短編 | ナノ

※龍妬様のサイトの時のオカリナ連載夢主・シキさんとコラボさせていただきました



 そのティーカップに施された控えめでありながら繊細な装飾は、非常にアヤメ好みのものだった。細く可憐な持ち手や染みひとつない真っ白な磁器、セットになったソーサーの金の縁取り――どれを取っても、美しいとしか言いようがない。
 ……ただひとつ。ただひとつ欠点があるとすれば、それは中で湯気を立てている紅茶が自分の淹れたものであるというその一点であった。
 アヤメは恐れ多いとでも言いたげに、恭しくカップの持ち手に指を添えると、ゆっくりとそれを持ち上げる。紅茶の水面が揺れて、窓の外から差し込む太陽光をゆらりと反射する。舌を火傷させないように慎重にカップの縁に口をつけた彼女は、その味を舌先に感じた瞬間に眉を寄せて渋面を作った。

「……うーん。やっぱりシキさんの淹れたお茶の方が美味しい気がするんですよね」
「そう、ですか?」

 アヤメの対面の椅子に腰かけている少女が首をかしげると、銀の髪がさらりと肩を滑った。赤い瞳をきょとんと瞬かせる様子は、肌の白さと相まってどこかウサギを思わせる。
 この銀髪紅眼の少女――シキは、『シキの世界』のガノンドロフの妻として彼と共に暮らしている者だ。
 以前、アヤメはうっかり次元の裂け目に巻き込まれてこちらの世界に落ちてしまったことがある。そこでたまたま出会って、アヤメの帰還に全力を尽くしてくれたのが彼女であった。
 なんとか元の――自分のよく知るガノンドロフのいる世界に戻ることができたアヤメだが、せっかく仲良くなったシキとこれっきりになるのはあまりにも惜しい。彼女は口八丁手八丁で双方のガノンドロフに頼み込み、次元の穴を固定化して互いに行き来できるようにしてもらったのだ。
 そんなこんなで交流を持ち、現在アヤメはシキに美味しい紅茶の淹れ方を教えてもらいに来ているという訳である。

「そうですよ。味オンチな私にだって、シキさんの紅茶が自分のよりずっと美味しいことくらいは分かります」

 すると、シキはその人形のように整った顔にふわりとやわらかい笑みを浮かべた。

「ふふ、ありがとうございます。やはり、人に褒めていただけると嬉しいものですね」

 花がほころぶような可憐な笑顔に、アヤメはほうと見とれる。これだけ美しいのに性格も謙虚で礼儀正しく、おまけに家庭的で気配りも利くときた。シキと接していると、『あちら』のガノンドロフが彼女を溺愛するのも頷ける。

「アヤメさんの腕も、上達していると思いますよ」
「ほ、本当ですか?」

 唐突に褒められて、アヤメは反射的にぴんと背筋を伸ばす。緊張と喜びに頬を染めるその様子に、シキはくすくすと楽しげに笑った。

「ええ、前回よりもずっと美味しくなっています」
「……シキさんにそう言っていただけると、嬉しいです」

 シキの言葉が嘘偽りでないことは、まっすぐに向けられたその笑みが証明していた。ひそかな努力を認められて、じわりと胸が暖かくなる。……だが、それでも胸の内のもやは晴れない。アヤメは想い人の仏頂面を思い出して苦笑すると、カップの中の揺れる水面に目を落とす。

「でも、まだまだガノンさんに褒めてもらえるほどじゃないんですよね」
「そちらの魔王様に、ですか?」

 シキは軽く目を見張ると、二度瞬いて小さく首を傾けた。意外でならない、といった風である。『そちら』のガノンドロフに慣れている彼女からしたら、さぞかし不思議に思うことだろう。シキと相対する彼の優しげな眼差しを初めて目の当たりにした時は、自分の世界のガノンドロフとのあまりの違いにアヤメも仰天したものだ。
 ――そう、『こちら』のガノンドロフには優しさが足りないのだ。アヤメは不満げにため息をついて机に肘をつく。

「あの人、美味しいなんてちっとも言ってくれないんですよ。それだけじゃないんです。こっちがいくら頑張っても全然労ってくれませんし、皮肉ばっかり言うし、イジワルだし――」

 途中からただの愚痴になってきたことに気がついたアヤメは、紅茶のカップを傾けると言葉と一緒に一息にそれを飲み干した。こんなことを言いに、この世界を訪れたわけではない。
 アヤメの不満に耳を傾けていたシキは、苦笑を浮かべて自分の頬に手の平を宛がった。こういった仕草ひとつ取っても、なんとも自然で女性らしい。

