこか吹っ切れたような明るさのにじんだシークの笑顔に、アヤメは目を細めてくしゃりと笑った。
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