短編 | ナノ


 アヤメは涼を求めて喘いだ。湿気を孕んだ海風が汗ばんだ素肌にまとわりつく。足元の岩盤からは熱がゆらゆらと立ち上ってきて、嘲笑うように全身を取り巻いている。こめかみから垂れた汗の玉が、首筋を伝ってじわりと服に染みを広げた。彼女は鬱陶しげにため息をついて、肺の中の熱を帯びた空気を押し出す。
 ――暑い。もう日も落ちたというのに、この暑気は一体どうしたことか。彼女はまだ赤みの残る空に目を向けて、わずかに眉を寄せる。全てを焼き尽くさんとばかりに照り輝いていた太陽は、役目を終えて海に沈んでもなおその影響を地上に及ぼしていた。
 いっそ、このまま眼下の海に飛び込んでしまえたら。だがその海自体も、昼間の熱にやられてすっかり茹だってしまっている。この熱から逃れるには、それこそ深海に沈むしかない。
 アヤメは簡素なシャツの胸元を恥じらいもなく引っ張って空気を取り込みながら、自分の巣の近くまで運んできてくれたジークロックの嘴を軽く撫でてやった。

「いい子ね」

 ジークロックは嘴を閉じたまま、きゅうと甘えたような声で褒美をねだった。だが、アヤメはそれに応じることなくただ微笑んだ。彼の仕事はまだ終わったわけではない。ジークロックにその場で待機するよう命令を下した彼女は、首筋に流れる汗の跡を拭いながら、島の最上部に鎮座している一隻の古ぼけた船まで気だるげな足取りで向かっていく。
 ――この島の支配者の居室の扉を開くなり、彼女はげんなりとした表情で部屋の主を見据えた。

「その格好、暑くないですか?」

 開口一番にそう言い放ったアヤメに、ガノンドロフは機嫌を損ねたらしくあからさまに眉を寄せた。羽織った長衣のたっぷりとした袖が、広く取られた窓から吹き込む海風に揺れる。よくもこの夏の最中にそのように着込んでいられるものだ。見ているだけで暑苦しい。
 ガノンドロフは彼は手に持っていた海図を器用に巻いて紐で括ると、ため息をついてアヤメをじとりと睨む。

「逆に問うが、貴様には貞節という観念はないのか?」
「かつての大妖精様に比べたらマシな方です」
「あれと比べるな」

 アヤメは軽く肩を竦めてみせた。確かに肩や脚を大胆にさらけ出してはいるが、そう騒ぐほどでもない。このくらいの露出をしている者なら、タウラ島に行けばいくらでもいる。そもそも、この猛暑なのだ。今日くらいは多少目こぼしをされて然るべきだろう。
 ガノンドロフは円筒の中に海図をしまうと、不満げな顔をするアヤメに目を向けて小馬鹿にするように軽く鼻を鳴らした。その眼差しが、むき出しになった素足を滑る。

「それで? そのような薄着で、ワシを誘惑でもしに来たのか」
「ふふ、それも悪くありませんね」

 アヤメは瞳をすっと細めて、色を含んだ笑みを浮かべた。ゆったりとした足取りでガノンドロフに歩み寄り、その胸に細い指を這わせる。着込んでいるとはいえ、そのたくましい胸板は生地越しにはっきりと感じ取れる。アヤメはうっとりと熱い吐息をこぼし、上目遣いに彼の金眼を見上げた。見返す眼差しはどこか面白がっている様子で、獲物の動きを観察する猛禽のようにアヤメの出方を伺っていた。
 だが掬い上げるように自分を見つめるアヤメの瞳から、ガノンドロフは彼女がこれ以上自分から動くつもりがないことを感じ取ったようだ。力強い指がアヤメの顎を無造作に掴み、ぐいと強引に持ち上げる。――今日の彼は随分と乗り気のようだ。獣じみた金の瞳を真っ向から見つめて、アヤメは艶然と微笑む。このまま夏の夜の暑さが分からなくなるまで、高まった互いの熱を交わらせるのも楽しそうだ。