「信頼されてるんですよ、きっと」
「だといいんですけどね」

 ……いや、信頼されているのは確かなのだ。仕事に関して厳しいのも、努力をいちいち褒めてくれないのも、実力を認められていることの表れだ。アヤメ自身にも、その信頼に応えてより彼の役に立てるような存在になりたいという思いは確かにあった。
 ――だが、それだけでは足りないのだ。以前こちらに世話になったときに散々見せつけられたシキとガノンドロフの仲睦まじさを思い返し、アヤメは再びため息をつく。

「私だって、たまにはシキさんみたいに頭撫でて褒めてもらいたいなぁ」

 シキを見下ろして穏やかにゆるむガノンドロフの瞳、やわらかそうな銀髪にそっと下ろされる大きな手の平、嬉しそうに頬を赤らめてそれを受け入れるシキ。――幸せをそのまま切り取ったようなその光景に、アヤメは羨望と嫉妬の入り交じった眼差しを向けずにはいられなかったのだ。
 シキは返す言葉が見つからないのか、困ったように笑いながらティーカップをソーサーに戻した。……直後、部屋の扉がノックもなしに無造作に開かれる。静かになった部屋に響いたその音に反射的にそちらを見やったアヤメは、そこにいた人物に思わず肩を強張らせる。

「戻ったぞ、シキ」

 後ろ手に扉を閉めたガノンドロフが、ゆったりとした歩調でこちらに歩み寄ってくる。その姿を見たシキが一拍遅れて立ち上がった。

「あっ――ま、魔王様、おかえりなさい! 申し訳ありません、お出迎えもせず」
「構わぬ。客が来ておったのだろう」

 駆け寄っていったシキの頭を穏やかに撫でていた彼は、不意にこちらに視線を向けた。どこか冷たいようにも感じるその眼差しに、アヤメは息を詰まらせてその体を縮こませる。

「お、お邪魔してます……」

 しばらくこちらをじっと見下ろしていたガノンドロフは、ふんと鼻を鳴らすとつまらなそうに視線を外した。……どうにも『あちら』のガノンドロフは苦手だ。いくら自分の世界のガノンドロフと同一人物だとはいえ、彼は自分とは全く関わりのない存在――いわば他人である。見知らぬ凶悪な魔王なのである。そのため、どうしても威圧感に耐えきれず萎縮してしまうのだ。

「魔王様、今日はアヤメさんが紅茶を淹れてくださったんですよ。魔王様もいかがですか?」
「ほう? ならばいただこうか」

 まずい、とアヤメは血相を変えて立ち上がった。ただでさえ味に自信がないのに、相手は『あちら』のガノンドロフである。シキの紅茶を飲み慣れた舌に、アヤメの淹れた紅茶は果たしてどう感じられることだろうか。だが止めようと思った時にはすでに遅く、ガノンドロフはすでにカップに口をつけてしまっていた。
 ふむ、と味を確かめるように黙り込むガノンドロフの顔色を窺いながら、アヤメは冷や汗を感じて深々と頭を下げる。

「も、申し訳ありません、ガノンドロフさん。その、お口汚しを」
「言うほど不味くはない。確かにシキの淹れたものには遠く及ばぬが――」

 ガノンドロフはその眼差しをアヤメに向けると、わずかに口の端を持ち上げる。そしてその腕を伸ばすと、大きな手の平で不器用にアヤメの髪をかき混ぜた。

「その努力は認めてやろう」

 彼の微笑と、頭の上に乗っている厚く固い皮膚が優しく滑る感覚。自分が今どのような状況に置かれているかをようやく自覚したアヤメは、両手で自分の服の裾をぎゅっと掴んだ。顔中に血液が集まってくるのを感じる。彼はアヤメの世界のガノンドロフではないのだと自分に言い聞かせても、顔の火照りは欠片も収まってくれない。
 口を利けないでいるアヤメの様子に笑みを深めたガノンドロフは、彼女の後頭部に手を回すと髪留めを外す。はらりと流れ落ちた髪を愛でるように手ですいた彼は、そのまま彼女の頭部を支えてゆっくりと顔を近づけてきた。
 ――いけない。あまりの事態に混乱しながらも理性が警鐘を鳴らしたのをなんとか聞き取った彼女は、彼の胸甲に手をついて引き離そうとする。

「え、あ、待っ――だ、ダメです、ガノンドロフさん! あなたにはシキさんが――」

 ちらりと罪悪感に満ちた眼差しをシキに向けたアヤメは、にこやかな表情でこちらを見守っている彼女を目にして言葉を失った。
 ……ちょっと理解が追い付かない。彼女からすれば、夫が別の女性に迫っているこの状況は浮気現場でしかないはずだ。何をそんなに微笑ましげに目を細めているのだろう。
 嫌な予感を覚えたアヤメは、固まってしまいそうな首の筋肉をぎこちなく動かしてガノンドロフに視線を戻す。そこには、にやにやといつも通りの人の悪い笑みを浮かべているガノンドロフの姿があった。――そう、『いつも通り』の。

