短編 | ナノ


 トアル村に程近い山の奥を、巨躯の黒馬が早足で駆けている。その背に跨がるガノンドロフは、馬を己の手足のように操りながら、静かな山中に潜む魔物の気配にそっと注意を向ける。――日中に活動する魔物は弱く大人しいものが多い。魔王であるガノンドロフにあえて襲いかかるものはいないだろうが、不意を突かれて馬を無闇に怯えさせるのは避けたかった。
 ゲルド族がハイラルから立ち去ったこの時代において、並外れた体格を持つ彼が騎乗するに足る馬を調達するのは非常に骨が折れる。このゲルド馬は、そんな中で様々な手を駆使してなんとか手に入れた貴重な一頭だった。欲を言うならばもう少々勇猛な個体であってほしかったのだが、無い物ねだりをしても仕方がない。
 登り坂が途絶え、ガノンドロフの目の前に不意に開けた土地が広がった。そこにそびえる石造りの城を仰いだ彼は、上空で複数のガーナイルが哨戒している様子を確認して肩の力を抜く。――城にはなんの異変も起きていないらしい。彼は馬を降りて部下の魔物に手綱を任せると、外套を翻して入り口を潜った。

「お帰りなさいませ、魔王様」

 ――そう声をかけてきたのは、召し抱えている部下の一人だった。いつもより帰りが幾分早いとはいえ、いつものように妻の出迎えがあるものだと思っていた彼は、少々面食らって立ち止まる。

「珍しいな。アヤメはどうした」
「アヤメ様は第三客室にいらっしゃるはずです。……そういえば、魔王様のお戻りに駆けつけないとは、アヤメ様らしくございませんね」

 部下はそう言って不思議そうに首をかしげてみせる。
 ガノンドロフの妻であるアヤメは、かつてどこかの世界で執事として働いていたことがあるらしい。その時代の癖が抜けないのか、それともそれが妻の務めであると固く信じているのか、毎日欠かさずこのエントランスでガノンドロフの見送りと出迎えを行っている。
 控えめな笑顔を保ちつつも、瞳に溢れんばかりの喜びをたたえて丁寧に頭を下げる――今日に限ってそんな彼女の姿がないというのは、どうにも落ち着かない気分だ。
 彼女が駆けてくる靴音が、「魔王様」と慕わしげに呼び掛けてくる声が、今に聞こえはしないか。そう思って廊下に目をやるも、アヤメがこちらに向かってくる気配はない。――本当に、彼女はこの城内にいるのだろうか。ガノンドロフが再度確認すると、部下は大きく頷いた。

「はい。昼頃から誰も出ていらしたところを見ておりませんので、それは確かです」

 ガノンドロフは疑わしげに眉を寄せて鼻を鳴らす。この魔物のちゃらんぽらんな記憶力はあまり信用できたものではない。だが、そこまで自信ありげに言うのならば今回ばかりは間違いはないだろう。部下に仕事に戻るように言い含めた彼は、その足を客室のある区画へと向けた。




 魔物が住まうこの城に訪れる者は少ない。立ち入るとしても、せいぜい世間話がてらに食材を差し入れに来る勇者か、王女の使いぐらいのものである。極稀に彼らが用事を持ち込んでくることもあるが、それもちょっとしたものばかりで応接室での応対で済むことが大半だ。従って、余程のことがない限り客室に人が泊まることはない。――そんな状況でもアヤメはお客様に失礼のないようにと健気にも掃除を欠かさず、いつも清潔に保っている。
 第三客室はその中でも、あまりに利用頻度が低いために彼女でさえ客室としての使用を諦めてしまった部屋である。窓が大きく景観もそこそこ悪くないため、適当な家具を並べてガノンドロフとアヤメの二人がくつろぐスペースと化していた。
 ――果たして、アヤメはそこにいた。
 安楽椅子に深く腰かけた彼女は、その細い体をくたりと背もたれに預けている。目蓋は軽く閉ざされ、わずかに開いた唇が浅い呼吸を繰り返している。傾きかけた日差しが、ただでさえ白いその肌を一層目映く輝かせていた。ガノンドロフが入室したのにも関わらず微動だにしないアヤメの姿は、整った顔立ちも手伝って一見するとよく出来た磁器人形のようだ。
 ……どうやら、彼女は居眠りをしていたために夫の帰城の気配に気づかなかったらしい。そんなことだろうとは薄々思っていたものの、こうして実際に寝顔を目の当たりにすると少々肩透かしを食らったような気分になる。