「でも残念、今夜は違います」

 彼女は喉の下から手をするりと差し入れると、相手のごつごつとした指と自分の華奢な指を絡め合わせてそっと顎から外した。ガノンドロフは「ほう?」と片方の眉を器用に上げ、興味深げに彼女を見下ろす。彼の指を両手でやわらかく包み込んだアヤメは、あえて無邪気に見えるように朗らかに笑った。

「夕涼みに行きましょう」

 その言葉を聞くなり、ガノンドロフはあからさまに顔をしかめてみせた。




 重ねた歳のせいか世界が変わったせいか、ガノンドロフはすっかり出不精となってしまった。気持ちは分からないでもない。このどこまでも広がる大海原を眺めていると、その礎となって沈んでいったかの旧き王国に思いを馳せずにはいられないのだ。
 時を止め、永久の眠りに就いた美しいハイラル。それを犠牲に成り立っている今の世界を直視するのは、アヤメですらいくらかの寂寥を覚える。かの世界を求めたガノンドロフならばなおさら苦いものがあるのだろう。
 だが、そんな世界にも変わらぬものがある。ジークロックの首の根元で風を受けながら、アヤメは澄み渡った夜空を仰いだ。

「月が綺麗ですね」
「なんだ、藪から棒に。月などいつも見ておるだろう」

 無理矢理引っ張り出されたことを根に持っているらしい。ガノンドロフは不機嫌も露に鼻を鳴らすと、青い闇の真ん中に煌々と輝いている月をじろりと睨みつける。アヤメは背後を振り返り、自分に覆い被さる形で騎乗しているガノンドロフに苦笑を向けた。

「もう、風情がありませんね。今のは愛を告白したんですよ」
「それこそ、いつものことだ。なおのこと気にかける必要が感じられぬ」

 相も変わらずつれない人だ。アヤメは軽くため息をついて、視線を前方に戻す。
 夜が徐々に深くなり、風もようやく肌に心地よいものになってきた。ジークロックは悠々と翼を広げ、潮風に乗って大海原の遥か上空を駆けている。並みの船など及びもしない速度で飛んでいるにも関わらず会話を楽しむ余裕があるのは、アヤメが風除けの術を発動させているお陰だ。
 アヤメの持つ中途半端な魔力では、残念ながら完全に風を防ぎきることはできない。だがガノンドロフは、風の息吹を感じられるその絶妙な力加減が好みらしい。そのため、共にジークロックに騎乗する際に守りの術を施すのは、常に彼女の役割だった。
 いくつもの小島を眼下に見送ったアヤメの視界に、ようやく目的の島影が映った。月明かりにぼんやりと褪せた大樹の姿に、彼女は懐かしげに目を細める。

「見えてきましたよ」

 背後のガノンドロフに声をかけると、彼は低く唸った。その特徴的な輪郭を目にして、アヤメが示した島の名に察しがついたらしい。

「森の島か」
「はい。夜が明ける前に着いてよかった」

 そう呟けば、ガノンドロフが訝るようにこちらを見下ろしてくるのが気配で分かった。それに気づかなかった振りをして密かに笑みを浮かべたアヤメは、ジークロックに自分達を森の島で降ろすよう命令を下す。巨大な怪鳥は一声鋭く鳴いて、大きく旋回しながらゆっくりと下降していく。
 ――島をもう一周半したら、あの円筒形の巨木の淵にジークロックが爪を立てて着地してくれるだろう。アヤメその衝撃に備えて彼のがっしりとした首に掴まろうとしたが、逆に自分の首の後ろを掴まれて強く引っ張られて呼吸を詰まらせた。まさか、と思ったときにはもう遅い。アヤメの体はぐらりと傾き、引かれるがままに落ちていった。内臓が浮き上がるような感覚に、心臓がぎゅっと縮む。
 ……と、そこで胴に力強い腕が巻きつき、体が掬い上げられるように持ち上げられた。反射的にその筋肉質な腕にすがりつけば、同時に落下速度が急速に落ちる。
 重力のほとんど感じられない感覚が落ち着かず、アヤメはガノンドロフの小脇に抱えられたまま体を強張らせていた。ほどなく彼が巨木の頂上に降り立つと、浮遊の術が途切れて体重が体に戻ってくる。ガノンドロフの足幅ほどしかない細い淵の上へと降ろされたアヤメは、吹きつける風に体勢を崩しそうになって咄嗟にガノンドロフの腕にしがみついた。余裕のない様を面白がってか、頭上で喉を鳴らして低く笑うのが聞こえてくる。ガノンドロフの腕に自分の腕を絡めながら、彼女は眉を寄せてガノンドロフを睨みつけた。