「……まさか」

 ガノンドロフは金の瞳をにやりと歪ませる。その表情に、アヤメは全てを悟った。

「どうした、オレに頭を撫でられてみたかったのだろう?」

 ――彼は間違いなく、『自分の元いた世界』のガノンドロフだ。この男はアヤメが自分をシキの世界のガノンドロフであると勘違いさせ、戸惑うアヤメをからかっていたのだ。彼女は盛大にため息をつき、ガノンドロフの胸甲にごつんと額をぶつける。

「そういうとこがイジワルだって言ってるんですよ……」

 情けない声で文句を垂れると、頭上から喉を鳴らして笑う声が落ちてきた。まんまと騙されしまったことが悔しくて、アヤメは低く呻き声を漏らす。

「シキさんも、最初から分かってやってましたね?」
「ふふ、ごめんなさい」

 顔を上げてシキに恨みがましげな視線を向けると、彼女は悪びれた様子もなく小さく笑った。やはり彼女もグルだったらしい。どうりで初めにガノンドロフが入室してきた時の反応が鈍かったわけだ。彼の突然の振りに合わせ、さも自分の世界のガノンドロフが帰ってきたかのような即興の演技ができるとは、彼女もなかなか侮れない。そんな考えを見抜かれたのか、ガノンドロフがふんと鼻を鳴らす。

「たわけ、人に責任をなすりつけるな。オレが『どちら』であるかを一目で見抜けなかった貴様が悪い」
「無茶言わないでください。あなたが本気で演技なんてしたら、それこそシキさんくらいしか見抜けませんよ」
「貴様の精進が足らぬのだ」
「ふふ、本当に仲がよろしいんですね」

 こちらのやり取りを見守っていたシキが、楽しげにくすくすと笑う。……端からはそんな風に見えるのか。何やら気恥ずかしくなって見上げると、バツの悪そうに顔をしかめたガノンドロフと目が合った。そこはかとないむず痒さを覚えて、アヤメはガノンドロフからふいと目をそらす。――そうして視線をずらした先にふとあるものが目に入って、アヤメはひくりと口の端を痙攣させた。

「……シキさん。あなたの言葉、そっくりそのままお返ししますよ」

 シキはきょとんと不思議そうに目を瞬かせる。だがアヤメの視線をたどって扉の方を見やると、その整った顔立ちに浮かぶ表情が一瞬で硬直した。

「……あ」

 部屋の入り口には、もう一人の――『シキの世界』のガノンドロフが佇んでいた。その全身からは静かな、だが触れただけで火傷をしてしまいそうな殺気が立ち上っている。向けられた金の眼差しは、背筋が凍えるほどに冷たい。

「用が済んだらさっさと去ね、下郎が」

 地を這うような憎々しげな声に、アヤメは恐怖を覚えて『自分の世界』のガノンドロフの後ろに隠れる。自分でも知らぬ間に、うっかり彼の逆鱗に触れるようなことを仕出かしてしまったのだろうか。彼の怒りの原因を探して記憶をたどっていたアヤメは、ふと『こちら』のガノンドロフがシキの頭を撫でている光景を思い出した。……原因はこいつか。
 呆れ果てた眼差しを向けていると、『こちら』のガノンドロフは鼻で『あちら』をせせら笑った。

「ふん、軽く手を触れただけでこの殺気とは……。シキよ、貴様の夫はよほど悋気の強い男のようだな」
「は、はあ……」

 二人のガノンドロフに交互に視線を向けつつ、シキが曖昧な返事をする。『こちら』のあからさまな煽りに『あちら』のガノンドロフの殺気が増したことを気にかけている素振りである。そんな二人の反応を見てさらに相手をからかいたくなったらしく、『こちら』の彼が今度はシキの肩を抱き寄せようと手を伸ばす。

「――おっと」

 だが、その手がシキに届くことはなかった。『あちら』が放った魔光弾が、二人の間を切り裂くように飛んできたのだ。すんでのところで『こちら』が手を引っ込めたため、目標を失った光弾は轟音を立てて壁を破壊する。
 シキとアヤメは二人して、崩壊した壁を呆然と眺めた。……本気の攻撃である。直撃すればただでは済まなかっただろう。『こちら』のガノンドロフは魔王らしい凶悪な笑みを浮かべながら、挑発的に顎を上げる。

「物騒なことだ。それほどこの女が大事か」
「貴様、よほど殺されたいと見える。……よかろう。そちらがその気ならば、全力で貴様を屠ってくれるわ」
「ほう、やるつもりか?」