「――穏やかな寝顔をしておるな」

 規則正しく寝息を立てるアヤメの横顔をじっと眺めていたガノンドロフは、ふとほの暗い笑みをその口元に浮かべる。――この平穏そのもの時間がいかに脆いものか、アヤメは思ってもいないのだろう。
 今はこうして妻と共に安閑とした生活を送っているガノンドロフではあるが、彼はハイラルの支配を完全に諦めたわけではない。その野望はいまだ、胸の内に燠火のようにくすぶっていた。
 その気になれば、彼は再び残った魔物を結集させるなりなんなりして、ハイラル王国に宣戦布告することもできる。……いや、その前にゼルダ姫に近づき、暗殺する方が手っ取り早いだろう。近場のトアル村を包囲してまるごと人質に取るのもいいかもしれない。……そんな思いを巡らしはするものの、それを実行する気は今のガノンドロフにはさらさらなかった。
 ハイラル王国に突き立てる牙はまだ抜かれていない。だが、こうして陰謀とは無縁の場所で妻と静かに暮らすのも悪くないと思える。この仮初めの平和がこうも長く保たれているのは、そういった彼の心境の変化が大きかった。

「知らぬ間に、我の気性も随分と穏やかになったものよ」

 ガノンドロフは自嘲の笑みをこぼすと、アヤメの元へと足音を殺しながら近づいていく。どれほど近寄れば自分の気配に気づくかなどと考えてほくそ笑んでいた彼は、ふと彼女の膝の上に布を張った丸い木枠が乗っているのに目を留めた。アヤメの細い手が布地の大部分を覆い隠すように被さっているため、それが何であるかは判然としない。

「これは――」

 直接触れたことはないが覚えのあるその形に、彼は眉を寄せて唸ると前屈みにそれを覗き込む。その拍子に顔に影がかかったのに気づいたのか、アヤメはくぐもった声で小さく呻くと寝返りを打つように首を傾けた。

「うぅ、ん……?」

 ガノンドロフの目と鼻の先で銀の睫毛がかすかに震える。ゆっくりと目蓋が開いていくと、鮮烈な赤の瞳が姿を現した。彼女は二度瞬きをすると、ふと思い出したようにとろんとした眼差しでこちらを見上げた。その直後である。

「――ま、魔王様!」

 アヤメは大きく目を見開くと、慌てた様子で立ち上がる。そのどさくさに紛れて、彼女が後ろ手に木枠を隠したのをガノンドロフは見逃さなかった。

「すみません! お出迎えもせず、このような醜態を晒してしまうなんて――」
「刺繍をしておったのか」

 隠す間際にちらりと見えた染め糸に、彼はようやく木枠の正体に思い至った。故郷であるゲルドの集落ではついぞ見かけなかったが、かつてハイラル城で勤めていた頃に幾度となく目にしたことがある。

「は、はい。雑事を一通り終えたので、手慰みにと始めたのですが……」
「ほう、見せてみろ」
「だっ――ダメです、いけません!」

 手を差し伸べて一歩詰め寄ったガノンドロフから、アヤメは刺繍枠を庇うように距離を取る。不審に思った彼がもう一歩足を踏み出すと、彼女は同じようにもう一歩後ずさる。

「何故隠そうとするのだ、アヤメよ?」
「い、いえ、その……」

 じっとアヤメの瞳を見つめると、彼女はわずかに顔を赤らめて視線を泳がせた。あからさまに何かを隠している。……この自分を相手に隠し事をしようなどとは百年早い。口角を持ち上げたガノンドロフは、じりじりとアヤメを壁際に追い詰めていく。戸惑いつつも逃げ場を探すように揺れる瞳がまるで小動物のようで、ガノンドロフは胸の内の嗜虐心がわずかにうずくのを感じた。
 ついに、アヤメの靴の踵がこつんと壁にぶつかった。はっと振り返ってこれ以上引けないことに気づいた彼女は、持ち前のすばしっこさを発揮してガノンドロフの脇をすり抜けようと身を沈める。その行動を予測していたガノンドロフは、いとも容易く彼女の肩を捕まえるとその手から刺繍枠を奪い取った。

「あっ……!」
「ほう、なんとも器用なものだな」

 アヤメに奪い返されぬように高い位置に持ち上げ、明るい日の光に晒すようにしてそれを眺める。
 彼女が縫っていたのは、黒みがかった薔薇の花だった。まだ半分も出来上がってはいないが、繊細な図案とそれに見合う緻密な針運びがアヤメの技術の高さを窺わせる。あれだけ隠し立てするものだから相当酷い出来映えなのかと思っていたが、なかなかどうして美しい。
 大きさからして、この布は手巾にするつもりなのだろう。ほの暗い闇を思わせる花やそれに絡み付くくすんだ金の荊が、穏やかで女性的な彼女らしくない意匠であることはいささか違和感を覚えるが――。

