短編 | ナノ


 ハイリア大橋の背の高い欄干によじ登れば、そこにはハイリア湖一帯を一望できる絶景が広がっている。遥か下方に煌めく湖、ゾーラの里から続く流れの速い川。切り立った岩壁の隙間から覗く飛沫を上げる滝も、ここからでは小さく見える。目を上げると遠くにはゲルド砂漠が霞んでおり、今にも沈まんとする太陽が、その雄大な景色を赤と金と黒に染め上げていた。まるで一幅の絵画の世界に迷い込んでしまったようであると同時に、その色彩はアヤメに一人の人物を思い起こさせた。
 ほう、とため息をついてアヤメは真下を見下ろす。つい先頃まで干上がっていたその湖がなみなみと満ちているのは、黄昏の世界を駆ける勇者がひとつの異変を解決したことを示していた。夕日を反射して金色に光るそれは、アヤメをいざなうように静かに揺らめいている。
 ――このまま見つめ続けていると、吸い込まれてしまいそうだ。例え落ちても持ち前の魔力でどうにかなる身だとはいえ、やはり怖いものは怖い。アヤメはじりじりと慎重に後ずさると、身を翻して欄干に登るのに利用した木箱へと飛び移る。雨風に長期に渡ってさらされた上に真っ黒焦げになっていると思えぬほど、その箱はしっかりとアヤメの体を受け止めた。

「……で、だ。ここに何をしに来た、アヤメ」

 不意に、頭の中に呆れ混じりのしゃがれた声が響いた。随分と唐突ではあったが、百年もこうして共にいるとさすがにその程度では驚くこともない。彼を憑依させた当初は声をかけられる度に脳がむずかゆく感じていたはずなのだが、もうそれにもすっかり慣れきってしまった。
 アヤメは穏やかな笑みをその声に返す。

「ずっとお城の中にいちゃあ、さすがに気詰まりでしょう」

 その視線がふと持ち上がってハイラル城を仰いだ。トワイライトから解放されてなおも黄昏に沈むその城は、夕日に照らされて黒々とした影を平原に落としている。

「それに、せっかく光の世界に戻ってきたんです。懐かしい場所、色々見て回りたくなっちゃうじゃありせんか」

 ガノンドロフは低く唸った。複雑そうなその声音は、アヤメの行動をあまり好ましいものと捉えていないことを如実に表している。だが現状を考えれば彼の不服も当然だ。
 ハイラル城の一室には、知恵のトライフォースの持ち主であるゼルダ姫が監禁されている。彼女はガノンドロフがこのハイラルを支配するための鍵でもあるが、同時に彼の計画をおびやかし得る危険因子でもある。それを放って、彼女はこうして悠々と外を満喫しているのだ。
 城にはザントが残っているから問題ないとアヤメは思うのだが、彼にとってはそうではないらしい。いくら自分の力の一部を分け与えてあるとはいえ、ザント一人に城を任せきりにしておくのはどことなく不安が残るのだろう。ひとたび理性を放棄した際の彼の脆さは、そこにつけ込んだガノンドロフが一番よく理解している。
 アヤメはあくまでも穏やかに、そんなガノンドロフの懸念を笑い飛ばした。自分がハイラル城にいようがいまいが、さして大局は変わりはしない。それにザントと邂逅してからというもの、ハイラル侵略のために働きづめだったのだ。自分だって、たまには一息つく時間がほしい。
 ――それにしても。アヤメは自分の立っている巨大な石橋をぐるりと見渡した。口元に描かれたゆるやかな笑みはそのままに、ほんの一瞬、その瞳が皮肉の形に歪む。
 百年前は、こんなハイリア湖を渡る橋など影も形も存在しなかった。それだけではない。カカリコ村はあそこまで辺鄙で険しい地形ではなかったし、城下町も数段広く賑やかになった。森にも人間が住むようになった。ハイラル王家公認の地図が行き渡ったお陰で、かつて民間ではあだ名でしか知られていなかった地名も正式名称で広く親しまれるようになった。
 胸の中に去来した切なさを振り切るように、彼女は空を仰ぐ。

「ハイラルも随分と様変わりしましたけど、夕空は相変わらず綺麗ですね」

 吐息混じりに呟いて、たなびく雲を眺めていた瞳を静かに閉ざしていく。百年越しに見つめる世界は、懐かしさと同時に時代から取り残されたような強い孤独を感じさせた。

「ねえ、ガノンさん」
「なんだ」
「そろそろ、会いたいです」

 風に溶けるような小声で囁く。ガノンドロフの応えはない。湖から吹き上げる風になぶられた彼女の髪が、赤く輝いた。
 影の世界に追放された彼が肉体を失って、もう百年が経った。その魂だけはアヤメの中に迎え入れてなんとか見失うことだけは免れたが、長らく慕う相手の姿も見えず、触れられもしないという状況がこれほどもどかしいものだとは思いもしなかった。
 声を交わすだけでは足りない。自分自身を抱き締めても虚しいだけだ。この指で彼の体に触れたい。その吐息を感じたい。暗く燃える金の眼差しを間近で見つめたい。――会いたい。積み重なった歳月が、じりじりと心臓を黒く焦がしていく。
 息苦しさを覚えて喘いだアヤメは、だが不意に自分の体に影が差したのを瞼の裏で感じた。――まさか。睫毛をわずかに震わせながら瞳を開けば、夕日を背後に浮かび上がる濃い闇がそこにあった。当然のように佇むその影は、記憶よりも背が低く感じる。……いや、彼の背が低くなったのではない。自分が木箱の上に立っているから、その分顔が近くなっているのだ。
 あまりに唐突な出来事に理解が追い付かず、アヤメはゆっくりと瞬いて自分に影を落とす巨躯を見つめる。何が起こったのかをようやく理解したアヤメの目の奥に、じわりと熱が広がった。それを冷まそうとして、彼女は薄く唇を開いて秋の冷たい空気を吸い込む。次いでその口からこぼれたのは、呆れたような笑い声だった。