 二人の魔王が相対し、冷たい殺気がぶつかり合う。『シキの世界』のガノンドロフは怒りに燃えた瞳を見開くと手の中に魔力をみなぎらせ、『アヤメの世界』のガノンドロフは歯を剥いて獰猛に笑いながらそれを迎え撃とうとその手に大剣を構える。彼らが同時に足を踏み込み、己が敵に向かって駆け出そうとした、まさにその時である。

「魔王様!」

 鈴を鳴らすような澄んだ声が、両者の殺気を打ち消した。思わぬ横槍に、彼らは足を踏み出そうとした体勢のまま、呆気に取られたように目を見張って銀髪の少女に顔を向けている。
 シキは『あちら』のガノンドロフの元へ足を進めると、その赤い瞳に咎めるような色を浮かべて彼を見据える。

「お客様相手に喧嘩はいけませんよ、魔王様。いつも言っているでしょう?」

 壁まで壊して、と困ったような眼差しを大穴の空いた壁に向けるシキ。『あちら』はぐっと言葉を詰まらせると、激しい怒りをまなじりに乗せて『こちら』を睨みつけた。だが彼はやがて、諦めたように瞑目すると長いため息をつく。

「……悪かった、シキ」
「はい」

 不承不承と言った謝り方ではあったが、シキは満足したらしくふわりと優しげに微笑んだ。ついでこちらに向き直った彼女は、執事らしくぴんと背筋を伸ばすと申し訳なさそうに眉根を下げた。

「すみません、ご迷惑をおかけして――」
「構いませんよ。こっちに非があるのは確かですから」

 頭を下げようとした彼女を慌てて制止する。実際に攻撃を繰り出し、壁を壊したのが『あちら』のガノンドロフであることには変わりない。だが『あちら』を挑発して壁が壊れる原因を作ったのは、自分の傍でにやにやと嘲りの笑みを浮かべているこの男なのだ。アヤメは批難じみた目つきで『こちら』の彼を見上げて軽くため息をつく。どうして、同一人物のはずなのにこうも性格が違うのだろう。連れ添う女の差か。

「それにしても、そちらのガノンドロフさんは本当にシキさんを愛されてるんですね。羨ましいなぁ」
「あ、愛だなんて、そんな……」
「ふん、何を否定する必要がある」

 羨望の眼差しをシキ達に向けると、『あちら』のガノンドロフは顔を赤らめたシキの肩を掴んで自分の方に引き寄せた。シキが小さく悲鳴を上げて胸の中に収まると、彼はその大きな手で彼女の後頭部を支えて顔を仰向かせ、噛みつくように唇を落とした。ほう、と『こちら』のガノンドロフが興味深げに片眉を上げる。
 ――シキはぎゅっと目を瞑って、羞恥心と込み上げてくる何かを堪えているようだった。『あちら』のガノンドロフはそれを楽しむように、わざとゆっくりと彼女の唇を食んでいる。あまりの熱烈ぶりに見ていられなくなったアヤメは、口元を手で覆ってそっと目を背けた。自分の顔もシキに負けず劣らず赤く染まっているであろうことは、室内に備え付けられた鏡を見なくても分かる。
 やがて、視界の隅で二人の影が離れるのを捉えたアヤメは、ほっと息をついて視線を戻す。シキは耳まで真っ赤になりながら、唇をわなわなと震わせていた。

「お、お客様の前ですよ、魔王様!」
「見せつけてやっておるのだ。二度と、我が妻に手を出そうなどと下らぬ考えを起こさぬようにな」
「……もう」

 にやりと笑って自分を抱き締める夫に、シキは呆れたような息を吐き出すと、仕方がありませんねとでも言いたげにやわらかな苦笑をその目元に浮かべた。

「あーあ、あてられちゃいましたね。……お邪魔虫は帰りましょうか、ガノンさん」

 アヤメが苦笑して『こちら』のガノンドロフを見上げると、彼はふんと鼻を鳴らして踵を返した。ゆったりと大股で部屋を立ち去る彼に追いすがる前に、シキ達に別れの挨拶をしようと振り返る。

「あ、アヤメさん! お見送りを――」

 アヤメ達が帰途に着くことを見て取ったシキが慌てたようにこちらに向かってこようとしたが、『あちら』のガノンドロフは彼女を腕の中に閉じ込めたまま一向に放そうとしない。拘束する腕の力は生半可なものではないようで、彼女がいくらもがいても抜け出せる気配すらない。
 どうしたものかと困ったようにこちらを伺ってくるシキに、アヤメは微笑みながら首を横に振って見送りを断った。





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