短編 | ナノ


 城下町の大通りに面した喫茶店で紅茶を口にしながら、アヤメは思わしげなため息をついた。その足元で、食料や日用品の詰め込まれた手提げがごそりと音を立てる。中身が少しばかり崩れてしまったようだが、それがアヤメの注意を引くことはなかった。
 もう一度ため息をついて、目だけをそっと周囲に走らせる。――怪しい者はいない。少なくとも、アヤメの目の届く範囲には。どうにも落ち着かなくて、彼女は剥き出しの腕を軽くさする。
 ……どこかから注がれるじっとりとした視線に、アヤメはすっかり辟易していた。
 視線の主の気持ちも分からなくはない。何せ、アヤメは一度世界に仇なした軍の一員なのだ。最終的に丸く収まったとはいえ、あの戦乱で多くの命が失われたことは事実である。それに、過去何度もハイラルを苦しめた魔王の――ガノンドロフの所業は、そうそう忘れられるものではない。だから、疑いの眼差しを向けられるのはある程度仕方がないことなのだ。
 そんな風に半分諦めの気持ちを抱いていた彼女だったが、こうもしつこく見られていると、さすがに気分も悪くなる。こうして喫茶店で紅茶でも飲めば気をまぎらわせることができるかと思ったが、それも無駄な試みに終わってしまった。
 ――それにしても、随分と時間を過ごしてしまった。アヤメはぬるくなった紅茶をゆっくりと飲み干す。視線のことはいったん忘れて、そろそろ帰らなければ。でないと、夫であるガノンドロフにまた心配をかけてしまう。彼は他者には徹底的に無関心だが、アヤメに関しては過保護を疑うほどに情を傾けている節があった。
 窓の外を見ると、もう日が傾きかけている。帰ると言っていた時間を少し過ぎてしまったことに気づいて、アヤメはその目元にふと苦笑をのぼらせた。少し遅れたくらいで怒るようなことはないだろうが、彼のことだ。しびれを切らして探しに来てもおかしくは――。

「ここにおったか、アヤメ。何をしていた?」

 噂をすれば、である。振り返った先に佇んでいた堂々とした巨躯の男に、彼女は困ったように眉根を下げて微笑みながら軽く頭を下げる。

「遅くなってごめんなさい、魔王様。もう買うものもなくなったので、帰る前に休憩していたんです」
「そうであったか」

 その答えに満足したのか、ガノンドロフの険しかった表情が心なしかゆるんだ。あるかなきかの笑みにほんのりとしたぬくもりを感じて、アヤメは頬を染める。彼の優しさを垣間見ることのできるこの特別感が、彼女は好きだった。
 ともあれ、ちょうど紅茶も飲みきったところだ。気の早い迎えと共に、そろそろ城へと帰るべきだろう。
 だが立ち上がろうとしたとき、ふとガノンドロフの視線があらぬ方向へと走った。おや、とアヤメが瞬きをすると、彼はその大きな手を彼女の肩に置いてその動きを制した。

「しばし待っておれ。すぐに済ませてくる」

 何を、とアヤメが問いかけようとするも、声をかける前に彼はその姿を消してしまった。闇の匂いがする魔力の残滓を肩に感じながら、ひとり取り残された形のアヤメは椅子に座り直しつつ、そっと口を閉ざす。
 行き先も告げずに、彼はいったいどこへ向かったのだろう。気にはなるものの、転移の術を使われては後を追うこともできない。そわそわとした気分になりながらカップを持ち上げて、それが空だったことを思い出す。
 ……ついに、気をまぎらわせる手段がなくなってしまった。アヤメは肩を落とすと顔を上げ、ほのかな不安を瞳に載せて店の中を見渡す。店内には様々な客が、それぞれ思い思いに時を過ごしていた。真面目くさった顔でカップの水面を見つめる男、集団でぺちゃくちゃと喋る少女達、落ち着いた様子で語り合う老夫婦。娘の汚れた口元をごしごしと拭う女性の姿を見つけると、心が幾分か楽になった。
 普段は落ち着いた場所を好むアヤメがこの賑やかしい喫茶店を選んだのは、ここに来れば人の気配に埋もれて視線が気にならなくなるのでは、と考えたからだ。結局のところそれが叶うことはなかったが――と、そこでふとアヤメは違和感に気づいた。そういえば、先程の嫌な視線を感じない。
 ガノンドロフの出現を目の当たりにし、その威圧感に恐れをなして逃げ去ってしまったのだろうか。首をひねっていた彼女は、そのとき不意に闇の魔力が収束する気配を感じて振り返った。ごとん、と重い靴が床に触れる音が耳を打つ。聞き慣れた音に安心感を覚えたアヤメは、視線のことなどすっかり忘れてほっと表情をほころばせる。