「そ、それより早くお返しください、魔王様。半端なものをあまりまじまじと見られてしまうと、その、恥ずかしいんです……!」
「そう出来の悪いものでもなかろう」

 刺繍の腕を褒められたアヤメは顔を赤らめて困ったように眉根を下げるが、それとこれとは話が別らしい。彼女はその細い腕を伸ばすとなんとかして自分の未完成な作品を取り返そうとし始める。その必死な様が面白く感じて、ガノンドロフはからかうように腕をさらに高く掲げた。
 むっと唇を結ぶんだアヤメは、今度はガノンドロフの胸にすがり付くようにその胸甲に指をかけると、腕の力を利用して決死の表情で飛び上がってきた。そうまでして見られるのが嫌なのだろうか。彼女の腕をかわしつつ刺繍枠に目を向けると、ふと布の縁にも下書きがしてあることに気がつく。ここにも刺繍を施すつもりなのかと木枠をぐるりと回転させて見れば、彼女がここまで必死になる理由がようやく理解できた。

「……成る程な」

 片隅に装飾文字で記された己の名前にふんと鼻を鳴らしたガノンドロフは勝ち誇った目つきでアヤメを見下ろす。恐らく彼女は自分に秘密でこっそりとこの手巾を完成させ、こちらを驚かすつもりだったのだろう。ガノンドロフの表情から自分の目論見が失敗してしまったことを悟ったアヤメは、あからさまに気落ちして肩を落とす。

「あぁ……もう、せっかく内緒で準備してましたのに」

 控えめな声音で文句を言うアヤメに、ガノンドロフはにやりと意地悪そうに唇を歪めてみせる。

「我を出し抜きたいのならば、もう少しばかり慎重になるべきであったな」
「うっ。た、確かに居眠りをしたのは不覚でした。ですが、それにしたって……」

 アヤメは口をつぐむと、恨めしげな眼差しでこちらを見上げた。――本人は怒っているつもりなのだろう。だが、こちらの胸にすがり付いたままの格好で、拗ねた子供のように睨まれても痛くも痒くもない。ガノンドロフは軽く鼻を鳴らす。

「それほど我の意表を衝きたかったか、アヤメ?」
「だって、魔王様にはいつも驚かされてばかりですから。たまには私の方からあっと言わせたかったんです」

 むくれてそっぽを向く彼女が口にした理由に、彼は思わず喉を鳴らして笑った。子供じみてはいるが、その素直でひたむきな思いはなんとも心地よい。――つい、からかってやりたくなるほどに。
 ガノンドロフは片足を引いて身を屈めると、アヤメを真正面から見据える。

「我が驚かすとは、どのようにだ?」

 素知らぬ顔で問いを投げれば、アヤメの赤い瞳が何を思い出したのか戸惑いに揺れる。

「で、ですからその、突然抱き上げたり、思いも寄らなかった物を贈ってくださったり――」
「ほう? それだけか」

 目をそらすことなく相手の瞳をじっと覗き込み、ガノンドロフはその手を彼女の頬に滑らせる。先を促せば、彼女はわずかに口ごもり、恥じらうように顔を俯けた。前髪がさらりと顔に覆い被さり、色づいた唇が控えめに開いて言葉を紡ぐ。

「あとは、その……口づけ、されたり」

 照れが混じった彼女の呟きに目を細めた彼は、頬に置いた手で彼女の頭の位置を固定するとおもむろに顔を近づけた。今自分が口にしたことを実行されると思ったのだろう、アヤメはそれを受け入れようと反射的に目を瞑る。
 だが、ガノンドロフは唇が触れる寸前で動きを止めると、にやりと人の悪い笑みを浮かべて彼女の耳元に掠れた声を落とした。

「期待でもしたか?」

 至近距離での囁きに不意を突かれて、アヤメはびくりと肩を跳ね上げた。してやったりと笑みを深めれば、顔を耳まで真っ赤にした彼女がこちらを睨んできた。悔しさと照れの入り交じったその眼差しを、ガノンドロフは心地よく受け止める。

「……いつか絶対、私の方から驚かせてみせますからね」
「楽しみにしておこう」

 いつになるかは分からぬがな、とガノンドロフは挑発的に目を細めてゆっくりと立ち上がる。距離ができたことで少しばかり気が抜けたのか、アヤメは小さく息をついた。その吐息にほのかに色めいたものを感じ取って、ガノンドロフは低く笑った。……その期待に応えてやるのもやぶさかではないが、今は先に済ませねばならないことがある。

「ところで、アヤメ。我に何か言い忘れていることがあるのではないか?」

 唐突に変わった話題についていけず、アヤメはきょとんと瞬きをしてガノンドロフを見上げる。しばらくそうして彼を見つめていた彼女だったが、不意に彼が何を自分に求めているかを察したらしく、くすくすと笑いながら優雅に頭を下げた。

「お帰りなさいませ、魔王様」





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