「なんだ、もう体持てるんじゃないですか」

 軽く茶化そうとするその言葉が微かに震えを帯びていたのを、ガノンドロフが鼻で笑った。濃い陰影の中で、その口元が嘲りに歪むのが見て取れる。――そう、そうだった。彼はいつもこんな風に人を小馬鹿にするような表情で笑っていた。

「勘違いをするな。今ここにあるのは仮初めの体に過ぎぬ。一時的に魔力を固めただけの、移ろう影のようなものよ」
「あら、残念。それじゃあすぐ消えちゃうんですね」

 アヤメは後ろ手に指を組むと、改めて彼を見上げる。穏やかな笑みを含んだその視線の先で、ガノンドロフが――その影がわずかに揺らめく。どうやら、アヤメが口にした言葉は図らずも正鵠を射ていたらしい。
 彼は不安定に揺らぐ己の体に構うことなく、重心を片足に移して腕を組む。すっかり色褪せてしまった記憶と全く変わらぬ、傲岸かつ尊大な仕草である。懐かしさよりも先におかしさが込み上げてきて、アヤメは思わずくすくすと年端もいかぬ少女のように笑った。
 そんな彼女を金属めいた輝きを放つ瞳で見下ろしていたガノンドロフは、ふとその視線をハイラル城に投げかけた。その眼光がすっと険しさを帯びる。

「真に復活を果たすには、今少し力が足りぬ。我が肉体を取り戻すまで、せいぜいその身を粉にして働くことだ」

 激励とは思えぬほど嫌味な色を多分に含んだその声音に、アヤメはただ一言「頑張ります」と肩を竦めた。軽く流した形だが、ガノンドロフは小さく鼻を鳴らした程度で、さして気を悪くした様子もない。それどころか、彼女の不遜な態度をむしろ小気味よく感じているらしく、その口角はわずかに持ち上がっていた。

「でも、さすがに無報酬で頑張るのはそろそろ疲れてきちゃいましたね」
「ほう? この魔王の復活に立ち会える栄誉では足りぬと言うか」
「ええ。全然足りません」

 顎を上げてこちらの忠誠心のなさを揶揄する彼に、アヤメは動じることなく頷く。平然と即答した彼女に不快げな表情を作って片方の眉を跳ね上げたガノンドロフだったが、その瞳の奥には愉しげな光が見て取れた。アヤメは背中で絡まる指を組みかえて、悪戯っぽい眼差しを送る。

「だって、もう百年間も苦労してきたんですよ。ちょっとくらいご褒美をくれたっていいじゃないですか」

 低く喉の奥で笑う声と共に、闇を固めたような黒い影の肩が小刻みに揺れる。

「よかろう。貴様の労に報いて、このガノンドロフがひとつ褒美をくれてやる。……何が望みだ?」

 見上げる黒の輪郭が大きく揺らいだ。こうして互いに眼差しを交わらせることのできる時間も、もう残りわずかしかない。アヤメは半歩だけガノンドロフににじり寄る。すくい上げるように見つめるその眼差しには、艶然とした色が含まれていた。

「言わせないでください。私が何を望むかなんて、あなたが一番よく分かってるくせに」

 風に乗せた囁きは、あくまで穏やかな響きを纏っている。その裏に隠された甘い熱を耳にしたガノンドロフが、ひとつ鼻を鳴らした。その手がゆるりと持ち上がって、アヤメの頬に伸ばされる。――だが、確かに触れたはずの指先は、アヤメになんの感覚ももたらしてはくれなかった。一時的にその場に留めていただけの魔力が霧散して、もう実体を保てなくなっているのだ。
 温かさも冷たさも、指のざらつきも感じない。それでもアヤメの瞳に浮かぶのは、茶目っ気にあふれる穏やかな笑みだった。

「あら、乗り気ですか?」
「百年堪え忍んだのはこちらも同じよ」

 ガノンドロフの手のひらが角度を変える。それに合わせて仰向いたアヤメは踵を浮かせ、近づいてきたガノンドロフの頭部を抱え込むふりをする。その戯れに応えて、彼は瞳を細めて彼女と唇を重ね合わせた。触れ合う感覚など微塵もないはずなのに甘やかな痺れを唇に感じた気がして、アヤメは陶然とその瞼を閉ざす。

「喜べ、アヤメ。夜の帳が落ちるまで、そう間もない」

 自分の内側から聞こえたのではないかと錯覚するほど近い声が鼓膜を震わす。――ふと瞼の裏が明るくなった気がして目を開ければ、沈みきる寸前の太陽の最後の光が眼球を鋭く射た。闇に慣れた瞳にその残光はあまりに眩しすぎた。痛みにじわりと浮かんだ涙が、頬を伝ってぱたりと胸元に落ちる。

「期待してますね」

 一人橋の欄干に佇むアヤメは、両腕をだらりと垂らして夕日が火山の向こうに没するのを見送った。ふと低く笑う声が耳朶をかすめた気がして、つられた彼女の口元がゆるやかに弧を描いた。





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