「おかえりなさい、魔王様」

 いつもの言葉をかけると、ガノンドロフは伏せていた金の瞳を現してかすかな笑みをアヤメに向ける。――そのほんの一瞬、彼女はガノンドロフの瞳にどこか重苦しい深淵めいたものを感じた気がした。

「我がいない間、何事もなかったな?」
「ふふ、こんな短時間に何かがあるわけないじゃないですか。心配のしすぎですよ」
「しすぎ、とはよく言ってくれる。これでも控えておるつもりなのだがな」
「まあ」

 くすくすとアヤメが笑うと、それにつられたのかガノンドロフの口の端が小さく持ち上がった。ほんの数週間前まで魔王としてハイラルを脅かしていた魔王であったとは思えぬほど穏やかな表情である。――やはり、先程のは自分の見間違いだったのだろう。アヤメは、知らず知らずのうちに強張っていた肩の力を抜いた。
 さて、と彼女は今度こそ椅子から立ち上がる。もうこれ以上ここに留まっている理由もない。さっさと城に帰って、迎えに来てくれた彼のために温かい紅茶でも振る舞うとしよう。
 座っている間によれた服を軽く整えたアヤメは、懐の財布から取り出した十ルピーをテーブルに置く。次いで足元に置いていた荷物に手を伸ばしたのだが、それは隣から割って入ってきた腕に寸前でかすめ取られてしまった。
 伸ばした手が空を切ったのに気づいて、アヤメは思わず「あっ」と小さな声をこぼす。主人でもある彼に荷物を持たせるなど、執事として失格だ。反射的に手提げを取り返そうと手を伸ばしたが、ガノンドロフはそれを嘲笑うかのように易々と彼女の手を避けた。

「アヤメの細腕にこの荷は重たかろう」
「……もう」

 これでは、自分が執事をやっている意味がない。苦笑をこぼしたアヤメは、行き場をなくしたその指を遠慮がちに彼の空いた手の甲に触れさせる。その触れた箇所から何を感じ取ったのか、次の瞬間ガノンドロフは手を翻すと素早くその繊手を捕まえた。不意をつかれた彼女が反射的に顔を上げれば、その視線の先でガノンドロフがにやりと笑う。――こちらが何をして欲しかったか、お見通しだったようだ。アヤメはふわりと頬を染める。

「ありがとうございます、魔王様」
「この程度、礼には及ばぬ」

 なんともないことであるかのようにさらりと言ってのけたガノンドロフは「行くぞ」と低く囁くと、アヤメの手を軽く引いて歩きだした。どうやら転移は店の外の、あまり人目につかぬ場所で行うつもりのようだ。

「マスターさん。紅茶、ごちそうさまでした」

 店を出る直前にふと思い出して振り返ったアヤメは、まだ年若い喫茶店のマスターに声をかける。マスターは去り行く彼女に気づくと、感謝の代わりに頬を染めて嬉しそうな笑みを返してきた。それを横目でちらりと見やったガノンドロフがつまらなさそうにふんと鼻を鳴らす。……少し会話をしただけでこれとは、相変わらず悋気の強い人だ。
 苦笑を目元ににじませたアヤメだったが、その心に込み上げてきているのは呆れではなく甘やかな愛情だった。過度な心配性も独占欲も、全てはガノンドロフがアヤメに抱く想いの強さ故だと、彼女は知っていたのである。
 その証拠に、彼は決してアヤメをぞんざいに扱わない。今だって、二人の歩幅に大きな差があるというのにこうやって歩調を合わせてくれているのだ。感謝を伝えるつもりでその筋肉質な腕に絡みつけば、頭上から穏やかな笑声が降ってきた。
 ガノンドロフのたくましい腕にすがりながら、アヤメは目を細めて幸福感を噛み締める。ガノンドロフは強く優しい夫だ。それこそ、自分にはもったいないくらいに。きっと自分はこの先も、彼の優しさに包まれながらこうして二人寄り添って生きていくのだ。そう、彼女は強く信じていた。
 ――この喫茶店が閉業したとアヤメが知ったのは、彼女が足を運んでから数日後のことだった。




「もうやめてください、魔王様」

 アヤメが腕を掴むと、寝台の縁に腰かけたガノンドロフはゆるりと首を回して彼女に目を向けた。寝室のほの暗さの中で、色の濃い金の瞳が妖しげに輝きを帯びる。その幅広の口からこぼれ落ちた小さな吐息には、薄い笑みが含まれていた。