「ちょっと、心臓に悪いことしないでください」
「この方が早いだろう」
「落ちたらどうするつもりですか」
「ワシがそのようなヘマをするとでも?」

 ああ言えばこう言う。口で勝てないことを知っているアヤメは反論を諦めると、軽く肩を竦めた。

「思いません。それより、ほら――」

 彼女は眼下の森を示して見せた。巨大な樹の中にぽっかりと開いた空洞。その薄暗い底に、無数の星のような光の粒がちらちらと瞬いていた。遠い葉陰に隠れてゆらめきながら、それらは深い森を涼しげに彩っている。

「夏といえば、蛍ですよね」

 森を起こさないよう、アヤメはやわらかく囁いた。

「以前ジークロックと上空を通りかかった時、偶然見つけたんです」

 清かな森の中で精霊と飛び交う光を夢見るように見つめていると、翼を打つ大きな音と共にジークロックが樹の反対側の淵に降り立った。そちらに目をやれば、彼は胸元の羽毛を大きく膨らませる。どこか自慢げなその様子に、アヤメは思わずくすりと笑った。今日は随分と遠くまで運んでくれた。彼には後でご褒美にマグテイルをたっぷりご馳走してあげよう。
 ガノンドロフは疲れと呆れの入り混じった吐息をつく。

「成る程、ワシはこれを見せにわざわざ森の島くんだりまで連れて来られたというわけか」
「いいじゃないですか。綺麗でしょう?」

 ガノンドロフは無言で森の底を見つめている。否定の言葉がその引き結ばれた唇から吐き出されないことに、アヤメは満足げに笑みを強めた。遥か下方に流れる川の音に耳を傾けながら、再び視線を落とした彼女はぼんやりと幻想的な光景に見入る。

「そう言えば、あの光も求愛行動なんでしたっけね」

 ふと思い出して呟けば、ガノンドロフの眼差しがこちらに動いたのを感じた。
 蛍の寿命は短い。聞くところによると、ああして光っていられるのはせいぜい一週間から二週間が限界らしい。彼らはその短い期間に、全力で番う相手を求めるのだそうだ。命を賭して愛を訴える彼らの想いは、その静謐な美しさとは裏腹にさぞ凄絶なものなのだろう。

「『鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす』――なんて、よく聞きますけど」
「貴様は鳴いてばかりおるな」
「あら。それのどこが悪いんですか」

 アヤメはガノンドロフを見上げて、心外だと言わんばかりにすっと瞳を細めた。秘めた想いは確かに美しい。だが、それも伝わってくれなければ意味がないのだ。真っ直ぐにひたむきに言葉をぶつけたとして、ただ黙して語らない恋より想いの強さが劣っているとは欠片も思わない。
 不満げに唇を尖らせるアヤメの表情が余程おかしかったのか、ガノンドロフは「ハッ」と短く笑う。

「誰が悪いなどと言った」

 彼はにやりと唇の端を持ち上げた。

「思うさま鳴け、アヤメ。貴様の囀る声は耳に心地よい」

 低く囁かれた言葉に鼓膜が甘く痺れ、愉悦に歪んだ金の眼差しに視線が吸い寄せられる。すがるように組んだ腕に距離の近さを感じて、触れている部分に熱が灯る。たったそれだけで陶然と思考をとろけさせてしまう自分がなんとも単純な人間に思えて、アヤメはくすくすと笑った。涼を求めてここへ来たと言うのに、これでは全く意味がない。

「お望みとあらば、いくらでも」

 アヤメは彼の腕に甘えるようにすり寄ると、踵を浮かせてそっと愛を囁いた。――月よりも蛍よりも、自分の心を捕らえて放さない獰猛な瞳を見つめながら。





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