「何をだ?」

 低く穏やかな声で問いかけながら、彼はその指をアヤメの頬に宛がう。その指先の触れた箇所からじわりと広がる優しい熱に、だがアヤメは惑わされまいと拳を強く握った。そうして深く息を吸うと、その赤い瞳でひたとガノンドロフを見据える。

「気づいていないと、お思いですか」

 仕様のない子だ。……そう言いたげに、ガノンドロフはその目元に苦笑をにじませた。
 ――例の喫茶店の廃業は、聞いたところによるとある日突然マスターが失踪したことが原因らしい。だがどうして彼が姿を消したのかは誰も知らないようだった。借金をしていたわけでもなく、人柄のよい彼を恨むような者もいない。――奇妙なこともあったものだ。あの賑やかさが嘘のように静まり返った空っぽの店内を眺めながら、そう噂する声をアヤメは聞いていた。
 奇妙な失踪事件はその後もポツポツと続いた。アヤメが懇意にしていた肉屋の主人、井戸の傍らで噂話を聞かせてくれた主婦、花を買ってほしいと裾を引っ張った浮浪児の少年、たまたま肩をぶつけただけの青年――アヤメと関わりを持った者が次々と、そしてひそやかに姿を消していったのだ。
 最初はただの偶然だろうと、その裏にちらつく影から目を背けていた。だがここまで不自然な失踪が続けば、さすがの彼女でも察しはつく。……気づいてしまったからには、止めないわけにはいかなかった。

「もうやめてください。このままでは、世界に誰もいなくなってしまいます」

 強い意志を声に秘めてガノンドロフをまっすぐに見つめるアヤメに、だがガノンドロフは喉の奥を低く鳴らして笑った。

「なるほど、それも悪くない」
「――魔王、様?」

 信じられない言葉に、アヤメは呆然と目を見開いた。――今、彼はなんと言った?

「全てを滅ぼしてしまえば、アヤメを永遠に閉じ込めておく必要はない。何恐れることなく、広大な世界を自由に歩かせてやることもできよう」

 悠々とした穏やかな声音で、ガノンドロフはそう口にする。その口元に浮かんだ淡い笑みに、アヤメはぞっと背筋が総毛立つのを感じた。余人が言えばただの戯言だ。だが、ガノンドロフにはその世迷い言を実現できる力がある。それをアヤメは知っていた。……世界が平らかになってさえ、彼は魔王なのだ。

「魔王様――冗談、ですよね?」

 アヤメは手の震えを抑えながらなんとか微笑みを浮かべる。きっと彼は、ほんの少し妻をからかおうとしただけなのだ。いくら彼とて、アヤメが苦心して得た平和を捨ててまでそんなことをしようなどと本気で考えるはずがない。
 ざらついた指が、なめらかなアヤメの頬を愛でるようになぞる。背筋をゆっくりと下っていく甘やかな痺れに、アヤメはわずかに身じろいだ。それを目にした金の瞳が、とろりとした熱っぽい光を帯びる。

「アヤメは我が半身にも等しい存在なのだ。誰にも傷つけさせぬよう守ることは、それほどおかしいことではあるまい」

 愛の囁きにも似た彼の言葉が、アヤメの耳を甘く侵していく。

「その瞳が何かを映し、その耳が何かを聞くたび、アヤメが染まっていく。アヤメの姿を誰ぞが見、その声を誰ぞが聞くたび――アヤメが損なわれていく」

 目を細めたガノンドロフの声音の裏に、アヤメはほんの一瞬だけ底知れぬ憎悪を見た気がした。覗き込めば飲み込まれてしまいそうに深い闇の気配に、彼女は反射的に体を強張らせる。――あの日。何かを『済ませ』て帰ってきたガノンドロフに感じたものは、これだったのだ。
 ガノンドロフはアヤメの肩に手を置いてゆっくりと身を乗り出す。肩を押す手の力よりもその気配に圧される形で、アヤメは背後のシーツの海へふわりと仰向けに倒された。その上にガノンドロフの巨体がかぶさり、彼女の体をすっぽりと覆い隠す。

「故に、アヤメを他者の毒に触れさせるわけにはゆかぬのだ。その髪一筋たりとも、な」

 ごつごつと節の目立つ太い指が、アヤメのやわらかな銀糸の髪に挿し入れられる。徐々に獣じみていく眼差しに反してこの上なく優しい手つきで髪を梳かれ、彼女はぞくぞくとした官能めいたものを覚えて身をよじらせる。

「アヤメの全ては、我のものなのだから」

 ――ガノンドロフ様は狂ってしまわれたのだ。そう囁き合っていた魔物達の声がアヤメの脳裏に蘇る。その魔物達も、その日を境に姿を見なくなってしまった。きっと王に『済ませ』られてしまったのだろう。
 あの優しいガノンドロフは――アヤメのためならとハイラルとの和平に応じてくれた彼はどこへ行ってしまったのか。アヤメはじわりと視界がにじんでいくのを感じながら、なおも愛する夫を正気に戻そうと呼び掛ける。

「そんなの、おかしいです。そんなことをなさらなくても、私は魔王様のものなのに」
「だが、我だけのものではない」

 ぞっとするほど固い声で、ガノンドロフはアヤメの言葉を否定する。答えに詰まった彼女は、開きかけたその唇をそっと閉ざした。
 ――私は魔王様ただひとりのものです。例えそう言ったとしても、恐らくガノンドロフに届くことはないだろう。彼が求めているのはアヤメの言葉や心ではなく、『アヤメが己ひとりのものである』という確信なのだ。それが得られない限り、きっと彼はアヤメを失う恐怖から逃れられない。

「アヤメよ、案ずるな。お前は我ひとりをその瞳に映しておればよい。さすれば、恐れなど感じぬであろう」

 ガノンドロフの親指がアヤメの目元をそっと拭う。にじんでいた視界が澄み渡り、ガノンドロフの黄金の瞳が眼前に広がる。その瞳の奥を覗き込んだアヤメは、自分をまっすぐに見つめる眼差しに思わず息を飲んだ。
 ――彼はどこまでも正気だった。魔物達の言うように狂気に呑まれたのでも、一時の熱に酔っているのでもない。彼はアヤメを愛する上で邪魔になる――もしくはなりうるものを極めて冷静に分析し、選別し、その上で全てを滅ぼすと結論を出したのだ。

「我のみを見、我が声のみを聞き、そして我のみを愛せ。――よいな、アヤメ?」

 アヤメを縛る言葉を囁きながら、彼はじっと彼女の赤い瞳を覗き込む。――彼は最後の一線を越える一歩手前で、アヤメの意志を確認しているのだ。きっとこれが彼を引き留める、最初で最後の機会なのだろう。
 彼女がひとつ頷くだけで、ガノンドロフは躊躇いもなく魔王として世界を滅ぼす。そしてその後に、他に何も目を向けるもののない焦土と化した世界で、ただアヤメだけを愛するのだ。
 逆に彼の差しのべた手を拒絶すれば、ガノンドロフはどれだけ辛かろうと自分の感情を抑えてくれるだろう。世界は恐怖に脅かされることもなく、昨日と同じように回り続けるはずだ。だがガノンドロフは永遠に満たされぬまま、己が内に渦巻く闇に苛まれることになる。
 世界か、それとも愛する夫か。――そんなの、選ぶまでもない。アヤメはそのほっそりとした腕を持ち上げ、彼の頬をその薄い手のひらで包み込む。そして震える唇に笑みを咲かせると、一言だけ言葉を紡いだ。

「――はい」

 直後、やわらかな口づけがアヤメの唇を塞いだ。わずかに開いた隙間から侵入してきた熱い舌が、脳まで痺れるほどの甘美な感覚をアヤメに注ごうとする。身を蕩かしてしまうほどの快楽に、彼女はあえて身を投げ出した。彼の愛に溺れてしまえば、きっともう何も見えなくなる。愛すべき世界も、脳裏に浮かぶ友の顔も、何もかも忘れてしまえるはずだ。
 どれほどの間、互いの愛を貪っていたのだろうか。時間も思考も全てが融け合って分からなくなった頃、ガノンドロフはようやくアヤメを解放した。朦朧とした意識の中で、アヤメはぼんやりと彼を見上げようとする。――瞼が異様に重い。どうやら、唇を通して眠りの術をかけられたらしい。ガノンドロフはかすかな笑い声をこぼすと、その耳元に魔力を帯びた囁きを吹き込んだ。

「しばし眠っておるがよい。その紅玉の瞳が再び開く頃には、全てが終わっていよう」

 魔術と暗示が幾重にも自分の体を覆っていくのを、夢うつつの中でアヤメは感じた。この自分を守る見えない繭が取り払われたとき、世界に残されているのは魔王とその妻の二人だけになっているはずだ。
 自分は二人ぼっちの世界で、ガノンドロフの優しさに包まれながらそれに寄り添って生きていくのだ。――それはなんと寂しく、だがなんと優しい世界なのだろうか。瞼を閉じたアヤメの目尻に、うっすらと透明な雫が生まれる。

「我が愛の全ては、アヤメのために」

 穏やかな闇に意識が溶けていく間際、彼女は自分の目元にやわらかい唇が触れたのを感じた。





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